「ちづ」がいなくなる日
「こう三日も続けて来るなんて、あんたもよっぽど暇なのねえ」
婆さんに百円を黙って渡し、ライチ味のアイスキャンデーを受け取る。
「三日も続けて来てるのに客の一人も見てないぞ。さすがに閑散としすぎだろう」
「ウチは学校帰りの子供が多いんだよ」
この駄菓子屋は小学校の通学路に構えており、かつ住宅街からは少し外れた場所でもある。わざわざお盆の時期に汗水たらして来るようなところではない。つまり今この店は俺のような退廃した若輩によって成り立っているのだ。ほら、お得意様が来てやってんだぞ。もう一本オマケしろ。
「そんなこと言い出したら、むしろアタシが金をもらいたいくらいだね。他に買う客もいないライチ味をあんたのために用意しておかなきゃならない」
ぐぐ。イチゴやスイカと並べても群を抜いてうまいと思っていたのだが。
「まあ今日は珍しくアンタで二本目なんだけれどね」
「ほう。同志がいるとは、ぜひともお目にかかりたいものだ」
「ついさっきだよ。かわいい女の子だったねえ。まだ外のベンチで食べているんじゃないのかい」
同胞は少女であったか。四捨五入すれば30歳になってしまうこの俺が子供とまともに会話などできるのだろうか。
店を出て裏に回ると、「……田中くん?」少女と目が合った。
少女と言ってもあくまで見た目上であり、実際は俺の同級生なので25なわけだが。
白いワンピースに麦わら帽子の出で立ちをした女は夏の憧憬そのもののようで、目を見張った。
細く伸びた腕は触れれば消えてしまいそうに細く、か弱い印象を与える。
昔と、まるで変わっていない。「……ちづ、か」
彼女の持つ食べかけのアイスキャンデーが棒からゆっくりと離れていき、地面へと落下した。
「ライチ味が三本も売れるなんて、一日の売上記録更新だよ」
買いなおしたそれをちづに手渡し、並んで青いベンチに腰掛ける。
「今日はね、実家に挨拶にきたの」
「お前の家、隣町じゃなかったっけ」
「うん。今回は旦那さんのほうの実家」
俺以外の男子とは目も合わせられなかったちづも結婚する歳になっちまったか。
「もうっ、同い年でしょ。あたしもう、大人の女だもん」
そうは言っても、最後に会ったのは13年前の卒業式だってのにまったく変わっていないからさ。俺が一人だけ老け込んじまったんじゃねえかって勘繰ってしまうんだよ。本当に、何も変わっていない。
その、緋色に染められた髪以外は――。
俺の視線に気づいたちづは、帽子を目深くかぶり直し、雷を怖がる子供のように縮こまった。
「セクハラ」
麦わら帽子を奪い取り、二メートルほどあるバス停のポールにひっかけてやった。
「大人ぶっても似合ってねえぞ」
「ふふん。何とでも言いなさい。あたしはもう大人の女――」
「はいはい分かりましたよ。おばさん」
ムキになって肩にパンチをしてくるところだって、あの頃と同じだ。やっぱり十年くらいじゃ変わったりはしないんだ。人も、町も。
「田中くんはさっ」
わざとらしい演技口調でちづは話を始めた。
「自分が、田中くんは自分が何者なのか考えたことはある?」
ないね。俺は俺で、それ以上でも以下でもない。大学の講義でも哲学や心理学の類は一度も単位を貰えなかったくらいだ。
「あたしのこの体はお母さんが生んでくれて、お父さんの名字があって、おじいちゃんに名前をつけてもらって――。じゃあ、あたしって一体誰なの? って、たまにちょっとだけ、思ったりするんだ」
「そんなのはみんな同じだ。それに、心は自分だけのものだろ」
緋色の長髪が揺れる。
そういえばこのアイスキャンデー、十本に一本は当たりと聞いているが、一度もそれを引いたことがない。あの婆さん、無垢な子供たちを騙していやがるな。唐突にそんなことが頭をよぎった。
のっぺらぼうのバーを睨んでいると、ちづはふいに立ち上がり、そのまま早足で駄菓子屋から離れていく。
「おい、帽子忘れてるぞ!」
呼び止めても、足を停める気配がない。
ようやく俺は失言をしたらしいことに気づいた。
小走りで追いかけ、ちづの右肩をつかんだ。
「……ごめん」
「田中くんは、何も悪く、ないよ」
カチンときた。
「俺はお前のそういうところ、悪いと思う」
こいつは何も変わっていない。人の顔色や気持ちばかりいつも気にしている。俺と友達になってからも、卒業するまでの間ずっと、俺の機嫌を窺ってばかりだった。
卒業式の日だって、いつもと同じように「またね」で済ませやがって。もう会えなくなることぐらい、こいつが一番知っていたのだ。
「あたしの心は、あたしのものじゃないから」
ちづは肩に置かれた俺の右手をそっと払い、振り返る。
大粒の涙があふれていた。
「あたしはずっとっ……両親のいいなりでしか生きていけなくて……。私だけ別の学校に行くのは嫌だってお願いしたけど……聞いてくれなくて……。もっと勉強したかった。アルバイトもしたかった。田中くんとも遊びたかった。
旦那さんとだって、まだ三回しか会っていないのに、勝手に親の間で決められて……。じゃああたしは、一体何のために、誰のために生きているの!」
こぼれ落ちた雫が服に染みを作る。涙で濡れた顔に髪が張り付いている。
「あたしはっ……もう『ちづ』じゃなくなっちゃうんだよっ!」
何度目かの席替えで、ちづと席が隣同士になった。
それまでまともに喋ったことはなく、また他のクラスメートと話しているのも見たことがなかった。それでも俺たちは、すぐに友達になれた。
名字で呼ぶと、ちづは怒った。
名前で呼ぶと、ちづは怒った。
「じゃあなんて呼べばいいんだよ!」
俺は怒った。
「うーん……うーん……じゃあ、『ちづ』って読んで! 今からあたしは、『ちづ』です!」
そう言って望月茜は笑った。
俺は安心していた。嬉しかった。
目の前で心の在処に嘆き、泣いている友達はちゃんと自分の心を持っていた。
ゆっくりと抱き寄せる。
ちづは声を上げて泣いた。
セミの声をかき消すように、ずっと泣いていた。
俺はずっと黙っていた。
緋色の髪が、太陽を反射してとてもまぶしかった。
「……でもね、あたしはちゃんと旦那さんと向き合うから。いっぱい話してもっとお互いのことを知って、これから仲良くなるから」
「相手の顔色ばかり気にするなよ。特に最初のうちはいっぱいケンカしておかないと、我慢しなきゃいけなくなるからな」
「はい」
「辛いときは、誰かに相談しなさい。俺でもいいから」
「はい」
「俺のシャツで鼻水ふいたろ」
「はい」
……まあいいさ。
その後、しばらく話をして、別れた。
仕事がだるいとか、彼女ができないとか、弟が留年しそうだとか、ほとんど俺の一方的な愚痴だったのだが。
ちづはその間、嫌な顔せずに耳を傾けてくれた。
結局のところ、何も変わっていないのは俺のほうなのかもしれなかった。
不平不満を垂れて、ダラダラ過ごして、歳ばかりくっていく。
きっと他の同世代と比べたら、俺ははるかに駄目人間なのだろう。
しかし実際、それに気づいたところで簡単に人は変われない。他人に説教をしておきながら、やがてその言葉は自分へと跳ね返ってくるものなのだ。
「…………」
だからもう少し、俺は頑張らないといけない。なぜならそう遠くないうちに、ちづとはまたここで会うことになるからだ。
ちづが食べた二本目のアイスキャンデーは、当たりだった。
ところがこれを販売しているのはこの店だけなので、当然ここでしか使えない。
来年か、はたまた再来年か。いつかの未来で俺たちはきっと再会する。
その日まで、少なくともちづが困ったときに頼りにされるくらいには、頑張ろうと思う。




