最終話 秘密基地から
重大なネタバレがあります。前話までを未読の方は注意してください。
「さて、今度はお前さんが誰かを救う番だ」
女が麻理子に向かって言った。麻理子は涙を拭った。
「三好、様子がおかしかった。自分を巴だと言い張ったり、悲観的な物言いをしたり……ねえ、巴さんってもしかして……」
「もう一度会って、お前さんがケリをつけるんだよ。そうすりゃ大団円さ。私もここを片付けたらすぐそっちへ向かう」
「俺がスクーターで送るわ。かっ飛ばせば三十分で戻れるはず」
圭くんが猛々しく名乗り出た。麻理子はもう一度、龍郎と向かい合った。
「お父さん、コーラを……マリコをお願い。私行かなきゃ……友達が待ってる」
「ああ、行っておいで。大丈夫、全てうまくいく」
笑顔で送り出す龍郎を背に、麻理子と圭くんはスクーターにまたがった。
「マリちゃん……」
麻理子は振り返ってしまった……涼子がすぐそこに立っていた。涙に濡れた赤い目でこちらを見つめている。胸の奥が痛い……母親の顔に、悲愴の涙を見たくなかった。
「つかまって!」
圭くんが声を上げた。そして、麻理子と涼子を繋ぐ唯一の絆を断ち切るように、スクーターは宅地の只中を疾走していった。
「圭くん、巴さんのことで知ってることがあったら教えて」
赤信号を見計らって麻理子が尋ねた。スクーターは民家もまばらな山間の国道で一息ついていた。
「ポチちゃんならもう気付いてると思うけど、三好は一人っ子よ。巴なんて双子の妹は存在しないわ」
「やっぱり……でも三好の部屋には二人並んだ写真があった」
「俺がデザイナーだって分かると、三好が頼み込んできたのよ。あれくらい朝飯前だったけど、出来上がった写真が部屋に飾ってあるのを見た時は結構ビビったわね。三好は見境なく、自分には双子の妹がいると触れ回ってたらしいし」
「どうしてそんなこと……?」
「分かんない……分かんないのよ。さっきだって、すごく不機嫌だった。俺ね、ポチちゃんと翔くんが会って話してるのを見たって、三好に喋っちゃったのよ。計画のこと知らなかったの。そしたら、三好がすごく怒って、お酒飲んで……また締め出されちゃった。それからすぐに電話が掛かってきたわ。今から指示する場所に、ポチちゃんのお父さんを連れて来いって」
山並みの背に太陽が沈み始めた頃、二人はようやく三好のアパートへと辿り着いた。しかし、中はもぬけの殻だった。飲み散らかしたビールの空き缶が散乱し、ベッドにはガウンが脱ぎ捨てられている。三好の姿はどこにも見当たらない。
「心当たりがある」
再びスクーターに乗り込みながら麻理子は言った。
「どこなの?」
「墓地」
間もなく、スクーターは墓地の入口である石階段の手前で停車した。麻理子は勢い良く飛び降りた余り、足がもつれて倒れそうになった。
「ここで待ってる」
バランスを欠いた麻理子に手を差し伸べながら、圭くんが朗らかに言った。
「俺には無理でも、ポチちゃんにならできるって信じてる。だから、三好のこと、お願いね」
「うん……やってみる」
自分に何ができるのか、三好にとっての幸せとは何か……たそがれの石階段を踏みしめながら、しかし麻理子にはその答えを見出すことができなかった。
「違う……そんなことじゃない」
肩で息をする合間に、麻理子は自分にそう言い聞かせた。この数日間、三好は麻理子のそばにいてくれた。それが麻理子にとっての幸せだったとは露知らず、三好は心の支えとなって微笑んでいてくれたのだ。
麻理子は歩を早めた。石階段を登り切ると、夕陽を浴びる数多の墓石越しに大きなほこらが見えた。お地蔵様が六体、おおような面持ちでこちらを見据えている。
麻理子はもう一度あたりを探ってみた。ここにヒマワリ畑へ続く抜け道があると、三好は確かにそう言っていた。だが、周囲は背の高い雑草と金網に囲まれ、麻理子の行く手を阻む一方だった。
「何で見つからないの……」
幼い日に辿ったはずの道を、麻理子はどうしても思い出せなかった。十年前には見つけられた抜け道を、なぜ今見つけられないのか? あの頃と今を隔てる決定的な違いは何なのか? あたりを徘徊しながら、麻理子は黙々と考えを巡らせた。そして、ある閃きが脳裏をかすめ、脇目も振らずその場にしゃがみこんだ。
麻理子は、まだほんの小さかった頃……今より三十五センチも背が低かった頃の視界とスケールを、今ここに再現しようと試みたのだ。そして、この目論見は大当たりだった。
視線を下げると、ほこらの内壁とひな檀の隙間の奥に、蝶つがいのくすんだ金具を視認できた。隙間は人ひとりがギリギリ通れる幅しかない。麻理子はひな檀の脇からほこらの奥へ体を滑り込ませると、屈み込んで薄暗い内壁をまさぐった。
指先はひやりと冷たい蝶つがいに触れた後、小さな木製の丸ノブをとらえた。ノブを回すと五十センチ四方の小さな扉が押し開かれ、向こう側から土と葉の香りがほのかに舞い込んできた。目の前には、四角く切り取られた夕空の雑木林が広がっている。麻理子は扉からほこらの裏手へと這い出し、胸いっぱい新鮮な空気を吸い込んだ。興奮の心持ちが幾分落ち着いた。
足元は緩い斜面になっていて、朽ちた石階段が眼下へ長く蛇行している。周囲を覆う雑木林は夕闇に紛れ、高くうっそうとしており、とても静かだ。
麻理子は石階段を駆け下りていった。あの頃はまだ、こうして走ることが好きだった。闇雲に、あるいは無鉄砲に。何十年でも何百年でも、走っていられると信じていた。そして、隣にはいつも三好がいてくれた。
最後の数段を一気に駆け下りると、開けた視界に広大なヒマワリ畑が姿を現した。小高い丘の傾斜に沿って咲き乱れるそれは、西日を浴びて、無数の花弁の一つ一つを明るいオレンジ色に輝かせている。舞い踊るトンボの群れがたそがれの空に溶け込み、麻理子を盛大に歓迎してくれた。
畑を突っ切る一本のあぜ道を、麻理子はひたすら走り続けた。ここにもまだ、〝匂い〟が残っている。地面を蹴るたび、麻理子の心はより深く十年前の夏へとさかのぼっていった。
秘密基地へと続くこのあぜ道を、毎日のように三好とかけっこした……転んで泣いた日もあった……陽が沈むのを嫌がっていた三好……明日も明後日も、またここで会えると信じていた……こんな毎日が永遠に続くと信じていた……それが三好にとっての幸せだったはずだ……そして、二人のそばにはいつもタマがいてくれた……今でもそれは変わらない……タマは、『3.14倶楽部』の顧問だった。
小屋のレンガ塀に寄りかかる着物姿の女を見つけた時、麻理子はすべてを思い出した。
「ずいぶん遅かったね。道を間違えちまったのかと思ったよ」
安達珠子が朗らかにそう言った。
「あなたが……タマだったんだ……」
目の前の光景が古びた記憶とリンクした。モノクロめいた記憶の断片が鮮やかな色彩で満たされたように、それはより鮮明に頭の中へ甦ってきた。小屋を背に、昔も今も、彼女がまとう才色兼備の風貌は何も変わっていない。
「ごめんなさい。ずっと気付かなかった……」
「言っただろう。頭の中なんてそんなもんさ」
肩をすくませ、笑いかけるタマを見て、麻理子は安らぐような親近感を覚えた。タマの正体を思い出したからには、心の奥で〝嘘つき初老女〟などと呼称するわけにはいかない。麻理子の知る中で、タマは誰よりも優秀な教師だったのだから。
「どうして私より先にここへ……?」
「私はここいらの地主だからね。近道なんていくらでも知ってるさ。この畑も、小屋も、山も、学校も、あのほこらも……そして、お前さんたち生徒でさえも、先祖から受け継がれてきた私の財産なんだよ。でも、十年前の私はお前さんたちを救えなかった。それがずっと心残りだった……」
タマの引き締まった表情が麻理子を見た。
「だから助けに来た。麻理子もそうだろ? 三好を助けるためにここまで走ってきたんだろ?」
「はい」
麻理子は剛毅の意思を示した。言葉に偽りはない。三好を助けたい、その一心だった。
麻理子はレンガ塀越しに小屋を見据えた。当時、気品な建築物の風情を醸していたそれは、『3.14倶楽部』の秘密基地として親しまれていた。杉で造られた平屋建てで、三角屋根と洒落た出窓が麻理子のお気に入りだった。周囲は背の低いいびつなレンガ塀に囲まれている。縁によじ登り、三好と並んでヒマワリ畑を見渡すのは日課のひとつだった。
敷地内にはあらゆる農具や薪、壊れたリヤカーが散在している。二人はその中を行進し、いよいよ扉の前に立った。それは枠にはめられた一枚板に過ぎなかったが、麻理子にとっては、十年前と今とを隔てる時間の境目そのものだった。この向こう側の空間に、きっと三好はいるはずだ。
「三好? いるんでしょ?」
麻理子は扉越しに声を掛けた。応答はない。麻理子はふと、『3.14倶楽部』の合言葉を思い出した。
「〝さんてんいちよん〟……三好、〝さんてんいちよん〟だよ」
「……おいで」
中からくぐもった声が聞こえた。麻理子は腹を据え、錆びた取っ手を引いた。
屋内は窓から射る夕陽の暖かさと、ほのかな杉の香りに満ちていた。三好の部屋ほどの広さがあり、床板には褪せたベージュの絨毯が敷かれ、窓際には肘かけ椅子が一脚、空を抱いて佇んでいる。殺伐とした部屋の真ん中に三好はいた……こちらに背を向け、膝を抱えて座っている。麻理子とタマは懸念の視線を見交わした後、静かに足を踏み入れた。
麻理子は回り込んで三好の前に立った。足元にはやりかけのすごろくが置いてある。愛くるしい動物の絵が施されたそれを、麻理子はかろうじて覚えていた。雑誌の付録を切り取って、麻理子がここへ持ってきたのだ。
「ポチの番だよ……十年待った」
その一言が痛烈に心を射抜いていった。急な転校を余儀なくされたあの日から、三好はずっと麻理子を待っていた。そんな三好の存在を忘れてしまっていた……忘れられるはずがなかったにも関らず……。
「三好……」
麻理子は口を閉ざした。謝るわけにはいかない。三好は決してそれを望まない。
「サイコロ振るよ」
麻理子は向かい合うようにして腰を下ろし、十年越しにサイコロを振った。
「『5』だよ、『5』が出た」
声を弾ませながら、麻理子の手は自然と某アニメキャラの小さな食玩に伸びていた。このフィギュアを駒に選んだことを、まだかすかに記憶していた。止まったマスには『いそいで3マスもどる』と記されている。
「ほら、急いで戻って」
三好がせっついた。見ると、膝小僧の間から虚ろな瞳で盤面を見下ろしている。麻理子はせっせと3マス戻った。
「次、タマの番だよ。タマ?」
「はいはい」
タマは着物の裾を折って上品に座るや、袖をまくって勢い良くサイコロを投げ飛ばした。サイコロは三好の向こうずねに当たって跳ね返ってきた。
「いてえっつうの……」
「わざとだよ」
口元で笑いながら、タマは研磨された黒曜石の駒を動かした。麻理子は、タマが当時、特に用のない黒曜石をこれ見よがしに巾着袋から取り出しては、三好が好奇の眼差しを向けるのを見て心底楽しんでいたのを思い出した。
「何笑ってんの?」
三好が不機嫌な声色を発しても、麻理子はくすくすと笑い続けた。
「楽しいな、と思って」
麻理子は正直に答えた。再びうつむいた三好の顔が、少しほころんだように見えた。
「思い出せたよ、色んなこと。三好がそのきっかけをくれた」
「あたしは何もしてない……行動したのはみんなあんただった。あたしは逃げ回ってただけ……タマからも、そしてあんたからも」
「逃げたっていいじゃないさ」
タマがそっと声をかけた。
「私もたくさん逃げてきた。そうすることでしか見えてこないものを、私は山ほど知ってるつもりだよ」
「タマが逃げるはずない。そんなの、あたしの知ってるタマじゃない」
「大げさな話さ……世の中の綺麗なもの、汚いもの……自分が今どちら側にいるのか、段々分からなくなっちまう。時の流れってのはそんなもんさ。〝生きる〟意味を知ろうと、誰もが躍起になるだろう……それを恥じと思っちまうほどにね」
「何でも知った風に言わないで……」
三好は目を剥き、語気を荒げた。
「私はただ、誰かを支配していたかっただけなんだ。あだ名をつけて、そいつより優位に立つことで安堵していたかった……あたしには、そういうズルさがあるんだ。そんな自分が大っ嫌いだった……」
沈黙が……麻理子にとってはいたたまれない程の沈黙が、小屋の中の時間を止めてしまった。誰も口を利かず、サイコロも振らない。麻理子は、西日の逆光の中に黒い影となって存在する二人の頭越しに、歪んだ内壁の板張りを見た。黒のマジックで大きく『3.14』と殴り書きされている。
「何で『3.14』なんだっけ?」
麻理子は調子外れな声で問うた。三好が生気のおぼろな表情でこちらを見た。
「ここが三石町だからでしょ……語呂合わせよ」
「それだけじゃないさ」
よっこらせと立ち上がり際、タマが言った。
「『3.14倶楽部』は私にとって宗教みたいなもんだった。ここにいる三人が初めて顔を合わせたレクリエーションの日、私は私のお遊びにお前さんたちを巻き込んだ……この倶楽部を発足させることで、学校長としてのエゴを貫こうとしたのさ」
「どういうこと?」
麻理子は、殴り書きの『3.14』に指を這わせるタマの後ろ姿に向かって、怪訝な声色を投げかけた。タマが物憂い面持ちで振り返った。
「信念があったのさ……学校長に就任したばかりの私が抱いていた、理想や、意気や、情熱といった強烈な信念がね。『3.14』もその一つだった」
「…………二人とも、ここからは年寄りの与太話と割り切って聞いとくれ。いいかい? この世は〝円〟の上に成り立っている、というのが私の哲学だった」
「円って……お金? 丸?」
麻理子が尋ねた。
「丸だよ。正確には循環のサイクルと、周期のリズムだ。万物はこのサイクルとリズムの螺旋を描いて摂理を保っている。時間も空間も、天気も季節も流行も、大気の外側やミジンコでさえ例外なく、その螺旋の渦に身をゆだねている」
「もっと分かりやすく」
二人が揃って駄々をこねると、タマは明け透けに眉をひそめた。
「地球だって回ってる。簡単だろ?」
麻理子は思わず納得してしまった。三好も顔をしかめはしたものの、それ以上何も言わなかった。
「もちろん、私たちの中にも〝円〟は存在する。運命ってのがそれさ」
タマが何を伝えたいのか、麻理子は段々と分かってきた。
「繰り返される幸と不幸、出会いと別れ。退屈な毎日も、忙しない日常も、生や死さえ、些細な巡り合わせのちりあくたに過ぎやしない。でもね、そんなものに思い煩っちまうのが私たちのしがない性ってやつなのさ。誰だって一度や二度、運命にあらがいたいと悩んだことがあるだろう……生まれ持った欠点や境遇を、リセットしたいと願ったことがあるだろう……三好、お前さんは今までに何を望んできた?」
「あたしは……幸せでいたかった。家族のいる幸せ……料理のできるお母さんがいて、相談に乗ってくれるお父さんがいて、一緒にプリクラを撮れる姉妹がいる……そんな幸せ」
「その望みこそがこれさ」
タマは壁に記された『3.14』をノックした。
「運命である〝円〟を明確にするには『3.14』という円周率が必要だ。それは誰もが持ってる欲望そのもの……麻理子にも三好にも、そして私自身にも、それはあったんだ。麻理子、円周率の特徴を言ってみな」
「永遠に続くこと。終わりがないこと」
よどみなく答える麻理子に向かって、タマは満足げに微笑んだ。
「こいつはまさしく、私たちの持つ底無しの欲望に紛れもないってわけさ」
「でも手放したくない」
三好が反論した。タマは何度もうなずきかけた。
「それが生きるってことさ。誠実な人間は、欲望を希望と呼びたがる……十年前の私がそうだったようにね。私は、若いモンに希望を持って生きてもらいたいんだよ。少なくとも、お前さんたちの『3.14』にはまだ夢があるじゃないか。この世知辛い社会に希望を見出せるだけの夢が。自分たちが『3.14倶楽部』のメンバーであることを、少しは誇りに感じてほしいもんだね」
言って、タマは部屋の隅へ移動すると、勢い良く絨毯をまくり上げた。麻理子と三好は転がるようにその場を飛び退き、絨毯の下から露になったものをまじまじと見た。
それは色とりどりの絵だった。正確には、床一面に描かれた子供の落書き。家や花や動物、お菓子や似顔絵が暗号じみた文字列と一緒くたに埋め尽くされている。
「あたしとポチの絵だ……あっ」
三好が突然笑い出した。
「ヘッタクソな字。〝私のゆめ。うちゅうでバタフライ〟……意味分かんねえ」
「それ自分のでしょ? 私はお城とみんなの似顔絵を描いたんだよ。覚えてるもん」
「あたしは恐竜を描いたよ。ペットにしたかったから」
「どれ?」
「あんたが踏んでるやつ」
束の間、二人は自分たちが十年前に描いた夢や理想に思いを馳せていた。
「頭の中でも写真でもない……思い出の残し方ってのはこうやんのさ」
二人がはしゃぐその脇で、タマが大きく声を張った。
「素敵だろう、失くしたものを見つけた時の喜びは。本当の思い出はそうあるべきなのさ。形だけ求めるなら、旅行先で買ってきた安物の骨董品でも代用できるんだからね。でも、私たちがここに刻んできたものはそんな陳腐な代物じゃなかったはずだろ?」
「そうだね……タマ」
三好の目に涙が浮かんだ。しかし、口元にはまだ笑みが残っている。
「ここに巴はいなかった……ポチの描いた三人分の似顔絵がそれを証明してる。あたしにとって巴は、嫌な思い出をなすりつけるための道具でしかなかったんだ。そうすれば救われると思ってた……ズルいよね……憎かった……こんな生き方しかできない自分が……」
「でも、再会したあの夜、私を助けてくれたのは確かに三好だった」
麻理子は満面の笑みで三好を見つめた。
「私は、〝幸せだった?〟って聞いてくれた三好に、誰よりも幸せになってほしかった。私にできることはちっぽけなことだけど、それでも、こんな私にだって誰かを助けることができるんじゃないかって……苦しんでる誰かのそばにいてあげられるんじゃないかって……そう考えられるようになったのは、三好が私にとっての幸せが何かを、ちゃんと思い出させてくれたからなんだよ。だから今度は、私が三好を助けたい。そのためにここまで走ってきたんだもの」
気付くと、麻理子は三好の腕に抱きしめられていた。心地良い暖かさに包まれて、麻理子は微かな三好の声を聞いた。
「ありがとう……麻理子」
一ヶ月が経った晩夏のその日……。
夏休みを三好の部屋と秘密基地で過ごした麻理子にとって、三石町との別れを迎えるその日は寂しくもあり、同時に嬉しくもあった。親権を取り戻した龍郎との新たな生活が始まるからだ。
「送るよ」
キャリーバッグに荷物を詰め終えると、三好が笑顔で言った。その足元を、コーラがすばしっこい足取りでついていく。
「こいつ、すっかりなついてやんの」
「三好が腰を上げると餌をもらえるって思い込んでるんだよ。今まで気付かなかった?」
二人はアパートの外へ出た。抜けるような青空と、眩い太陽、地上を見下ろす入道雲。三石町のいつもの姿だ。
薄暗い路地の向こうに白い乗用車が停まっている。迎えに来た龍郎の車だ。
「さよなら……だね」
声が思うように出てこない。絶対に泣くものかと決心したはずなのに。
「これが初めてじゃない。だろ?」
三好は笑って、麻理子の頭をクシャクシャっと撫で回した。
「また会おう。十年後でも二十年後でも、あの小屋で、先生も一緒に」
「……うん」
心の奥から悲愴感が消えた。二人は笑顔で向き合った。
「またね、三好」
「ああ、元気でな」
コーラが駆け出す。麻理子はその後を追った。
「麻理子!」
振り向くと、拳を突き上げる三好の姿が見えた。
「負けんなよ! 麻理子!」
麻理子はようやく、記憶の底に生きるその言葉の主を知った。勇気づけてくれる言葉、戦う力をくれる言葉……。
「そうじゃないかって思ってた……三好だったらって……」
「え、何? 聞こえない」
「大好きだよ、三好」
麻理子はそっと、三好の細い体を抱きしめた。
あの日から永久に……三好は、麻理子の中で生きていく。
― 完 ―
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました!