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第五話 決着をつけに

※重大なネタバレを含みます。前話を未読の方は注意してください!※




 厳然を呈する沈黙のアパートを前にしても、麻理子の決心が揺らぐことはなかった。

 見上げると、周囲を取り囲む家々の輪郭に切り抜かれて、澄みきった青い空が広がっていた。昼下がりの太陽の斜光が麻理子を射抜き、一階東側のドアを照らしている。この質素な木造ドアの向こう側に三好がいる。

 麻理子は仕入れ立ての旅行用ペットケージを脇に置き、乱雑に積み重なった鉢植えの一番下から部屋の鍵をつまみ取ると、鍵穴に差し込んでゆっくりとひねった。施錠の外れる音が聞こえた。


「待て」


 麻理子が言うと、コーラはドアの脇で衛兵さながらの不動体勢を披露した。ペットショップの前で試したところ、予想通り、コーラは麻理子の指示に大人しく従ったのだ。元飼い主の堅実なしつけっぷりには舌を巻くばかりだ。

 麻理子はドアを開けた。玄関の薄暗がりから見える六畳一間には、テーブルに突っ伏す三好の儚げな姿が窺える。それは、触れると粉々に砕けてしまいそうだった。だらしなくガウンをまとい、ブロンドのロングヘアーを乱し、握り潰された缶ビールを片手に微動だにしない。

麻理子は臆せず部屋へ踏み入った。長居はしない。三好がそれを望んでいる。


「三好」


 麻理子が毅然と呼び掛けた。三好は首だけ僅かに動かし、すげない眼差しでこちらを見た。


「おかえり、ポチ」


 その不穏な響きには、麻理子の英気をくじかせる魔力めいたものが込められていた。


「気持ち悪い……飲み過ぎた」


「三好、私の話を……」


「ひどいツラだろ? これはあたしじゃないんだ……あたしのはずがない」


 三好の顔はまたも腕の陰に隠れてしまった。何かがおかしい。


「どうしたの? 三好、何か変だよ……」


「あたしは巴だ」


 くぐもった声が聞こえた。麻理子は怪訝に顔をしかめた。


「酔い過ぎよ。あなたは巴じゃなくて茜……」


「違う!」


 予期せぬ大音声に、麻理子は思わず後ずさりしていた。三好がおもむろに立ち上がり、あの冷酷な瞳で麻理子をねめつけた。


「あんた、茜の何を知ってる? 茜が誰かに怒鳴ったり、睨んだり、醜態を晒すようなヘマをすると思う?」


「それは……」


「テストで赤点取るのも、家事を失敗するのも……人間の汚い部分を露出して、利己主義に生きてきたのはみんな巴だったんだ。全部あいつのせいにして、あたしは良い子を演じてればそれで満足だった」


 張り詰めた沈黙がのしかかってきた。告げようとしていた言葉が何一つ出てこない。眼球を通して恐怖が入り込み、麻理子の喉をすっかり塞いでしまっている。麻理子には、目の前に立つ女が三好の皮をかぶった別の何かに見えていた。


「本題に入ろうか」


 三好が冷徹な口調で改まった。


「あんた、今日誰と会ってたの?」


「え……?」


 麻理子の中に疑念が生じた。当の仕掛け人であるはずの三好が、翔を知らないわけがない。麻理子を試しているのだろうか?


「安達翔……知ってるでしょ?」


「安達って……」


 三好は明け透けに視線を逸らした。


「圭くんから聞いた……さっきあいつがここに来たんだ。商店街で、ポチが若い男と会って話してるのを見たって……」


「うん、会ったよ。三好だって知ってるはずでしょ、安達翔のこと……」


「知らない……そんな男は知らない!」


 再び癇癪を起こし始めた三好は、聞き分けのない不品行な子供さながらだった。それは、三好茜を象る最古の記憶に合致するものがあった。十年前から何も変わっていない。


「あたしのことなんかほったらかしで、あんたは真っ昼間から男とデートしてるってわけ?」


 三好は身勝手に吠え続けた。麻理子は腑に落ちなかった。


「だって……これは三好が仕組んだことでしょ? 三好が私を送り帰そうとして……」


「知らねえよ!」


 三好が声を枯らして叫んだ。


「ポチはあたしんだ! 他の誰のものでもない!」


 涙が三好の紅潮した頬を伝い落ちていくのを見て、麻理子はようやく悟った。

 完全な誤解だった。あの三好が……ずっと一緒にいてくれることを約束してくれた三好が、麻理子を疎ましく思うはずがなかった。


「私そんなつもりじゃ……彼に呼び出されて、それで会いに行ったの。なぜか『3.14倶楽部』のことを知ってて……私てっきり、三好が彼に話したのかと……」


「それで? 何?」


 三好がしゃくり上げた。


「ポチにとっちゃどうでもいいことだったんだ。養ってくれるのがあたしだろうと、その男だろうと……」


「勘違いしないで! その人警察だった……手帳を見たわ。私を連れ戻しに来たのよ。誰かが裏で情報を流してる。三好……私帰らなきゃ。相生市へ」


「またかよ……」


 三好は荒い嘆息を吐き散らした。


「あん時みたいに……また……みんな……あたしが不甲斐ないから……みんなであたしを置き去りにして……」


「……ごめん」


「あたしに謝るなっつったろーが!」


 三好の手が麻理子の胸倉に掴みかかった。


「同情なんか大っ嫌いだ! あたしが謝られるようなことしたかよ? あんたが謝るようなことしたかよ? 薄っぺらいお情けなんか糞食らえだ!」


 麻理子は山積みのゴミ袋の上に突き飛ばされた。気迫に圧倒され、受け身すらとれなかった。


「行っちまえ! ……早く!」


 背中に罵声を浴びながら、麻理子は逃げるようにしてアパートを飛び出した。コーラは同じ姿勢を保ったまま、しかしどこか案じ顔で麻理子を見上げている。麻理子は笑ったつもりの表情でコーラを見つめ返した。


「おいで……帰ろう」


 離れ際、麻理子はもう一度アパートを振り返った。三好がすぐに後を追ってきて、今起こったこと全てを水に流せるはずだと信じていた。しかし、アパートはだんまりを決め込んだまま、ただその場にじっと座り込むだけだった。




 夏の鈍行列車は麻理子の雑念と後悔を引きずりながら、代わり映えのない鮮緑色の景観を横目にひた走り続けた。車窓越しに、山裾から遥か続くあぜ道を見渡すことができる。広大な畑に青々と育つ稲が、低く流れる雲の影に紛れて風に揺れていた。

 麻理子の胸中は恐怖を帯びた不安感にまみれていた。この列車の行き着く先で、悪魔が牙をむいて待っている。生半可の殺意を誇示したあの夜から、まだ三日と経っていない。記憶の彼方から悪魔の笑い声が聞こえる。


『小娘が……所詮、お前にできることなんかその程度だよな』


 麻理子は拳を握った。事態はかんばしくない。この二日間の成果と言えば、十年越しの悪路を辿り、三好を怒らせて颯爽と折り返してきたことくらいだった。加えて、あの国見英樹がそう易々と麻理子を歓迎してくれるはずがない……悪魔流の〝しつけ〟を口実に自慢のパンチを見舞われることになるだろう。そうなれば、ケージの中のコーラもただでは済まないはずだ。


 三十分後、麻理子は相生市の駅前広場に降り立っていた。ビル郡の狭間に入道雲がそそり立ち、嬉々として行き交う休日の人間たちを寛大に見下ろしている。相生市の空は狭い。建物はどれも高く、排ガスが空によどんでいる。そもそも都会人は空を仰がない。欲しい物の多くを地上数メートルの手中に収めているせいだ。

 あの雲の架け橋がここと三石町の空を繋いでいる事実を、一体どれほどの人間が知っているだろうか?

 麻理子はケージからコーラの巨体を引っ張り出すと、脂肪に埋もれた首輪にリードをくくり付けて歩き出した。いつまでも尻込みしているわけにはいかない。

翔が「負けるなよ」と言ってくれた。三好からは戦う勇気をかき集める術を教わった。コーラがそばにいる。

 勝機がないなら当たって砕けるしかない。




 悪魔の家が見えてきた。駐車スペースには年代物のオンボロジープが停まっている。悪魔の愛車だ。麻理子は一度、この悪魔の化身に乗ったことがある。乗り心地の悪さは他の追随を許さないだろう。硬い椅子は尻の直下から震動と衝撃を伝え、どこをドライブしても荒野のオフロードを走っている気分にさせたし、車内に充満するガソリンとタバコの悪臭も手伝って車酔いを誘発させた。

 母の涼子が再婚してからの三年間は、まさに荒野のオフロードを突っ切る地獄のドライブも同然だった。窮屈と苦痛の居心地、視界に入るものはなく、誰も助け出してはくれない。そして今この瞬間も、そのドライブは続いている。どこへ向かうのか、どこで降りるのか、何も分からない。


 ドアを前に、麻理子は二の足を踏んでいた。恐怖が足をすくませている。勇気の蓄えも、ため込んできた恨みも、浴びせようとした幾多の雑言も、畏怖の渦に呑まれて雲散霧消してしまった。

 その時、コーラの柔らかな毛並みがくるぶしに触れた。どうやら勇気付けのつもりらしい。麻理子の足にすり寄って、凛とした表情でこちらを見つめている。麻理子は闘志を奮い起こした。


「ありがと……いきますか」


 一歩踏み出した時だった。おもむろにドアが開き、中から姿を現した涼子とバッチリ目が合った。めかし込んだよそ行きの身なりはとても上品だが、ポカンと半開きの口がとても滑稽だった。


「マリちゃん……」


 涼子は切羽詰まったまま、二の句を継げないでいた。それは麻理子も同じだった。どうしていいのか分からない。


 折しも、涼子の背後から一人の男が現れた。国見英樹その人だ。涼子とは対照的に、やぼったい柄のTシャツ、短パン、サンダルを着用し、寝起きそのままの風貌で突っ立っている。麻理子を見つけるや、不潔な無精ひげの下から愚弄の笑みを浮かび上がらせた。


「どのツラ下げて帰って来やがった?」


 麻理子は答えられなかった。悪魔がじわじわと詰め寄ってくる。心臓が狂ったように脈打ち始めた。


「『もう帰らない』はずじゃなかったのか? それとも、俺を『死ぬより辛い目にあわせる』方法でも思いついたのか?」


 歯の浮くような嫌味の数々……揚げ足取りはこの男の十八番だった。麻理子は沈黙を保ち続けたが、決して悪魔から目をそらすようなことはしなかった。


「むかつく」


 眼前で悪魔が吐き捨てた。


「やめろ、その目……気に入らねえ……やめろっ!」


 悪魔が髪の毛につかみかかった。ぶれる視野に、駆け寄る涼子の姿が映った。


「だめ! こんな所で! 誰かに見られちゃう!」


 道路に突き飛ばされる直前、耳元で髪の毛の切れる音が聞こえた。コーラが悪魔の足に噛みついた。


「んだよ、こいつ!」


 麻理子の視界に、奮闘するコーラの雄姿が飛び込んできた。悪魔がいくらもがこうと、コーラは懸命に喰らいついて離れない。しかし、知恵を働かせた悪魔には一歩及ばず、コーラは足に噛みついたままジープのバンパーに叩きつけられ、タイヤの脇に伸びて動かなくなった。

 麻理子は怒りに我を忘れて立ち上がった。


「……悪魔!」


 腹の底でうなり声が轟いた。


「全部あんたのせいだ! あんたさえいなければ……」


「気色ばんでんじゃねえよ」


 悪魔が脂っこい鼻の上から麻理子を睨み落とした。


「クソガキが……それが親に対する口の利き方か?」


「私に親なんかいない。あんたはただの疫病神だ」


「もういっぺん言ってみろ……」


「飲んだくれの甲斐性無し。暴力にすがったあんたの負けだ」


 悪魔の平手打ちがもろに麻理子の頬を張った。足がもつれ、麻理子は横たわるコーラのそばにくず折れた。コーラの弱々しい呼気が聞こえる。視界がかすみ、セミの鳴き声が遠くなった。

麻理子は朦朧とする意識を繋ぎ止めようと、何度も目をしばたいた。誰かが通りの向こうから歩いてくる……見覚えのある藍色の着物姿だ。


「派手にやったね」


 気付くと、着物の女が目の前に立っていた。麻理子は目を疑った。悪魔と悠然と向き合うのは、三石町で出会った嘘つき初老女に間違いない。執念の賜物か、女は確かにそこにいる。


「たいがいにしろ、この大馬鹿者!」


 女が一喝すると、悪魔はせせら笑った。


「ババア、ボケてんのか?」


「その馬糞まぐそみたいな顔を忘れられるなら今すぐボケたいところだけどね、あいにく、私の体は骨一本欠けちゃいないよ」


 女が更に間合いを詰めた。


「おいたが過ぎたね。証拠は挙がった。言い逃れはできないよ」


 麻理子は頭をもたげつつ、悪魔の横顔に危惧の想念を見て取った。額から噴き出す汗の粒をぬぐい、食いしばった歯の隙間から何か言いたげに顔を歪ませている。


「立てるかい? 頑張ったね。よくやったよ」


 麻理子は差し出された女の手をつかみ、立ち上がった。


「どうしてここに……?」


「すぐに分かるさ」


 女は巾着袋から携帯電話を取り出し、誰かに電話をかけ始めた。


「お膳立ては整った。そっちのあんばいは? ……よし、出ておいで」


「……どこに電話してやがる」


 かたわらで悪魔が声を張った。歩く枯れ木のような女に指一本触れられないことを、ひどく悔やむような語調だった。女は大して取り合わなかったが、その顔には優雅な笑みが据わっていた。

 浅い呼吸を繰り返すコーラをいたわっていると、向かいの家から誰かが出てきた。間違いない……安達翔だ。先ほどと変わらない出で立ちと笑顔で、こちらに歩み寄ってくる。


「終始うまくいったよ、ばあちゃん」


「え……ああっ!」


 麻理子は痛みも忘れて立ち上がった。不完全だった物事の繋がりが、一つの決定的な答えとなって頭の中に現れた瞬間だった。


「もしかして、翔に『3.14倶楽部』や三好の情報を流して私に連絡させたのは……」


「私だよ」


 女がほくそ笑んだ。その脇で、翔が面目なさそうに破顔した。


「僕の祖母なんだ。黙っててごめん……約束破ると祟られるから」


 言って、翔は決然たる表情で悪魔と向き合った。悪魔は強気に仁王立ちしていたが、涼子はそんな男の肩に身を寄せ、案じ顔をこしらえていた。これから始まろうとしている見世物に、上等な不安を覚えたような表情だった。


「申し遅れました……こういった者です」


 翔が警察手帳を取り出し、こめかみあたりに掲げてみせた。効果てきめん。二人は目を見張ったまま、戦慄めいた様相で凍りついた。麻理子にとっては愉快極まりない表情だ。


「まず、僕らがここに集うことになった経緯をお話しなければなりません」


 翔が冷静に切り出した。悪魔は説教に怯える子供じみた体裁を維持していた。


「これは聞きかじった話を繋ぎ合わせただけですが、真実と差異はないでしょう。事の発端は……そう、彼女があなたの暴力に耐えかねて家出した二日前の夜にさかのぼります」


 翔は麻理子を一瞥し、またすぐに悪魔と向き合った。それは、経験上の成せる業……そうやって視線で繋ぎ止めている間は、悪魔のような類の大人がしおらしく沈黙してくれることを重々心得ている男の成せる業だった。


「家を出た彼女は、その夜の内に相生市のファーストフード店へ立ち寄り、そこで出会い系サイトに登録した。サイトを運営する会社に問い合わせ、彼女が登録した日時と、サイト内にアクセスしたログを確認してもらったので間違いありません」


「どうして登録した場所まで……?」


 麻理子はつい質問してしまった。翔は目の端で麻理子を見た。


「プロフィールに使われていた画像だよ。君が店内で撮影したものだろ? 画像を解析して撮影日時を割り出し、君が店内の防犯カメラに映った時刻と照合した。それに、君と一緒に写り込んだ女性……覚えてる? 君の後ろの席にいたと思うけど。僕は彼女を知ってる……仕事上のソレでね。だからそこが相生市だと分かったんだ」


 曖昧な記憶が甦ってきた。確かにあの晩、背後に下品な女の気配を感じていたし、警察に通報した旨を大声で話していた。どうやら、あの通報で駆けつけた人物が翔だったらしい。そして、彼に職務質問を受けた男こそ……


「話を戻しましょう」


 翔が仕切り直した。


「結果、彼女は生まれ故郷である三石町へ向かうことになります。サイト経由で遠藤という男から連絡があったためです。身寄りのない彼女は、素性の知れない男に助けを乞おうとした……そうだよね?」


「はい……失敗しちゃったけど」


 麻理子は小声で請け合った。翔は満足げに頷きかけた。


「ホテルに連れて行かれそうになった彼女を助けたのは、旧友の三好茜でした。二人はこれをきっかけに同棲を始めます」


「それがどうした!」


 悪魔がしびれを切らした。


「それとこの井戸端会議と、何の関係がある? 全部その小娘がしでかした失態じゃねえか! 俺たち大人に逆らった報いなんだよ……」


「おだまり!」


 女が鋭くたしなめた。


「乳臭い流儀を鼻に掛けて、ずいぶんと偉そうに振る舞うじゃないか。言っとくがね、あたしの目には大人なんか一人も映っちゃいないよ。見せかけの強さに甘えて偉大ぶるのはやめな、みっともない! だから子供がグレんのさ!」


「ばあちゃん!」


 翔が止めに入るまで、麻理子は虎の威を借りた狐の気分だった。女は、麻理子がしたたかに言ってやりたかったことを、彼女なりの痛烈な言い回しでみんな代弁してくれた。


「話を戻しましょう」


 祖母をうまく黙らせると、翔はその言葉を繰り返した。


「彼女が家出した翌日……つまり昨日、彼女は三石町の墓地前で僕の祖母と出会います。祖母は彼女のことを覚えていました。かつての教え子だったからです」


 麻理子は無表情の女の横顔に視線を走らせた。


「当時も今も、私は学校長だよ。この子が教え子だったわけじゃない」


「でもばあちゃんは、百人近い生徒の名前と顔を全部覚えてたじゃないか」


「あの時の私にはまだ熱意があった……ただそれだけのことだよ」


 女は悲哀をはらんだ表情で麻理子を見た。


「十年前に三石町を離れ、それっきり姿を見せなかったお前さんが三好といるのを見た時、一瞬……ほんの一瞬、私は十年前の自分を取り戻す期待感に煽られちまったんだよ。心の隅では若さを取り戻したいと願ってもいたし、そんな自分を恥じてもいた。だからお前さんを通じて三好を助けようとしたのさ。今を今と割り切れない精神の弱さを見透かされないためには、正義を気取ってるのが一番手っ取り早いからね。でも私は、三好よりまずお前さんを助けるべきだと判断した」


「……私が家出したことを話したから?」


「そうさ。警官の翔になら、お前さんを任せられると思った。私はその日の内に翔へメールを送り、『3.14倶楽部』の情報をほのめかしてお前さんをおびき出すよう指示を出した。計画をとどこおりなく遂行するためには、お前さんをご両親の元へ帰さなければならなかったからね」


「計画って?」


 麻理子の疑問に応じたのは翔だった。ジーンズのポケットからデジタルカメラを取り出し、勝ち誇った笑みをたたえて高々と掲げてみせた。


「国見英樹さん。娘さんに対するあなたの暴力行為をここに収めました。これは暴行罪、あるいは傷害罪を裏付ける貴重な証拠品として裁判所へ提出します」


 勝った。恐怖に凍てつく悪魔の顔に、麻理子は確かな手応えを感じ取った。まさしくそれは、悪魔討伐という一つの勝利へと向かって、大きく一歩踏み出した証に他なかった。


「てめえら……ハメやがったな! 電話を掛けてきたのもこのクソババアだろ!」


 虚勢じみた悪魔のがなり声が宅地を縫ったものの、翔はことさら歯牙にもかけず、女に至っては〝クソババア〟が自分のことだと気付いてもいないような素振りだった。


「この子の担任教師と偽って、あんたに電話を掛けたのは私だよ。あんたらろくでなしを外へ誘い出し、あたかもこの子と鉢合わせたかのように見せかけ、カメラに暴行の現場を収めようとしたのさ。あわよくば現行犯だ。翔は向かいの家の承諾を得て、屋内で待機してたんだよ」


「この場であなた方親子が鉢合わせたのはラッキーでした」


 話し手がナチュラルに翔へ移った。


「最終的には僕と祖母の連携で決着を試みる手はずでしたが、奥様のおめかしが長引いたことで計画は終始うまくいきました……失礼します」


 翔の携帯電話が鳴った。


「もしもし……こっちはいつでもいいですよ……はい、待ってます」


 短い通話を済ませると、翔はしたり顔で祖母を見やった。


「もうすぐで来るよ」


「何が?」


 強がりの悪魔が……否、プライドにだけは律儀に忠実な男の成れの果てが、低いうなり声で威嚇した。


「今に分かりますよ」


 翔は憎たらしい笑みでそれをあしらった。彼に不釣り合いな笑みの一つだった。

 その時、家の中へ戻っていく涼子の後ろ姿を麻理子は見た。誰も止めはしない……元凶である国見英樹が目の届く場所にさえ突っ立っていてくれれば、万事が安心であることをみんな承知していたからだ。麻理子にはそれが分かったし、麻理子自身もそうであると信じて疑わなかった。

 しかし、涼子が包丁を持って再び姿を見せた時、その思い込みがただの〝油断〟であると思い知らされた。翔はすかさず腰へ手を伸ばしたが、指先は空をかすめた。今、彼は私服だ……武器がない。


「動くんじゃないよ……動くんじゃない……動いたら殺す!」


 涼子は包丁を顔の高さまでかざすと、狂気めいた甲高い声を張り上げた。その切っ先は銀白色の殺気を放ちながら、まっすぐに翔をとらえている。戦慄をまとった空気が周囲を覆った。


「ヒデくん、逃げて……私が引き止めるから……その間に……」


 涼子の手の内で、包丁は時に小さく、時に激しく震えた。国見英樹はそんな愛妻の姿に無様な背中を晒し、ジープに乗り込もうと身を乗り出した。麻理子が立ちふさがった。


「逃げるの? お母さんを置いて?」


 こんな愚行をしでかすつもりは毛頭なかった。しかし、麻理子は自らの意思を怒りに任せて放出することに、何の躊躇もしなかった。体が勝手に動き、闘志が腹の底から込み上げてくる。今なら戦える……あの感覚が麻理子の闘争心を揺さぶった。


「どけ、バカ娘……どくんだ!」


「どくもんか! 逃げるもんか!」


 麻理子は男を睨み上げた。


「私は! 私自身を悲劇のヒロインに仕立てるために家出したわけじゃない! 思い出したかった……十年前の幸せにすがっていたかったんだ! お前には決して作り出せない幸せに!」


「不幸の押し売りか? お門違いもいいとこだ! うすら寒い……利己心丸出しで情に訴えようとするのはやめろ!」


「私が不幸なもんか……」


「何?」


「不幸はお前だ……誰かを不幸に陥れるお前の存在そのものだ」


 強烈な張り手が頬を打ち、麻理子は衝撃で背中からボンネットに叩きつけられた。青い空が見えると同時に、呼吸が止まった。首に男の手が掛かった。醜悪な表情に顔を歪ませ、ほぼ全体重でのしかかってくる。

 感覚が遠退く……意識の彼方から誰かの声が聞こえた。麻理子は空を仰いだ。


『ワンって言ってみ?』


「……わん」


『もっと大きく』


「わん」


『もっと!』


「わん!」


 首筋の汗が殺意に満ちた男の手を滑らせた。麻理子はすかさずその手を掴み取り、全部の歯を駆使して指先に噛みついた。男の悲鳴が鼓膜をつんざき、麻理子をべらぼうになぎ払った。

折しも、視界の隅に一台のスクーターが停車した。二人の男が飛び降り、一人がこちらに向かって叫んだ。


「麻理子!」


「ヒャン!」


 麻理子は驚いて顔を上げた。虫の息だったはずのコーラが起き上がっている。あの独特の鳴き声を上げながら涼子へ向かって突撃していくと、ドレスをよじ登って彼女の腕に牙を喰い込ませた。包丁は暴れまくる涼子の手から逃げ出すと、金属音を響かせながら地面に跳ね返り、やがては翔の手の中に収まった。

 その最中、背後から不意に現れた圭くんが、痛みに悶える国見英樹の脇腹にドロップキックをお見舞いした。二人はもみくちゃになりながらも熱いコンクリートの上を転げ回ったが、結局は圭くんが国見英樹をねじ伏せた。

 麻理子が一転二転する目の前の光景に唖然としていると、背後から誰かにそっと抱きしめられた。懐かしい匂いと温もり……目の奥から涙が溢れ出してきた。麻理子はその優しさの正体を知っている。何十年も前からずっと……生まれた時からずっと。


「お父さん……お父さん……お父さん……!」


「遅くなってすまない……」


「会いたかった……そばにいてほしかった……」


「来たよ。戻ってきた」


 麻理子は肩越しに振り返った。自分の瞳と同じ、ダークブラウンに染まる瞳がこちらを見つめている。細面に銀縁のメガネをかけ、くせ毛の頭髪には白髪が混じっている。笑うと浮かぶえくぼに哀愁を覚えた。

 麻理子は、十年前から止まっていたある一つの時間が、今ようやく動き出すのを感じた。それは、龍郎という存在が麻理子の中に刻み続けていた時間……家族三人が共有してきた時間に相違なかった。


「たっちゃん……こんな所で何やってんの?」


 涼子の口から出てきたそれは、元旦那との間にまだ愛を培っていた時の呼び名だった。

 龍郎と共に立ち上がった麻理子は、その男の目に勇猛の光輝が宿るのを見た。


「松戸から話を聞いた」


 龍郎は涼子にではなく、麻理子に向かって答えた。


「知ってるの? 圭くんのこと?」


「僕の部下だよ」


 龍郎が物静かに答えた。麻理子は、国見をねじ伏せたままこちらに笑いかける圭くんの姿を凝視した。


「同じデザイン会社で働いてるのよ。黙っててごめんね」


 圭くんは舌をちょっぴり覗かせたままウインクした。


「そういうことだ」


 龍郎は肩をすくませた。


「昨日の朝、麻理子が家出した話を松戸から聞いた。あいつは前妻と私の間に娘がいることを知っていたし、その名が飼っている私の犬と同じであることも知っていたんだ」


「そっか! だからあの時……」


 コーラが初めて自分が犬であることを証明したあの時、三好は確かに『麻理子』の名を呼んだ。三好は麻理子をポチと呼び続けていた……コーラの前で『麻理子』という名を発したのは、あの一度きりだったはずだ。


「じゃあ、この子はお父さんが飼ってたんだ……」


「私は、自分の背徳さで家族を失った悲しみを、犬を飼うことで誤魔化そうとしたんだ。愛娘の名をその子に付けて……」


 龍郎の足元を快活良く駆け回るコーラに向かって、麻理子は力なく笑いかけた。


「再婚が決まったんだ」


 龍郎の微かな声が聞こえた。


「身寄りのない麻理子を助けたかったが、私にはお前に見せる顔がないし、新しい家庭を持った私がのこのこと会いに行くわけにはいかなかった。私は麻理子の誕生日にあわせ、娘同然のこの子を松戸に託し、麻理子のいるアパートへ届けてもらった。それが、新たな家庭を築いていく私にとって、大きなけじめでもあったから」


「だが数時間前、松戸に連絡が入った。麻理子を助け出す計画に警察が介入する、ぜひ私にも加わってほしいという内容だった」


「僕と松戸さんには面識があったんだ。仕事上のソレでね」


 包丁を後ろ手に、翔が明朗な声色を響かせた。


「喫茶店でこのことを誤魔化したのは、計画を円滑に進めるためだった。僕を疑っていた君に、これ以上疑心を抱かせるわけにはいかなかったから。……とにかく、ばあちゃんに急かされてお父さんの職場を調べてみたら、松戸さんと同じ会社で働いてることが分かったんだ。お陰で話はスムーズに進んだし、急な連絡にも関らず、お父さんはすぐにここへ来ることができた」


「つまり……お父さんを呼んだのはあなただったってこと?」


 自分なりに話を整理し終えた麻理子は、包丁を向けられても顔色一つ変えなかった女の横顔を見据えた。


「この計画で一番重要なことは、お前さんに〝気付かせる〟ことだったのさ。牧原龍郎がその鍵を握っていた……お前さんが気付かなければならない事実を、このアホウは余りにも多く抱え過ぎていた」


「何でもお見通しですか、先生……」


 龍郎は頭が上がらないようだった。女が鼻で笑った。


「年寄りのカンさ。そんな代物には頼りたくなかったけどね。いずれにしろ、麻理子にはお前さんが必要だった……伝えなさい、自分の言葉で」


 龍郎はしっかりと麻理子に向き直り、レンズ越しにその熱い眼差しをたぎらせた。その瞳を、麻理子はまっすぐに見つめ返した。


「麻理子、一緒に暮らそう。新しい家で。新しい家族と。パグのマリコも一緒に」


 もう答えは決まっていた。しかし声が出ない。込み上げる涙の津波が、喉を塞いでしまっている。麻理子はただうなずいた。顔をくしゃくしゃにしながら、何度も何度もうなずきかけた。

そうなることを望んでいた……それが麻理子にとっての幸せだったから。


 絶望のドライブは終わった。


 これから始まる……全く新しい人生のスタートが、ここにある。




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