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第四話 笑う男が



 寝際の暗がりに携帯電話が鳴った。麻理子はベッドから身を起こし、いびきをかいて熟睡するコーラのブヨブヨした腹の下から、半分下敷きにされた携帯電話をつまみ出した。見ると、メールを一通受信していた。


『男性ユーザーからメッセージを受信しました。メッセージボックスを確認して下さい』


 何のことやらサッパリだったが、添付されたURLからサイトへ移動した時、ずっと放置していたあの出会い系サイトのことをすっかり思い出した。どうやら、麻理子のプロフィールに興味を持った何者かが、好意のメッセージを送信してくれたらしい。


「もう遅いっての」


 麻理子は興味本位で受信メッセージを開いてみた。相手は二十二歳の男性だ。名前はしょう。職業は公務員となっている。


<初めまして、こんばんは。まだ起きてる? 今も家出中なのかな? お話しようよ>


「やだね」


 麻理子は枕の下に携帯電話を押し込み、本式に眠ることを決意した。ようやくまどろみ始めた頃、後頭部の奥底で再び携帯電話が鳴り響いた。電源を切っておけばよかった。


<どうしても話がしたいんだけど? 君の関心を引くもの……例えば『3.14倶楽部』のこととか>


 眠気が吹き飛んだ。『3.14倶楽部』を知る稀少な人物から連絡が来た。麻理子のことを知る人物か、はたまた三好に精通する人物か、あるいは昼間会った初老女の執念の嫌がらせか? ……もしかしたら、タマかもしれない。

 麻理子はせっせと指を動かした。


<こんばんは。どうして『3.14倶楽部』を知ってるんですか? あなたもしかして、〝タマ〟ですか?>


 数分後、翔から返事が来た。


<タマ? たぶん違うよ。僕のあだ名は〝きくらげ〟と〝全身バイブ〟だったから>


 麻理子はつい笑ってしまった。メッセージには続きがある。


<『3.14倶楽部』に関しては人伝に聞いた。ヒマワリ畑の無人倉庫を根城に活動していたらしいね。学校公認だったとか>


 メッセージはここで終わっていた。麻理子には、こちらの意気に発破をかけようとする巧妙なやり方に思えてならなかった。


<もったいぶってないで教えて下さい。あなたはどこの誰で、誰から倶楽部のことを聞いたんですか?>


 十分ほど経ち、ようやく次のメッセージが届いた。興奮で冴えた目が淡々とした文字列を追った。


<君に会いたい。直接話がしたいんだ。君が知りたがってることはその時に話す。明日会える? 君が指定した場所へ会いに行くよ>


 さながらデートの申し出のようだった。しじまをうがつ胸の高鳴りが、コーラのいびきに便乗して部屋を満たしていった。

 麻理子は戸惑っていた。これが素性の知れない男の下心ではなく、自分を愛してくれる存在の本心であれば、どれだけ心が救われたか分からない。それは、三好では決して触れることのできない麻理子の心髄……否、触れられるはずがない。麻理子は女、三好も女なのだから。


<明日の午後十二時、商店街の北の端にあるカフェで待ってます>


 期待感を添えて、麻理子は今宵最後のメッセージを送った。




 三好が朝の涼しい時間帯に帰ってきた時、その両手には食糧の詰まった大きなレジ袋を提げていた。


「それどうしたの?」


「腹減ってるだろうと思って。コーラの分も買って来たぞ」


 三好は笑いかけながら、狭いテーブルの上でレジ袋をひっくり返した。菓子の袋詰め、カップ麺、ジュース、プリン、土のついたジャガイモやレタス、ドッグフードの缶詰が一緒くたに吐き出されてきた。


「うわあ、おいしそう」


 麻理子はレタスを掲げながら称賛した。三好がドッグフードを皿に盛ると、大の字に寝転がっていたコーラが瞬時に飛び起き、駆け足でテーブルの陰から現れるや、顔から皿にダイブしてペロリとたいらげた。三好はその一部始終を呆然と眺めていた。


「よほど空腹だったんだな」


「昨日からもやししか食べさせてなかったから……冷蔵庫に入ってたやつ」


「あーあ。あれ腐りかけだったのに」


 三好がシャワーを浴びている間、麻理子とコーラはひたすら食べるのに夢中だった。カップ麺を待つ三分間で菓子パン一つをジュースと共に飲み下すと、デザートにはプリン二人前を頬張った。コーラは缶詰を三つも消化した。


「服、乾いたんだ」


 シャワーを終えた三好が缶コーラ片手に、妖艶のランジェリー姿を晒しながら言った。自分の与えた服ではなく、麻理子自身の服を身につけていることが気になったらしい。ベッドに腰掛ける三好の目には不満の色が帯びていた。


「だってほら……いつまでも頼ってられないじゃん?」


 取り繕ったが、食い散らかしの残骸を前に説得力は皆無だった。


「私これから出かけるんだ」


 麻理子は話題を切り替えた。


「散歩の帰り道でね、古い知人に会ったの。今日ゆっくり話そうってことになって」


 出会い系サイトで知り合ったとは言えなかった。あそこでは一度失敗しているし、『これから見知らぬ男と会う』という情報が、三好の機嫌を直す特効薬になるとは到底思えなかった。


「知人ってどんな人? もしかして婆さん?」


「違うよ。もっとピチピチしてる……たぶん」


 昨日会った初老女のことを言っているのだと麻理子には分かった。そのさりげない口調とは裏腹に、三好の表情には微かな焦りが窺える。思えば、三好の様子がおかしいのはあの女から逃げ出した昨日からだ。そして、女も三好のことを知っている……それだけではない。三好の考えを見抜いていた。


「三好……もしかして昨日の人……」


「こっち向いて、ポチ」


 ベッドを振り返るや、口紅を押し当てられた。それは麻理子の意思に反して、唇の上を滑るように移動していく。くすぐったいが、くせになる感触。仕上げに、三好の唇が麻理子のそれと重なった。甘いキス……ファーストキスは遠くにコーラの甘味を感じた。


「かわいっ」


 三好はキャビネットから手鏡を取り出し、麻理子の顔の前で照らしてみせた。アプリコットピンクに染まる唇に負けず劣らず、麻理子の顔は耳の先端まで真っ赤だった。


「奪っちゃった……ポチのファーストキス」


 どこか楽しそうな振る舞いの三好に向かって、麻理子ははにかみながらも笑いかけた。


「三好でよかった……」


 二人はもう一度キスをした。先ほどよりも長い。三好の手が伸びて、麻理子のたわわな胸の先端をまさぐる。意識が遠退き、理性が抜き取られていく。三好のしなやかな指先が這うように背中へ回り込み、器用にブラのホックを外した。唇がより強く押し当てられると同時に、麻理子の口の中に快感が滑り落ちてきた。口の中で自在に動き回り、理性の残りの一切をすくい取っていく。


「好きだよ……麻理子」


「ヒャン!」


 出し抜けの甲高い鳴き声に驚き、二人は唾液の糸を繋げたまま後方へ飛び上がった。麻理子は腰をテーブルにぶっつけたし、三好はベッド際のぬいぐるみを蹴散らして壁に激突した。まるで、誰かが二人の間に割って入り、両開きの重たい扉を左右にこじ開ける時の要領で、顔と顔を両サイドへ引き剥がしたようだった。

 鳴き声の主はコーラだった。たらふく食べて床に寝そべったまま、その濡れた大きな瞳で三好を見上げている。自分だけをないがしろにし、二人の世界を創り出したことへの腹いせだろうか? どんな理由にしろ、コーラが鳴き声で自己アピールするのは初めてのことだった。


「今コーラが吠えた。ヒャンって……」


 麻理子は事実をもう一度事実として再認識するために、自らにはっきりと言い聞かせた。三好にも異論はなさそうだった。


「ビビるわあ……喉詰まらせたような声出しやがって」


 仰向けに寝そべる三好に、萎えてしまったムードを復活させる余力は残っていないようだった。麻理子はコーラに向き直った。


「コーラ、もう一度吠えてみて。ヒャンって。ヒャン、ヒャン!」


 二度目はなかった。コーラの眼差しにはご主人様を尊ぶ従順な輝きが絶えなかったし、いかつい顔つきはシワの一筋まで神妙そのものだったが、吠えろと言われていさぎよく吠え散らすほど愚かではなかった。

 麻理子は時計を確認した。約束の時刻が迫っていた。


「私そろそろ行くね。コーラは一応連れていくけど……」


「ああ、その方がいいかも。いきなり鳴かれたら目が覚めちゃうし……あたしは眠いんだよ」




 麻理子はコーラを引き連れ、賑やかな夏の商店街を北へ向かって歩いていた。アプリコットピンクの唇には、痺れるようなキスの感触がまだ残っている。コーラが吠えていなければ、あの快感は麻理子をどこまでいざなっていたのだろう? 天の上か、あるいは地の底か?

 考えると背筋が震えた。性欲に溺れて理性を失うことに未知の恐怖を覚える。麻理子は、自慰行為や男女間での性行為を汚らわしいと感じる己の稚拙さに安堵していた。その幼稚な発想がもたらす許容のテリトリーこそ、確固たる理性の尊厳に他なかったからだ。

 しかし、今日はその一線を僅かに越えた……越えてしまった。初めての喫煙に罪悪感を悟ったあの日のように、いつか薄れていくであろうこの汚れも、今はただ心に重たかった。


 昨日の帰りに見つけた小さなカフェが見えてきた。フリル付きパラソルの並ぶシャレたカフェテラスが印象的で、退屈な午後のひと時を持て余す貴夫人たちが終わりのない世間話に興じている。麻理子は空いている席の一つに腰掛けると、コーラを繋ぐリードを椅子の足に縛り付けた。

 テラスには涼風が吹いている。居心地の良い静けさ。商店街の喧騒も遠い。世界の一部から切り取られたような空間だった。


「牧原さん?」


 顔を上げると、テーブル越しに立つ男の姿が見えた。その途端、麻理子はなぜ自分がここにいるのかを思い出した。


「こんにちは! 翔さん……ですよね?」


 焦りつつ立ち上がりながらも、麻理子は男を観察することを忘れなかった。

 翔は冴えない男の見本のような風情だった。流行遅れのあせたレザージャケット、ビンテージまがいの小汚いジーンズはそのひょろりと高い背丈に忠実で、しかしどこか滑稽だ。

 笑うと垂れる優しい眼の上に、黒髪の強烈な癖っ毛がカツラのように乗っかっている。なるほど、紛れもなく〝きくらげ〟である。


「初めまして。安達翔あだちしょうっていいます」


 『安達』……どこか懐かしい名だった。しかし、麻理子はこの男を知らない。それは、この男がタマではないことを裏付ける揺るぎない事実であった。


「国見です。初めまして」


「偽名だったんだ?」


 翔は笑顔のまま指摘した。


「実名で登録したくなかったんです」


「そう……何か頼もうか?」


 メニュー表を覗き込んでいる間も、翔は決して微笑みを絶やさなかった。顔面に笑顔の仮面が……それも無機質ではない、生き生きとした笑顔の仮面がへばり付いてしまったかのように、この男の表情筋は、生涯に渡って笑うことのみを余儀なくされているように思えてならなかった。


「翔さんって『にらめっこ』で勝ったことないでしょ?」


「ああ~……そうかも。よく分かったね」


 言ったそばから、翔は顔の隅々まで笑いっぱなしだった。自覚がないのだろうか?


「『みついしくらぶ』のことですけど……」


 それぞれオーダーを済ませると、麻理子が切り出した。翔は口の端に笑みを含んだまま眉をひそめた。


「『みついしくらぶ』って? 『さんてんいちよんくらぶ』のこと?」


 麻理子は思わず顔をしかめた。翔は『3.14倶楽部』のことを何も分かっていない。


「『3.14倶楽部』の読みは〝さんてんいちよん〟ではなく、〝みついし〟なんです。あなた人伝に聞いたって言ってましたけど、メールか何かのやり取りだったんですか?」


「まあね。送信したメッセージでは何でも知ってるようなこと書いたけど、実際はほとんど知識がないよ。ただ、僕が六年生の時に創られたことや、初期メンバーが三人だったことは分かってる。三好茜と国見さん、そしてたぶん……タマ?って人なんじゃないかな。君は昨夜、その名を言った」


「三好を知ってるんですか?」


 麻理子は身を乗り出した。翔は曖昧にうなずいた。


「じゃあ、巴は? 三好巴」


「知らない。全く。僕が知ってることは人から聞いたことだけなんだ。僕自身が初めから知ってた情報なんて一つもないよ」


「聞いたって、一体誰に?」


「それは言えない。口止めされてるからね」


 滅茶苦茶だった。翔の意図がさっぱりつかめない。例え彼の真意を見抜いたとしても、三好の隠し立てやタマの正体に迫れるものなど皆無のような気がした。


「倶楽部の知識を持っていなかったあなたが、何で私に連絡を? しかも出会い系サイト経由で……」


「僕に倶楽部の情報を流してくれた人……仮にAとしよう。Aは出会い系サイトに登録してる国見さんのことを知ってたんだよ。正直、君が大手のサイトに登録してくれていて良かった……お陰で見つけるのはたやすかった」


「Aが〝私に会え〟と言ったんですか?」


「そうだよ。Aは僕に、『3.14倶楽部のことをほのめかせば必ず喰いついてくる』と教えてくれたんだ。でもAは、倶楽部に関する最低限の情報しかよこさなかったけどね」


 段々と腹が立ってきた。要するに、麻理子は『3.14倶楽部』を餌にあっさり釣られたということだ。

 しかもそれだけではない。Aは麻理子が出会い系サイトに登録していることを知っていた。麻理子がそのことを明かしたのはたった二人だけ……圭くんと初老女だ。


「怒ってる?」


 明け透けに不機嫌な様相を浮かべる麻理子に向かって、翔はおずおずと尋ねた。


「パグだ! かわいい犬だね」


 翔は席を離れ、本心から楽しそうにコーラを愛撫した。育ち過ぎた子供のようだ。コーラは仰向けに寝転がって翔に甘えている。その様子を脇目に、麻理子は考えに耽り込んだ。

 この犬の贈り主は圭くんだった……もしAが圭くんだとしたらどうだろう? 三好と繋がっている圭くんなら『3.14倶楽部』のことを知る術がある。麻理子の悲劇的な家出話に同情した彼が、愛くるしい犬と笑顔の素敵な安達翔を癒しの糧と称してけしかけさせたのなら、すべて納得がいく。

 その実、Aは麻理子が出会い系サイトに登録していたことは知っていても、それがどのサイトかは把握できていなかった。今しがた、翔は確かに「見つけるのはたやすかった」と言ったのだ。この言葉こそ、麻理子から直接聞いたことを意味づける決定的事実に相違なかった。


「翔さん。松戸圭吾を知ってますか?」


「ん~……聞いたことあるような? ないような?」


 納得の答えだった。知っていても言わなかっただろう。


「その犬、松戸圭吾が贈ってきたんです。もしかして〝あなた〟の犬なんじゃないですか?」


 半ばやけくそだった。翔はより一層笑顔で振り向き、立ち上がった。


「違うよ。僕の犬じゃない」


 麻理子はそっぽを向いた。その言葉も、笑顔も、信じられなくなっていた。


「何か誤解してるんじゃない?」


 翔は席に戻ると、なだめるような囁き声で言った。


「僕はその犬の飼い主じゃないし、本当に何も知らないんだ」


 麻理子は舌打ちした。この男の全てが癇に障る。


「だったら目的を言って下さい! こうして私に近づいた目的!」


「分かった。話すよ。話すから怒らないで。僕は国見さんを説得しにきたんだ」


「説得……はあ?」


 怒りが腹の底で空回りした。


「つまり、家出中の私に説教しに来たってわけ?」


「そんな偉大じみたものじゃない」


 翔は笑って受け流した。


「このままじゃいけないよ、ってことを伝えたかったんだ。親御さんだって心配するし、学校にも行かなくちゃ。君、本当は十八歳未満だろう? サイトも退会しないと……」


「そういうのを説教っていうんです」


 非難すると、翔は少し寂しそうにうなずいた。


「そうだね。ごめんね」


 麻理子はため息をついた。怒気が萎えてしまった。これ以上は時間の無駄だと、麻理子は判断した。


「帰ります」


 麻理子はオーダー分の料金を置くと、コーラを連れて席を立った。一刻も早くこの場を離れたい……一抹の胸騒ぎがあった。


「また会えないかな?」


 麻理子は、翔の哀れっぽい声が、無様な往生際を演出する情けない響きとなって背後から聞こえるのを、憐れみの気持ちを露に振り返ってやった。


「次は私が呼びます。あなたを必要とした時に」


 言いながらも、そんなことが起こり得ないことを麻理子は知っていた。別れを彩る挨拶代わりの建前だった。

 翔の視線から一早く逃れるため、麻理子はどこへ続いているかも分からない手近な路地へ足を踏み入れた。ひと気もまばらな狭苦しい空間に、複数の足音が響いている。自身の足音が建物の渓谷に反響しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 前方から誰かが歩いて来る。猫背の小男。みすぼらしいTシャツの袖口、ハーフパンツの裾口から毛むくじゃらの四肢を覗かせ、突き出た腹の恰幅を上下に揺らしている。男の表情があのげせんな笑みを象った時、麻理子は思い切りリードを引っ張って踵を返した。コーラが大人しく従ってくれたのはラッキーだった。優れた嗅覚が、この距離から男の臭気を感知したに違いない。麻理子とコーラは同時に走り出した。


「逃げるな!」


 麻理子は腕を掴まれた反動で尻もちをついてしまった。リードが指をすり抜ける……コーラは麻理子を置いて行ってしまった。


「また会えたね。覚えてる? 遠藤だよ!」


 遠藤が猫なで声で囁いた。酒臭い。汗臭い。吐きそうだ。


「ずっと探してたんだ。麻理子ちゃんのこと忘れられなくて」


「人違いです! 私麻理子じゃありません!」


「えー。だって服が同じだし、おっぱいだってほら……」


 黒ずんだ指先が背後から胸を鷲掴みにした。麻理子はとっさにその手を掴み取り、引き寄せると、勢い任せに裏拳を繰り出した。この類の暴力は一度も行使したことがないし、体得した覚えもなかったが、手の甲は遠心力の勢いに乗り、遠藤の横っ面目掛けて華麗にクリーンヒットしてくれた。

 遠藤は唾を吐き散らしながら吹っ飛んでいったものの、その手は執念深く麻理子の腕を握ったままだった。


「うう……ああぁ……」


 遠藤が唸る。おもむろに起き上がると、ズレた脳みそを定位置へ戻そうとするかのようにかぶりを振った。


「いてえ……いてえ!」

 怒声の残響が降り注いできた。麻理子は、にじり寄る遠藤の醜悪な赤ら顔に、あの〝悪魔〟の様相を見て取った。何もかもそっくりだ。歪んだ口元、剥き出しの黄色い歯、殺意の光を湛えた目……身に巣食う恐怖心を煽る、まさに悪夢の元凶だ。


「誰か……誰か……」


「誰もこねえよ!」


 遠藤の手が麻理子のまたぐらに触れた。麻理子は肺が破れんばかりに息を吸った。


「翔ーっ! 助けろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 叫びの余韻に足音が紛れこんできた。とんでもないスピードで近づいてくる。頬に風を感じた時にはもう、目の前に翔とコーラが立っていた。遠藤の胸倉を掴み、強引に立ち上がらせると、すすけた外壁に背中から叩きつけた。


「んだよてめえ……」


「警察だ」


 翔の顔から初めて笑みが消えた。警察手帳を掲げるその顔には、激しい憤怒の形相が剥き出しにされている。遠藤の引きつった両眼は翔と手帳との間を行ったり来たりしていたが、その顔は青ざめ、やがて降参の印とばかりに両手を上げた。


「あんたこの前の……すまんかった。あいや、すまんかった。もうしねえから……」


「失せろ。二度と彼女に近寄るな」


「ありがたや」


 遠藤は不格好な姿を晒したままずらかっていった。

 コーラが静かに歩み寄ってきた。座り込む麻理子の膝に足を乗せ、犬なりの償いとばかり、顔をペロペロと舐めた。くすぐったくて、安堵して、麻理子は力なく笑った。


「この子が僕の所まで来たんだ」


 翔は麻理子の手を取ると、その場にゆっくり立ち上がらせた。顔に笑みが戻っている。


「走り回って、飛び跳ねて、何だかよく分かんない内に君の声が聞こえた」


「ごめんなさい。あんな態度とったのに……」


「いいんだ。僕が身分を隠していなければ、国見さんがこんな目に遭うことはなかった……とりあえず、テラスに戻らない? コーヒーとワッフルが届いてるよ」


 二人は再びカフェテラスへと引き返した。テーブルには、麻理子のオーダーしたハニーワッフルと飲みかけのアイスコーヒーが置いてあった。


「もう分かってると思うけど……僕は警察だ。警察として君に接触した」


 席に着くや、翔は深刻な声色で切り出した。笑顔は残像のように薄らいで見える。空気が肩に重い……翔には笑っていてほしかった。


「誰の……差し金ですか?」


 口から出るのを嫌がるかのように、小さな声はかすれ、震えていた。真実を知りたい……だが、真実の向こうには恐怖の闇が広がるばかりだ。

 あの家だけには帰りたくない。


「悪いけど、依頼人の情報は開示できない。そう釘を刺されたからね。でも、君と接触した本当の理由を明かすことはできる」


「本当の……?」


「僕は君を連れ戻しに来た。ご両親のもとへ送り帰すことが僕の役目だ」


「三好……!」


 麻理子は一つの仮説に……この一件の首謀者が三好茜その人ではないか、という仮説に辿り着いた。

 三好の言動は、根なし草の麻理子を暖かく歓迎する優しさに満ち溢れてはいたが、それは麻理子にとって都合の良い解釈でしかなかった。

 両親のいない三好からすれば、家族に恵まれた麻理子の生半可な行動の数々はただの〝甘え〟にしか見えなかっただろう。被害妄想たれ流しの麻理子……立ち塞がる壁を乗り越えず、ずるい心で抜け道を探す麻理子……三好にはお見通しだったはずだ。

 金銭面においても楽ではなかっただろう。麻理子の居候に加え、食欲旺盛なパグが舞い込んできたとなれば、家計が火の車をみるのは時間の問題だった。

 翔は三好のことを知っていた。三好も翔のことを知っているだろう。圭くんから出会い系サイトに登録している麻理子のことを聞き出した三好は、翔に『3.14倶楽部』の情報を流し、麻理子をおびき出させ、警察の権力を持って麻理子を送り帰そうと試みた。

 それが麻理子を思う三好なりの愛だった……そう考えれば合点がいく。


「帰ります……相生市へ」


 麻理子は虚ろな低い声で言った。自分の声とは思えなかった。


「信じるよ」


 翔が朗らかに笑いかけた。


「だから、僕はこれ以上干渉しない。一人で帰れるね? 犬を連れていくならケージが必要だね。お金はある? 電車なら安く済むよ。発車時刻は分かってる? 調べてあげようか?」


 口早にまくしたてる翔を前に、麻理子はつい笑ってしまった。


「やっと笑ったね。安心した」


「だって……お父さんみたいなんだもん」


 それは記憶を偽る理想論に過ぎなかった。龍郎がどんな父親だったのか、麻理子はあまり覚えていない。だが確かに、麻理子は今、翔のお節介振りに漠然とした父親の愛を重ね見たのだ。


「ペットショップ寄って、三好に挨拶したら、ちゃんと帰ります……一人でできます」


 席を立つ麻理子の手に、翔が紙切れを押し付けてきた。携帯番号の走り書きだった。


「何かあったら連絡して。頑張れよ。負けるなよ」


 胸が高らかに脈打った。〝負けるなよ〟……その最後の一言を引き金に、記憶の末端が大きく揺さぶられるのを感じた。

 それは、過去に誰かから託された勇気の糧であり、くじけそうな時はいつも力を添えてくれる不明瞭な存在だった。微かな期待が、麻理子の気持ちを際限なく高ぶらせていく。


「私たち、前にどこかでお会いしました?」


 メロドラマ風情の俗なセリフが恥も外聞もなく口から出てくる事態も、今の麻理子にとってはどこ吹く風だった。翔は首を傾いだが、明朗な笑みは崩れなかった。


「もしかしたら会ってるかもしれないね。同じ小学校にいたんだから」


「……そうですね」


 麻理子は顔を上げた。真意は謎のままでも、あの一言は確かに麻理子の中で生きている。今も、そしてこれからも。心を支えるいしずえとして、生きていくのだ。

 別れ際、麻理子は力強く笑いかけた。


「帰ります! 相生市へ!」




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