第三話 石階段の先には
二人は着替えを済ませると、コーラを連れて戸外の眩い太陽の下へと踏み出した。今日もまた、梅雨の名残を彷彿とさせる蒸し暑さが肌に重たかった。
出発の折、三好は自分の服装より、麻理子にどんな服を着せるかに重点を置きたがった。愛犬に過度なコスプレを強要させる飼い主よろしく、あれでもないこれでもないと熱心な面持ちでタンスの中身をひっくり返した挙句、百ある衣類の中から選りすぐりの服をチョイスしたのだ。
部屋を後にする頃には、プリーツのあしらわれた白地のワンピースにハイソックスという出で立ちで落ち着いた一方、三好自身はカジュアルなTシャツとハーフジーンズという装いだった。どうやら、自分より麻理子を目立たせるための策略のようだ。
コーラにはリードが着けられた。黒革のベルトに、ハートとスペードが交互に連なった銀の鎖がスタイリッシュだ。
「わあっ……リードなんてよく持ってたね」
押し入れから埃まみれのリードを引っ張り出した三好に向かって、麻理子は感服の言葉を贈った。三好はほくそ笑んで言った。
「人間用よ」
麻理子には、その言葉にちなんだ三好の卑しい眼光が、「本当はポチに着けたかったのに」と悔やんでいるのを見透かせた気がしていた。
リードを引っ張ると、コーラは従順めいた足取りで麻理子の後を追ってきたが、路地を前にしてはたと足を止めた。カビ臭い。麻理子は思わず顔をしかめた。川へ抜ける側溝から淀んだ水の腐敗臭が漏れ出し、生ぬるい夏のそよ風に煽られて路地を吹き抜けている。
麻理子は彫像のように固まったままのコーラを力任せに引っ張った。
「おいで、ほら! コーラ! こーら!」
「『こーら』って、名前呼んでんの? 怒ってんの?」
三好が路地の向こう側からせせら笑った。デジタルカメラを構えている。麻理子はコーラを抱え上げ、やっとの思いで路地を抜けた。
「こいつ三十キロはあるよ!」
肩で息をしながら麻理子が非難した。三好はファインダー越しにその様子を覗き込み、しばしシャッターを切りまくるのに余念がなかった。
「カメラ好きなの?」
姉妹で写ったヒマワリ畑の写真を思い出しながら麻理子が聞いた。三好は肩をすくめた。
「分かんね。まあ、見たものを鮮明に記憶できるくらいなら、あたしにカメラなんか必要ないよね」
束の間、ぐったりと不機嫌な様相のコーラを差し置いて、二人は笑っていた。
「まずはどこ行く?」
三好が尋ねた。麻理子は元気の失せたコーラを引きずりながらひと気のない道路を横断し、河川敷を跨ぐ大きな橋の向こうにかつての学び舎を見た。
「学校へ行きたい……でもその前に、十年前まで住んでた家に帰りたい。道は覚えてる。もしかしたら、お父さんに会えるかもしれない」
淡い期待だった。生家を訪ねることで、今の自分を取り巻く環境に変化が見られるとは思えなかった。
「お父さんに会いたい。でも会うのが怖い。もしかしたら、私のことを忘れてるかもしれない。もう私を愛してないかもしれない。新しい家庭があるかもしれない。でもそうなったら……私は吹っ切れるんだ。過去の境遇に幸せなんか求めない、って」
「まあそん時は、あたしで我慢しなよ」
三好が笑いかけてくれた。頼もしい笑顔……希望が何かを教えてくれる笑顔だ。
二人と一匹は橋を渡り始めた。
「どうして地元で独り暮らしなんかしてるの? 両親とは暮らさないの?」
麻理子は抱いていた疑問の一つをそれとなく声に出してみた。三好の横顔から笑みが去った。
「もういないよ」
三好は明朗な声色を保とうとするように、妙に上ずった声で言った。
「父親は物心ついた時にはいなかったし、母さんは何年も前に死んじゃった。ガンだった」
後悔の念がどっと押し寄せてきた。口火を切るための軽率な質問にしては、内容があまりにも間抜けすぎた。
「ごめん……本当にごめん。知らなかった」
「あたしに謝るな。謝られるのは嫌いだ」
麻理子は橋を渡りきるまで、眼下に河原の優美を見据えたまま一切喋らなかった。声を出すたびに墓穴を掘りそうだった。
「家、どっち?」
川の向こう岸に着くや、三好は穏やかな物腰でそう聞いた。麻理子は周囲を見回した。南北へ広がる山裾の宅地には、狭い道路に沿って古色蒼然とした民家が軒を連ねている。
「こっち。間違いない」
麻理子は断言しながら、学校とは反対方向へコーラを引っ張っていった。
生家への道のりを思い出す必要はなさそうだった。二本の足はそれぞれが意思を持ったように、麻理子をかの家路へと導いてくれた。
「母さんが死んだ時ね、九州に住んでるじいちゃんが後見になったんだ」
木陰の恩恵にあやかりながら、三好はおもむろに語り出した。
「じいちゃん、すっげえいい人だった。お金ないくせに『大学行かせてやる』ってきかなくて。あたしも巴も断ったよ。あたしたち、二人足しても並みの偏差値に届かないくらいバカで……特に巴がさ、いっつも赤点取ってくんの。0点とかしょっちゅう。不器用だから家事もできないし。卒業した後はじいちゃんの畑仕事手伝ってたけど……こっち戻ってきた」
「巴さんは一緒じゃなかったんだ?」
「まあね。今頃どこで何やってんだか……」
セミの鳴き声がやんやと降り注ぐ只中を、一行は快調な足取りで突き進んでいった。
遠くに望む山々の輪郭、勾配の緩い坂道、ちょっとした曲がり角、家屋の香り……歩を進めるたび、視界に映り込む景色が記憶の一端とピタリ重なっていく。あの頃とても大きく見えた物も、今では眼下に見るミニチュア模型さながらだった。そして、ここは麻理子の記憶を司る確かな〝匂い〟に満ちている。匂いは段々と濃くなっていく。歩調が弾む。慣れ親しんだ家並みの奥に、十年前の我が家が見えてきた。
白い外壁の一戸建て。青い瓦屋根。壮大な前庭に松の大木が植わっている。周囲を取り囲むサザンカの生垣。紅色の鮮やかな花弁を咲かせ、凛と澄ましている。砂利敷きの駐車スペースが幅の狭い公道に添えられている。ここの石を拾って、道路によく落書きしたものだ。十年前から何も変わっていない。
「富豪のたたずまいだな」
松の大木を仰ぎながら三好が言った。
「昔はね。今は2円の女だよ」
麻理子は皮肉ったが、高揚した気分がただ言葉を羅列させているに過ぎなかった。脳天に叩きつけてくるような陽射しの暑さも助長して、気持ちは昂り、緊張が汗に変わる一方だった。
「行って見てくる。……三好はどうする?」
「ここで待つ。コーラは任せな」
麻理子は三好にリードを手渡し、生垣の日陰で涼んでいるコーラを一瞥すると、臆せず敷地内へ入っていった。しかし、前庭に足を踏み入れた途端、麻理子は何かがおかしいことに気付いた……家が朽ちている。
漆喰壁はひび割れ、剥がれ落ち、コンクリートが剥き出しになっている。どこからか流れ着いたゴミの残骸が散在し、敷石の隙間から勢力を拡大する雑草の群生に引っ掛かって風になびいている。かつては見事だったタイル張りの表階段も、垂れ下がったクモの巣のベールに紛れて無残な姿だった。窓からもぬけの殻となった屋内を覗き込んでも、そこに十年前の栄華が甦ることはなかった。
涙が汗に混じって頬を伝った。
「負けんなよ」
麻理子は己に言い聞かせた。
「負けんな。泣くな、泣くな、泣くな」
涙は止まらなかった。麻理子はその場にうずくまり、小さく嗚咽した。たった一人、思い出の淵に置き去りにされてしまったみたいだった。帰り道が分からない。父親という指標を失ってしまった。
「アイス食べよっか」
公道へ引き返すや、三好が笑って出迎えてくれた。背の高い三好には、垣根越しに荒れ果てた家の様子が見えていたのだろう。麻理子には、彼女なりの気遣いがとても嬉しかった。
再び歩き出した頃、麻理子はもう吹っ切れていた。父親が幸せな思い出と共に消えてしまったことを、憎みはしない。この地で廃れていった幸せを、麻理子はもう振り返らなかった。
来た道を少し逸れると、川沿いの土手にみすぼらしい個人商店がある。気休め程度の調度品や酒、野菜、駄菓子などが雑然と陳列されている。
「はい、お小遣い」
店に入るや、三好がやぶから棒に五千円札を突き出した。麻理子は肝を潰した。
「受け取れないよ、こんな大金!」
「大金じゃねえって。お小遣いだよ」
三好は言いながら、麻理子の手の中にお札をぐりぐりとねじ込んだ。
「なくなったら言いな。うまく使えよ」
「……ありがとう」
麻理子は不承不承お金を受け取った。三好との競り合いで勝てる見込みはなかったし、これ以上、所持金2円の惨めな生活を強いる必要はないように思えた。麻理子は貰ったお金でアイスと飲料水を購入し、コーラを繋ぎ止めていた日陰のベンチに三好と腰掛けた。
「一度、タマと三人でここ来たことあるんだよ。覚えてる?」
「どうだろう……」
コーラに飲料水を与えながら、麻理子はつぶさに周囲を眺めてみた。景色に見覚えはないが、ふと、ある物に視線が吸い寄せられた。店の横手を走るガードレールの切れ間に河原へと下る脇道があり、そこに植わるユキヤナギの低木の枝と葉に紛れて、木造の質素なほこらが建てられている。穏やかな眼差しをこちらに投げかけるのは、祀られた一体のお地蔵様だった。
「知ってる……お地蔵様」
麻理子は日陰の涼みから抜け出し、ほこらへ歩み寄ると、お地蔵様に向かって手を合わせた。炎天がじりじりとうなじを焼いた。
「三好……他にもなかった? お地蔵様が六つ並んだ大きなほこら」
ベンチに戻った麻理子が聞いた。三好はまた麻理子の写真を撮っていたが、カメラを下ろすと眉間にシワの寄った顔があらわになった。
「他は……学校近くの墓地とか? ほら、よく遊んだじゃん」
「墓地で?」
麻理子は驚きの余り声を張った。三好は小首を傾いだ。
「墓地っていうか、その先で。写真のヒマワリ畑さ、本来あそこへ行くには山道を迂回しなきゃいけないんだけど、あたしたち『3.14倶楽部』は墓地から畑へ通じる抜け道を見つけたってわけ。だからあの小屋は、あたしたちにとって秘密基地だったんだよ。思い出した?」
「……何となく」
「じゃあ行こっか」
三好は麻理子の手を取ると、その場に立ち上がらせた。麻理子はされるがままだった。
「行くって、墓地に?」
「そっ!」
腹に蓄えたアイスの清涼感は、二人をものの数分張り切って歩かせるには十分でも、容赦ない昼下がりの炎天下では汗の蒸発に取って代わるのがオチだった。脳みそがとろけるような暑さに、二人は本腰を入れてうだり始めていた。
「あとどのくらい?」
街路樹の木陰にコーラと自分の体を詰め入れると、麻理子はかすれた声で尋ねた。
「すぐそこ、階段があるでしょ? 百段くらい登った先」
隣の木陰から三好が答えた。麻理子は『三石墓地入口』と書かれた粗末な立て看板の奥へと続く、緩やかな石階段を見やった。緑の斜面にはたくさんの柳が植わり、階段にまだらの陰を落としている。かろうじて、陽光の直撃は免れたようだ。
「もう行こうか。……三好?」
「すまん……帰る。仕事行かなきゃ」
「へっ?」
狐につままれた心境の麻理子を尻目に、三好は浮かない顔で回れ右をした。
「鍵、鉢の下に置いとくぞ。今日は夜シフトだから朝まで帰らないよ」
「待って……」
あっという間だった。追いかけて引き止める間もなく、三好は登ってきたばかりの坂道を下って姿を消してしまった。全く意味が分からない。
「こんにちは」
振り返ると、そこに見知らぬ人間が立っていた。
目鼻立ちの整った初老の女性である。長い黒髪を上品に結わえ、藍色の地味な着物をまとい、手には赤い巾着袋を提げている。清楚な雰囲気は揺るぎない代物だったが、厳格そのものの眼差しが気を緩めてくれることはなさそうだった。三好と大差ない身の丈から、その威厳をかもす眼光で見下ろされるのは、猛暑の苛立ちに拍車を掛ける手助けにしかならなかった。
「こんにちは……」
麻理子はおずおずと挨拶した。女の口元は真一文字を刻んだまま、にこりともしない。
「今もう一人いたわね? 金髪の女の子」
「え……はい……」
「お前さんとどういう関係?」
麻理子は顔をしかめた。女の厚顔無恥な態度が気に食わなかった。こんな馬の骨が知って喜ぶ情報を、みすみす与えてやるほど脳みそはとろけていない。
「別に……さっき知り合ったばかりなので」
女は即席の嘘を見抜こうとするように、僅かに両目を細めた。
「これからどこへ?」
女が聞いた。麻理子はとっさに考えを巡らせた。この女、情報を搾り取るためなら地の果てまで追いかけてくる猛者に違いない。あの図々しい態度がそれを如実に物語っている。今、三好の後を追ってアパートへ帰るわけにはいかない……。
「墓地に……すぐそこの」
麻理子は本当のことを言った。女の顔にいちるの笑みがよぎった。
「奇遇だね、私もなんだよ。一緒に行きましょうか」
この女にとって、麻理子がどこへ向かっても〝奇遇〟なのは明白だった。麻理子はトボトボと女の後についていった。
大丈夫。麻理子は自身に言い聞かせた。こちらにはコーラがついているし、相手は墓穴に片足突っ込んだ婆さんだ。いざとなれば階段のてっぺんから転げ落ちてもらおう。
柳の葉が擦れる音の中、二人は階段を登り始めた。
「大人しい犬だね。名前は?」
「コーラです。女の子」
「うちの旦那にそっくりだわ」
「さぞイケメンなんですね」
女にはよっぽど皮肉に聞こえたかも知れない。麻理子は懸念したが、どうやら取り越し苦労のようだ。
「若い内はね、華があったもんさ。誰にだって、そんな時期の一つや二つはある」
「あなたにも?」
「ああ。今がそうさ」
驚いた。女はその言葉を証明するように、階段を平地のごとく突き進んでいく。初老とは思えない頑強な足腰だ。
「すごい……きっと骨が丈夫なんですね」
「やせ我慢してんだよ。体はボロボロさね」
「膝ぶっ壊れますよ」
「仕事柄、若い連中には負けてらんないからね」
「お仕事は何をされてるんです?」
「今サボってんのさ」
答えになっていなかった。だが、麻理子は女が『教師』ではないかと勘ぐった。
「サボったらダメじゃないですか。いい大人が……」
「お前さんこそ、学校はどうしたんだい? え? 平日の真昼間に犬の散歩とは、大した御身分じゃないか。夏休みにはまだ少し早いだろ?」
「行きたくても行けないんです。その……今はどうしても……あいつがいるから……」
「自分の不幸を、他の何かのせいにするのはやめな。根っから腐っちまうよ」
「だって……」
「大方、犬の散歩とかこつけて家出してきたクチだろう。三好を頼ってここまで来たってわけかい」
「三好を知ってるの?」
今、女の横顔が確かに『しまった』という表情に歪んだ。
「どうして知ってるの? 私に声を掛けたのはあそこに三好がいたから? 三好に探りを入れるために私を利用してるの?」
麻理子は矢継ぎ早にたたみかけた。頂上に差し掛かったところで、女は遂に腰を折った。
「年寄りを急かすんじゃないよ。生き急いだってロクな目にあわないよ。私はゆっくり死にたいんだ」
「そんなつもりじゃ……手、貸しましょうか?」
「やめてちょうだい。年寄り扱いするんじゃないよ」
「今自分で認めてたくせに……」
それが老人特有のボケなのか、あるいは話の腰を折りたいだけなのか、麻理子には皆目分からなかった。つかみ所のない女だ。
それから間もなく、二人はやっとの思いで階段を登りきった。少し遅れて、口からだらしなく舌を垂らしながらコーラが追いついてきた。
静かな所だった。やかましいセミの音も遠く、喧騒の界隈から切り離された丘の頂上は、人知れず安息の静寂を保っていた。百基ほど整然と並んだ墓石の向こうに、眼下に見る家並みの景観が広がっている。麻理子の生まれた町だ。
「この景色、見たことある……綺麗」
地平の彼方まで見渡しながら、麻理子は感慨めいた声を出した。気付くと、隣に女が立っていた。
「私、この町に住んでたんです。十年前まで。……でも忘れてました。この町がこんなに綺麗だったこと」
「今も昔も、ここから見える景色だけが特別だったわけじゃない。人によっちゃ廃れた片田舎さ。でもこの景観を見て、お前さんは確かに『綺麗』だと言った。時と共に移ろってきた境遇を、不幸だの、不公平だのと嘆きながらも、それでもお前さんの心は十年前を忘れちゃいない。羨ましいよ……私の心はずいぶんずる賢くなっちまった」
「そんな美談じゃありません。私はただ逃げていただけ……忘れようとしただけ……」
「青臭いガキが、カッコつけんじゃないよ。私が褒めてんだ。素直に喜べばいいんだよ」
「わーい」
「上出来」
二人は墓地の奥へと進んでいった。うっそうとした杉の雑木林を背にほこらが建てられている以外は、特に変わった所はない。抜け道などあっただろうか?
天蓋付きのほこらはとても大きなものだった。三段構成の木造ひな檀には、上段に六体のお地蔵様が並び、中段には火の灯った線香と両端に花が添えられ、下段にはお供え物が置いてある。どれもまだ新しい。麻理子はもう一度、しっかりと女を見た。
「ここまでして私に近づきたかった理由って何なんです?」
麻理子は核心に迫った。
「お線香に火を着けたのはあなたですよね? わざわざ階段を二往復してまで私から聞きたかったことって何です? 三好が関係してるんですよね? あなたは三好を知ってたし、三好はあなたを見て逃げ出した……」
「分かった分かった。小姑みたいにまくしたてんじゃないよ」
麻理子は、女のおっくうげな表情の隅々に、観念したような挙動を見て取った。
「でも私が答える前に、お前さんのことから教えてくれ。正直に答えてくれたら、私も応じようじゃないか」
気の乗らない取引だった。自称〝ずる賢い女〟のやり口に信憑性は皆無だった。
「分かりました」
麻理子は答えながらも、奇怪に黒光りするその瞳を通して、狡猾に算段する女の頭蓋の内側を見抜いた気がした。もう手遅れだった。
「お前さん、どうして三好と一緒にいたんだい?」
「家出したんです」
麻理子は簡潔に答えた。女が舌打ちした。
「知ってるよ。そこに至るまでの経緯があっただろ? その顔の傷と何か関係してんだろ?」
「三年前に母が再婚した男の暴力に耐えられなくなって家を出ました。出会い系サイトに登録して、キモ親父からお金をせしめようとしたけど失敗して、通りかかった三好に助けてもらいました。三好は十年前に知り合った友人だったんです。今同棲してます。私ペットなんです」
麻理子は空で言い切った。傍らで女が哄笑している。
「ペットか。三好らしいわ」
「言い出しっぺは私です。あの時は必死で……」
「そうかい。三好とはどこまで話した?」
女の目はまだ笑っていたが、麻理子はその声にはらむ僅かの緊張感を確かに聞き取った。
「色々……一緒に活動してた3.14倶楽部のこと、メンバーのタマのこと、妹の巴さんのこと、ヒマワリ畑に通じる抜け道のこと……でも私、どれも全然思い出せなくて。三好と話してる時も、他人の思い出話を聞かされてるように感じる時があるんです」
「頭の中なんてそんなもんさ。曖昧で当てにならない、粗末なごくつぶしだよ。思い出の保管場所に、自分の脳みそを選ぶほど愚かなことはないね」
「でも最悪な記憶を曖昧にできるなら、頭の中も悪くないな、って気がしません?」
女は頭ごなしに切り返すことも、私見を述べたりすることもせず、ただ口の端に微笑を含んだままお地蔵様を眺めていた。麻理子はそれを、自分にバトンが渡った合図だと判断した。
「それじゃあ、今度は私の番……」
「アイタタタタタタタッ!」
「は?」
「痛い痛い……足が……腰が……腹が……脳が……」
「脳が!?」
「もう声が出ない。無念だ。答えてやりたいのに。帰って休養せねば」
「せこっ! いいんですか! お地蔵様の前で嘘なんかついて!」
「いいのさ。お供え物したんだから」
この女を相手取ったところで、ただ体中の水分が枯渇していくだけだと気付くのに、しばしの時間を要してしまった。去り際、女は麻理子を振り返ってこう言い残していった。
「私は、三好なりの考えを尊重したいだけなのさ」