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第二話 ポチにコーラを

 空に星の光輝を据え、闇夜は重く沈みつつあった。

 麻理子は、山裾に浮かぶ小学校の威厳なシルエットを遠くに見た時、未だ忍び寄る不安と恐怖への戸惑いに一つの終止符を打った。麻理子は確かにあの学び舎を知っていた。十年前、三好と出会い、そして別れた場所である。闇は真実を隠せても、偽ることはできない。故にこれは、麻理子が間違いなく〝故郷へ帰って来た〟ことに他ならないのだ。


「やっぱりここ、三石町なんだ……」


 小学校のおぼろな輪郭を見据えながら、麻理子はより明晰な確信を抱いた。


「明るくなったら一緒に散歩してみる? あたしのアパートこの近くだからさ」


 町を東西に分かつ河川敷を南へ下っていくと、郵便局と教会とをまたぐ橋のたもとにアパートへ続く路地を見つけることができる。居住者が出入りする以外は何の使い道もなさそうな湿った路地だ。暗闇も相まってやたらと息苦しい。

 路地を抜けると開けた場所に出た。周囲は家屋に囲まれ、よりいっそう闇が濃い。空間の中央に鎮座する二階建て木造アパートが、物言わずこちらを見下ろしていた。


「我が家」


 三好は誇らしげだった。


「素敵。いいなあ、独り暮らし」


 麻理子が感想を述べるかたわら、三好の関心は闇に紛れる一台のスクーターへ移っていた。黒の車体にうっすらと『STAR』の文字が読み取れる。二人乗りの大型スクーターだ。


「やべ……圭くんが来てる」


 三好が焦っている。麻理子はもっと焦っていた。


「圭くん? ……お友達?」


「彼氏。足生えた性欲みたいな奴。大丈夫だって、すぐ追い出すから」


「いいの?」


「いいの」


 麻理子は三好の後について一階東側の部屋へ入っていった。

 騒然とした空間だった。玄関は女性物の靴で溢れ、入り切らなかったハイヒールの片割れが靴箱からはみ出している。バス・トイレ付きのワンキッチンらしいが、足の踏み場がビールの空き缶やらコンビニ弁当の残骸で埋め尽くされている以外は、ブラウン管テレビとベッドの間にわずかなスペースが確保されているだけである。


 六畳一間に全裸の男がいた。その貴重なスペースに尻を詰め入れ、テレビに映し出された男女の交尾にあやかって手淫を繰り返している。麻理子にとっての救いは、その男がこちらに背を向けてくれていることだった。


「おかえり」


 見向きもせず、行為に励みながら男が言った。三好が男の側頭部にチョップした。


「この部屋でマスかくなっての。イカ臭いわあ。ボリュームも下げて。近所迷惑だろうが」


 言いながら、三好は開けっ放しの窓をピシャリと閉めた。男は手を止め、部屋中のゴミを掻き集める三好の姿を目で追った。


「ごめんね。最近忙しくてご無沙汰だったから」


「謝るなって……何でわざわざ全裸なのよ」


「雰囲気作りよ。あら、可愛い子がいる」


 男は下着だけ身につけると、興味津々な面持ちで麻理子を観察した。麻理子は根が生えたように突っ立っていた。


「三好、ねえ三好。この子どうしたの?」


「拾った」


 三好は揚々と麻理子の肩に腕を回し、まだ中身の残っていた缶ビールを口元で傾けた。


「ペットなんだ。名前は……ほら、自分で言ってごらん」


「あっ……国見麻理子です。初めまして」


「ちがーう! ポチでしょ! あんたはポチ!」


「そうだった……ポチでした。わん」


 三好はさも愉悦そうに麻理子の頭をクシャクシャした。男は怪訝に目をすぼめた。


「麻理子? へえ、麻理子っていうんだ……国見麻理子もといポチねえ」


 つま先からつむじまで、男は舐めるように麻理子の体を観察した。麻理子は僅かに顔をそらしながらも、目の端ではしっかりと男の姿を捉えていた。金髪のスポーツ刈りで、鼻と耳にピアス穴の古傷が目立っていた。ギョロンとした大きな目玉を眼窩の奥で回転させ、絶えずこちらに照準を合わせている。痩せた細身にあばらが浮き立ち、頬はこけている。


「俺は松戸圭吾まつどけいご。圭くんって呼んで」


 圭くんが右手を差し出した。麻理子は笑顔で握手に応じた。


「あたしシャワー浴びてくるから。圭くん、その間に服着て帰ってくれる?」


「ええっ! 今夜はお楽しみでしょう?」


「疲れてんの。分かった? 帰れよ?」


「……はーい」


 三好が浴室へ引っ込んでも、圭くんは素直に帰らなかった。満面に笑みをたたえ、麻理子をベッドへと促した。群れを成す動物のぬいぐるみが周囲を縁取る真っ只中を、二人は肩を寄せ合って座った……というより、圭くんが執拗に肩を寄せたがった。


「ポチはどっから来たの? 歳は? 彼氏いるの? 何で三好に拾われたの?」


 圭くんが半裸で迫って来た。麻理子は関節の許す限りのけぞった。


「相生市から電車で。今日、十七歳になりました。彼氏いません。三好は命の恩人です。無一文の私を拾ってくれました」


 麻理子は散らかった部屋の隅々に視線を泳がせながら、淡々と答えていった。


「そっか~、なるほどね~」


 圭くんは声をなびかせた。横顔に微笑を含んでいる。


「三好はあなたに同情したんだね、きっと。三好ってそういうところあるから」


「圭くんも三好に拾われたんですか?」


 尋ねると、圭くんは高声で笑い飛ばした。


「三好はそのつもりだったかもね」


「どういう意味?」


「前の彼女とね、三好が働いてるラブホに行ったの。でも受付の時に喧嘩になって、彼女ったら帰っちゃったわけ。やり切れなかった俺は、フロントにいた三好をベッドへ誘ったわ。三好の返事は『OK』だった」


 少しジェラシーだった。三好は、自分に助けを乞う者なら見境なく〝拾って〟しまうのだろうか? 麻理子は唇を噛みしめた。自分だけが三好にとっての特別だったらよかったのに……。


「実は今、家出してるんです」


 不意に、言葉が口を突いて出てきた。圭くんが大きな目を豪快に瞬かせた。


「その顔の傷と何か関係あるんだ?」


「……殴るんです、義父が。例えば、勉強中にうたた寝するじゃないですか。すると髪の毛つかんで、机に頭を叩きつけるんです。『これで目が覚めたろ?』って。ギャンブルで負けるとお酒飲んで、私に当てつけして……殴ったり蹴ったり、髪の毛焼いたり……義父は酒乱で粗暴の悪魔です。あいつに包丁を向けて、さっき家を出ました」


 言葉がせきを切ったように沸き出してきた。相手は誰でもよかった。三好は、麻理子がこんな夜中に徘徊していた理由を聞いてはくれなかったし、麻理子自身も明かそうとはしなかった。


「でもお金がなくって。私、出会い系サイトに登録して、誰かに養ってもらおうとしたんです。けど、三石駅で待ち合わせた男が発情期の猿みたいな奴で……ホテルに連れ込まれそうになっていたところを三好に助けてもらいました。それで、一緒に住むことになったんです」


「ポチちゃん……」


 圭くんが首根っこに抱きついてきた。遠藤の胸糞悪い抱擁とは訳が違う。圭くんのそれには、三好と手を繋いだ時の温もりと共通するものがあった。不透明だった自分の存在を確かなものにできる安心感……それに違いない。


「今までよく頑張ったね。よしよし」


「よしよし、じゃねっつの」


 見上げると、そこに下着姿の三好が立っていた。醜悪な剣幕で圭くんを羽交い締めにし、麻理子からたやすく引き剥がすと、そのまま玄関まで引きずり、服もろとも戸外へ放り出した。


「ポチちゃん、また今度ね」


 圭くんの最後の言葉がそれだった。


「シャワー早かったね」


「まあね……二人にするの不安だったから」


 三好の目は少し冷たかった。圭くんにみすみす抱きつかせたことを、怒っているのだろうか?


「ポチも浴びてきなよ。着替え、洗面所に用意しとくからさ」


「うん、そうする」


 麻理子は遠慮しなかった。汗のベトつきや、遠藤からこすり付けられた邪悪な臭気を洗い流してしまいたかったからだ。

 浴室から出ると、洗濯機の上に下着とパジャマが置いてあった。手足の長い三好サイズのパジャマは赤いタータンチェックだ。しかし、何かが物足りない……ブラがなかった。


「あんたおっぱい大きいから、あたしのじゃキツいと思って」


 洗面所からブラの行方を尋ねると、返ってきた答えがそれだった。


「明日買いに行こっか?」


「えっ! いいよ、そんな……自分の使うから。乾くまで待つよ」


「汚れ物は洗濯機の中ね」


 リビングに戻ると、三好は下着姿のままあぐらをかいてビールを飲んでいた。シャープなボディライン。透けるような白い肌に鎖骨の陰影が美しい。麻理子は生唾を飲み込んだ。


「ポチは? ビール? コーラ?」


「えっと……ビール嫌い」


「了解」


 三好はキッチンから冷えた缶コーラを持ってくると、それを麻理子の手に押し付けた。二人はテーブルを挟んで乾杯した。


「私、いつまでここにいていいのかな?」


 麻理子はずっと不安に抱えていたことを白状した。三好は早くも次の一杯へ手を伸ばしながら、ほのかに破顔した。


「ずっとずっと、ずーっと。あたしが結婚しても、子供を産んでも、孫ができても……死ぬまでずっと一緒だよ」


 嬉しかった。十年分の誕生日プレゼントを受け取った気分だった。


「ありがと。でも学校が……」


「ここから通学しなさいよ。定期券買ってあげる。制服類は取りに戻らないとね」


「私バイトする。放課後なら時間空いてるし……」


「ダメ」


 三好は語調を強めた。


「あんたはペットなんだから、あたしが『お手』と言ったら『お手』をすればいいの」


「でも、私が言い出したことだし……」


「ポチが切り出してなかったら、あたしが言うつもりだった……一緒に暮らそう、って」


 三好の頬に赤みが差し込んだ。三好は誤魔化すようにビールを仰いだ。ますます赤くなった。


「だから、あんたはもう苦しもうとしなくていい。ただあたしのそばにいて」


「わかった。……ねえ、一口ちょうだい!」


 麻理子は三好の手からビールをかすめ取り、ひと思いに飲み下した。胃の腑から不快感がせり上げ、派手にむせ込むと、ビールが鼻の管を逆流して両穴からピュッと噴き出した。三好は腹を抱えて笑い転げた。


「おえ……くっさ! にがっ!」


 幸せなひと時を水に流すような惨事だった。鼻をかんでビールの残りを吐き出している時も、三好はまだ笑っていた。


「ポチ、それって、必殺技なの? ピュッ、ピュッ、って!」


 三好は笑いの発作を押し殺すように声を発したが、息継ぐ合間にかろうじて絞り出せる程度だった。


「サプライズよ、ご主人様」


 麻理子は仏頂面で請け合った。

 ベッド脇のキャビネットに目をやると、雑然とした小物類に紛れて一枚の写真が立て掛けてあった。三好が二人、広大なヒマワリ畑をバックに笑顔でピースしている。


「三好が二人いる……」


 麻理子は食い入るように写真の中の二人を見た。表情はおろか、背格好まで瓜二つだ。


「双子の妹」


 気付くと、哄笑はピタリと止んでいた。麻理子は三好を振り返った。その声も表情も、異様に落ち着き払っている。三好の姿が、あらゆる感情を髄まで抜き取られた精神病患者のように見えて、麻理子はいささか面食らうと同時に、ある一つの疑問へと辿り着いた。


「妹がいたの?」


 十年前の記憶を掘り起こす時が、もう一度迫ってきたように思えた。しかし、いくら十年前の自分の姿を網膜に投影してみたり、見え隠れする三好との親交に思いを馳せてみたりしても、彼女の言う『双子の妹』が何者なのか、手掛かりは一向に掴めずじまいだった。


「『ともえ』。バカでドジで不器用で……あたしがいないと着替えも出来ないような奴だった」


「私、一緒に遊んだことあったっけ?」


「ある……」


「巴さんは今どこに住んでるの?」


「たまに顔出すよ。どこに住んでんだろ……」


 三好にはそぐわない虚ろな声だった。目の焦点はアパートの内壁を見透かして、遥か遠方の地を案じ見ているようでもある。


 夜更けの六畳間はしかるべき静寂を取り戻しつつあった。二人は沈黙を共有し、缶の奥底で弾け飛ぶ炭酸の音色に耳を済ませていた。脳みそが活動の停止を訴え始めた。麻理子は最上の安眠作用をもたらす炭酸の一定リズムに、うっとりと身をゆだねていた。


「ここ、このヒマワリ畑、すごく見覚えがある。奥に建ってる小屋も……」


 写真を見据えながら、麻理子は漠然と呟いた。眠気が和らぐ。脳みそが息を吹き返してきた。


「小屋のレンガ塀を抜けて、中で遊んだ……漫画やお菓子を持ち寄って……確かに三人いた……私と、三好と……タマがいた」


 それが『玉』だろうと『TAMA』だろうと、麻理子にはその名の真意を見出す術がなかった。果たして、タマが人間の名前だったかどうかさえ定かではない。玉模様のぶち猫だったかもしれないし、あるいは小屋に住みついたネズミだったかもしれない。思い出せない。


「……タマって誰だっけ?」


 麻理子は調子外れな声で問うた。三好はビールの最後の一口を流し込んだ。


「誰って……巴に決まってるでしょ」


 違う……否定の念が脳裏をかすめた。根拠はないが確信はあった。タマは巴ではない……だが、それを明言することができなかった。巴の話題が出てから、三好の様子がおかしい。何か隠している。


「小屋には鍵が掛かってる。十年前からずっと、小屋の鍵を持ってたのはタマだけだった」


 手元に視線を落としながら、三好はおもむろに切り出した。


「学校側が定期的に開くレクリエーションの一環であたしたちは出会った。あたしは三年生、ポチは一年生だった。学年の隔たりをなくして、友達の輪を広げることを目的とした週末のメインイベントだったけど、あたしにとっては、退屈な学校を抜け出す恰好の口実にしかならなかった。あたしはあの小屋が大好きだったし、そこで三人揃って遊ぶひと時をとても気に入ってたんだ。小屋はあたしたちにとっての秘密基地だった。合言葉は……」


「さんてんいちよん……?」


 麻理子が言葉を受け継いだ。三好は悦に入ったように頷いてみせた。


「あたし、ポチ、タマは『3.14(みついし)倶楽部』の創立メンバーだったってわけ」


 記憶がリアルに追いついてきたことを、麻理子は嬉々として歓迎した。かつて、『3.14倶楽部』が幸福の一つに過ぎなかった事実を、今はっきりと思い出したのだ。

 二人は顔を見合わせた。最後に会ったあの時から、数分も経っていないような気さえする。三好の生粋な笑みには、当時の愉快な思い出の数々を形作る、パズルピースの欠片めいた存在感があった。


「今もあるの? 『3.14倶楽部』」


「さあ? 少なくとも、あたしが卒業するまではあったよ」


「それって学校公認?」


「もちろん。あたしが隊長で、タマはこ……」


 声が途切れた。三好は出しかけの言葉で喉を詰まらせたような顔をし、露骨にたっぷり視線を泳がせると、


「タマは副隊長」


 遂に言い切った。


「今、タマは『こ』って……」


 麻理子はそれを聞き逃さなかった。同時に、三好が『タマ』に関する情報をひた隠しにしているという疑惑に、より強い確信を抱いた。三好はもう笑わなかった。


「寝るぞ。明日は散歩でしょ? 仕事行くまで付き合ってあげる」


「私はどこで寝ればいい?」


「ベッド……あたしとじゃ嫌?」


 三好の柔らかい肌に触れながら、麻理子は暖かな一夜を明かした。




 何かの擦れる音で目が覚めた。麻理子は寝ぼけ眼で半身をもたげると、キャビネットのデジタル置時計が昼の十二時を示しているのを確認した。窓から射る暖かい陽光が部屋を横切り、柔和な寝息を立てる三好の寝顔を照らしていた。


 麻理子は音の聞こえる方向へ耳を傾けた。頭が冴えてくると、音はよりはっきりと鼓膜に響いてきた。玄関の方から聞こえてくる。麻理子はベッドから這い出ると、抜き足で玄関へと向かった。ドアを引っ切り無しにかきむしる音だった。外に生き物の気配を感じる。


「三好……外に何かいるよ……」


 麻理子は玄関から呼び掛けた。ベッドの陰からブロンドの乱れた頭髪がせり上がり、左右に揺れた。


「三好……外に何かいるよ……」


 麻理子は小声で繰り返した。その間にも、ドアをひっかく音はますます強くなっている。三好はようやく立ち上がると、押し入れから白のガウンを取り出し、下着の上から手荒に羽織った。


「なんじゃあ、騒々しい」


 事態を把握した三好はドア越しに声を放ったが、緊張感に欠ける寝ぼけ声が喉の奥で鳴っただけだった。それでも、外の生き物を大人しくさせるには十分な効果を発揮したらしい。音は聞こえなくなっていた。


「人間なの?」


 覗き窓から外を窺う三好の後ろ姿に向かって、麻理子は恐々と尋ねた。


「見えん。誰もいない」


 三好は僅かに開いたドアと壁の隙間から外を覗き込んだ。麻理子は、ドアの向こうにひっくり返った段ボール箱が転がっているのを見た。ドアが完全に開き切ると、そこに姿を現したのは一匹の犬だった。


「パグだ!」


 麻理子が駆け寄ると、犬は礼儀正しい身構えでこちらを見上げた。

 麻理子の見立て通り、それはパグだった。短い毛並みはくすんだベージュだが、目と耳、口周りは茶を帯びた黒だ。パグ特有のたるんだ皮膚が顔中にシワを刻ませているせいで、いかつい顔つきに見える。膝丈ほどの体はふっくらと肥えており、喉には立派な二重あごが垂れ下がっていた。


「おいでおいで。パグちゃん」


 パグはその大きな瞳に警戒の色をちらつかせていたが、やがてしっぽを左右に振りながら敷居を跨ぐと、自ら麻理子の腕の中に歩み寄っていった。


「かわいい~。ねえ三好、この子部屋に入れてもいい?」


「タオルで足拭いてからな」


「やった!」


 麻理子がパグを抱きかかえる間、三好は濡れたハンドタオルで手際良く前後の足を磨いていった。パグは鼻息も荒く、巨体をよじって大暴れした。


「こいつイケメンだな……メスだけど」


 仕上げに鼻先をゴシゴシされると、パグは怒ったようにタオルをくわえ込み、麻理子の腕をすり抜けてリビングへ駆けていった。


「誰が置いていったんだろ?」


 麻理子は呟きながら、タオルと戯れるパグの姿をじっと眺めていた。その光景を遮るように、三好が一通の茶封筒を眼前に突き出した。


「段ボールに入ってたぞ。圭くんからポチ宛てに」


 麻理子は怪訝な眼差しで封筒を見た。確かに、達筆な文字で『圭くんからポチへ』と書かれている。麻理子は封筒を受け取ると、中から紙切れを引っ張り出した。短い文面だった。


『ハッピーバースデー』


 麻理子は手紙とパグとを交互に見やった。


「誕生日プレゼントってこと?」


 手紙を裏返したり封筒の中身をもう一度探ったりしてみたが、続きはどこにも見当たらなかった。どうやら差出人は『ハッピーバースデー』の一言を添えたきり、大いに満足して口をつぐんでしまったようだ。

 三好の腕が背後から伸びてきて、麻理子の手から紙切れをもぎ取った。


「圭くんに昨日が誕生日だったこと話したの?」


「うん。彼が飼ってる犬?」


「圭くんの家には亀一匹しかいないよ。でも圭くんの字にそっくり……」


「首輪がついてないけど……野良かな?」


「まさか。野良はあんなに太らないよ。毎日食べて、部屋でゴロゴロしてた証拠。それに、まだ一度も吠えてない。無駄吠えしないようにしつけてある」


 的を射た三好の見解に、麻理子は素直に納得してしまった。


「詳しいんだね。犬飼ってたの?」


「今も飼ってるじゃん。ポチって名前の超かわいいマルチーズ」


 三好が後ろから抱きつき、唇で耳たぶを甘噛みした。刹那、心地良い感触に脱力し、頭が真っ白になった。


「やだ……くすぐったいよ」


 虚栄心は何の役にも立たなかった。でまかせの言葉は体ほど〝欲〟に忠実ではなかったし、実際のところ、もっと続けてほしいというのが本音だった。ここにきて、麻理子はもう一人の自分の存在をかいま見た気がしたが、それは二の次だった。


「ポチの耳、お餅みたいでおいしい」


「ふあぁ……」


 全身の力が足の裏から抜け落ちていった。麻理子は倒れるようにベッドへもたれかかった。


「あんた処女?」


「自称処女」


 麻理子は無気力に答えた。

 パグが気難しい顔で駆け寄ってきて、力なく折り畳まれた麻理子の膝の上に前足を置いた。麻理子はたちまち元気になった。


「この子の名前、どうしよっか?」


 誰にともなく言うと、背後から三好の咳払いが聞こえてきた。


「『ビール』ってのはどう?」


 麻理子は光速で却下した。ふと、飲みかけの缶コーラが目に止まった。


「『コーラ』がいい。ねえ、『コーラ』にしようよ」


「ポチがそう呼びたいなら、お好きにどうぞ。そいつはあんたのペットみたいだし……でもオスなら断然『ビール』だったな」


「オスなら『ペプシ』よ」


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