第一話 孤独の闇夜へ
作者より
幼い日に辿ったあの道を、私はいつからか見つけられなくなっていました。
それにも関らず、ふとした拍子に脳裏をよぎる思い出って、断片的で、曖昧で、それも幼少の頃に見聞きしたしがない代物だった、なんてケースが多いんですよね。誰にでも一つや二つ、そんな思い出があるのではないでしょうか?
もちろん、十年前の全てを忘れようとした『国見麻理子』にも、それはあったんです。
「負けんなよ」の一言。たったそれだけ。誰の声かも、いつ言われたのかも分からない。不透明な言葉の存在が、時に彼女を勇気づける糧になっていたんです。
顧みるに、タダで済ませないのが国見麻理子のやり方だったのでしょう。負けず嫌いの典型な例に漏れず、彼女もまた、執念深い女の一人だったんです。
私がこうして筆を執ったのは、麻理子の熱意に感化された結果、幼い日に辿ったあの道をもう一度見つけ出してやろうと、固く決心したからに違いないんです。
それは、国見麻理子が十七歳になった夜のことだった。
麻理子が包丁を向けると、その悪魔はおとなしくなった。赤ら顔に恐怖と怒りの混沌が貼り付いている。いい気味だ。柄を握る両手に満身の力を込めながらも、しかし麻理子にはその悪魔を殺める勇気が足りなかった。
「俺を殺すか?」
向けられた切っ先に生半可の殺意を見て取ったのか、悪魔は冷静な声色で問うてきた。国見英樹。麻理子の義父だ。
「近づいたら……刺す! 刺すから! 殺さない……死ぬより辛い目にあわせてやる」
食いしばった歯の隙間から声が押し出されてきたが、心意気は言葉ほど勇敢ではなかった。
「やめよ、マリちゃん? 包丁しまお? ね? ね?」
実母の涼子が義父の傍らで哀願している。この女はいつも彼の味方だった。麻理子が刃を振るったとしても、彼女なら死を賭して彼の前に身を呈するだろう。
麻理子は刃先を義父へ向けたままキッチンから自室へと移動し、財布と携帯電話をスラックスのポケットへ詰め込むと、床に包丁を放って玄関へと猛進した。
「分かってんのか?」
背後から義父が呼び掛けた。
「ここは俺の家だ。今出て行ったら、二度とこの家の敷居は跨がせねえぞ」
「もう帰らない」
「野垂れ死にが関の山だ。万引きでもするか? ゴミを漁るのか? 小娘が……所詮、お前にできることなんかその程度だよな」
無力だった。言い返す言葉も、立ち向かう根性もない。家出とかこつけて尻尾を巻いた臆病な背中を、あの悪魔に向けたくなかった。悔恨の涙が瞳を濡らした。
麻理子は家を飛び出した。
月夜の闇に、繁華街のネオンが踊っている。通りは賑やかだ。手をつないだカップルや、泥酔したサラリーマンで溢れている。彼らは当てどない麻理子の脇をすれ違い、あるいは笑い声を引きずって追い抜いていった。
その誰もが、自分の行き着く場所を知っている。そこには暖かな光が満ちているだろう。美味しい食事があり、シャワーがあり、布団があるだろう……麻理子は目を上げた。暗雲の心内を反映するように、眼前には闇が……踏み入る者を不安に陥れる冷たい闇が広がるばかりだった。麻理子はとっさに踵を返した。本能が拒否反応を示したようで、近くのファーストフード店へ逃げ込むまであっという間だった。
店内は混み合っていた。レジ前には客が並び、何人かはオーダーの完成を待っている。麻理子は列に加わりながら所持金を数えてみた。582円……。
「店内でお召し上がりですか?」
「はい……ハンバーガーを一つ。あとお水下さい」
「100円になります」
麻理子は出来上がった商品を持って店の奥へと進んでいった。壁際の埃っぽい席が一つだけ空いている。腰を下ろすと同時に嘆息が漏れ出してきた。
にじり寄る後悔が、脳内を完全に支配することがあった。それは「理性を欠いて愚かなことをしてしまった」という悲嘆そのものだった。麻理子は数時間前の自分の行動が不可解でならなかった。家出娘の分際が、たかが582円で大偉業でも成し遂げるつもりだったのだろうか?
考えれば考えるほど、麻理子はひどく滅入ってしまった。
「負けんなよ」
無意識の内に呟いていた。誰かが……遠い記憶の中で呼吸する誰かが、麻理子の声を借りて呟いたようだった。苦心に苛むたび、麻理子を勇気づけてくれる言葉だ。誰の声だったろうか。思い出せない歯がゆさに、言葉は幻だったのではないかとさえ思えてくる。しかし今も尚、この声の主はおぼろなシルエットを投げかけながら、記憶の中にしっかりと生きている。それは確かだ。
麻理子はハンバーガーに食らいついた。口を開くと左頬に痛みが走った。義父に殴られた痛み……頬だけではない。体中のあちこちにできた、この恨みと憎しみの印こそ、麻理子を突き動かす原動力そのものだったはずだ。
「逃げなきゃ殺されてた。あの悪魔が……あの悪魔さえいなければ……」
貴重な食糧は瞬きする間に胃袋へ流し込まれていった。
これからどうしようか? 朝になればデパートが開く。ウィンドーショッピングに勤しみながら時間を潰せるだろう。その夜は? 次の朝は……?
帰る家はない。親戚もない。友人にすがれば学校へ連絡がいくだろう。登校はできない。制服は自室のクローゼットだ。お金すらない。あるのは……携帯電話だけ。
「聞いてー。この前さー、オヤジに声かけられてー」
折しも、後ろの席から女の下品な声が聞こえてきた。
「アキちゃんですかー? って! まじキモくね? あれ百パー援交だって!」
「あんた間違えられたんだ! だっせ―!」
「まじキモ過ぎたからケーサツ呼んだわ。オヤジ職質されてやんの!」
閃いた。援助交際とまではいかないが、出会い系サイトに登録して素敵な男性からの連絡を待つのだ。金銭にありつけるだけでなく、あわよくば擁護してもらえるかもしれない。
麻理子は携帯電話からネットへアクセスし、大手の出会い系サイトに目星をつけた。『十八歳未満お断り』をしれっと無視し、手際良く登録を済ませると、後はプロフィールを作成するだけとなった。
名前:牧原 麻理子
年齢:十八歳
誕生日:八月七日
血液型:A型
自己紹介:相生市に住むフリーターです。家出した身寄りのない私を養ってください(笑)
趣味は絵を描くこと。大雑把な性格で、犬が好き。特技は早寝早起き。
このプロフィールには麻理子なりの細工が施されている。「牧原」という姓名は実父のもので、身分を偽装するために利用した一方、万が一、牧原龍郎その人がこのプロフィールに目を通すようなことがあれば、必ず愛娘に力を添えてくれるはずである。
離婚の原因が龍郎の浮気であることを麻理子は知っている。しかしそれでも尚、龍郎は麻理子のことを愛してくれていたはずだ。あの悪魔とは決定的に違う……国見英樹が麻理子の名を呼んだことはない。
年齢は水増しの十八歳。サイトの指針に従うならここは妥協できない。誕生日はちょうど一ヶ月遅れだ。今日が誕生日であることを明確にすれば、麻理子が高校生だとバレるからだ。一ヶ月後に十九歳を迎える手はずにしておく方が、双方にとって都合が良い。
麻理子は携帯電話を掲げ、最高に可愛いと思えるアングルでシャッターを切った。フラッシュをたき、左頬は隠した。涙で腫れた目と傷痕を誤魔化すためだ。確認してみると、なかなかの出来栄えだった。ロングTシャツのシックな服装に、細い輪郭を縁取るセミロングの黒髪が良く映えている。父親譲りのダークブラウンを帯びた瞳、低い鼻は母親に生き写しだ。美麗な歯並びはさながら真珠のネックレスのよう。
悪魔にこの歯を折られなかったのは幸いだった。
麻理子は満足した。肩越しにバカ笑いを浮かべる女の横顔が写り込んでいるが、まあ気にしない。些細なことだ。
後は連絡を待つだけとなった。麻理子はひたすらサイトへログインし、メッセージボックスに目ぼしい連絡がないかをチェックした。突拍子の無い浅はかな試みではあったが、周囲の客が総じて入れ替わった頃、ようやく一通の連絡が届いた。
相手は四十九歳のサラリーマン。名前は遠藤。顔写真は載せていない。内容はこうだ。
<これから食事しようよ。独り身なんだ。打ち解けあえたら、僕の家に来る? こっちは三石町だよ>
「……三石町」
その町の名を口にすると、胸の奥を鞭打たれるような苦痛に苛まれた。三石町はここ相生市から二十キロほど西にある県境の町……麻理子が幸せを見失った故郷だ。
<分かりました! 今なら終電に間に合うので、三石駅で待っていて下さい!>
背に腹はかえられない。返信すると、麻理子は威勢良く席を立ち、店を後にした。何より、目的の場所を明瞭にしたことで、街の中を亡者のごとくさまよわずに済んだのは嬉しかった。麻理子は目を上げた。もう闇はなかった。
北へ二キロほどの所に相生駅がある。通学に利用する見慣れた駅だった。終電間近とあって人足もまばらだ。駅前の広場ではやんちゃな高校生たちが制服姿でたむろし、夏夜の涼風にタバコの煙をくゆらせている。
あんな奴らにも帰る家がある……卑屈な考え方が、よりいっそう麻理子を惨めにさせた。己の人生をかえりみて、利巧な代物だったと豪語できるわけではない。母親が再婚する三年前まで、悪友とつるんで羽目を外していた時期も多かった。ほんの出来心だったはずなのに……あの頃のツケをこんな形で払わされるなんて、絶対に不公平ではないか!
気付くと、車窓の景色が移ろいでいた。片手には切符を握り締めている。片道480円……残金は2円だ。
駅を一つ通り過ぎるたび、気分が落ち着かなくなってきた。麻理子は〝またしても〟やってしまった。素性の知れない中年男と夜を明かそうだなんて……あわよくばお金をせしめようだなんて、お門違いもいいとこだ。一体、数時間前の自分は何を考えていたのだろうか? だが、つべこべ言っても始まらない。もう戻れない……戻るお金がない。
麻理子の意に反して、列車は三石駅のホームへ滑り込んでいく。ドアが開くと、麻理子はひと気のないホームへと吐き出された。途端に、哀愁が肌に触れた……十年前に置いてきた、おぼろな記憶の断片に相違なかった。
ここへは、もう二度と来ることはないと思っていたのに……。
「こんばんは」
駅を出ると、石造りの表階段に立っていた男が声を掛けてきた。禿げ散らかった頭をユラユラさせながら、段々とこちらに近づいてくる。極端な猫背のせいでやたらと背が低い。構内の明かりを浴びてげせんな笑みが浮かび上がった。
「牧原麻理子ちゃん?」
「……はい」
麻理子は無意識に身構えていた。嘘をついて逃げることもできたが、それではここまで来た意味がなくなってしまう。今麻理子を救えるのは、この胡散臭い男ただ一人なのだから。
「じゃあ行こうか。あっちにね、遅くまでやってるレストランがあるんだよ。お腹空いてるだろ?」
「はい。ペコペコです……」
麻理子は息を詰まらせた。すえた汗の悪臭が夜風に舞っている。すっぱい臭い……腐ったたくあんのようだ。この男、どれだけ風呂と無縁の生活を送っていればこんな悪臭を放てるのだろうか?
「麻理子ちゃんは家出中なんだよね? 親と喧嘩しちゃったの? 相談乗るよー」
「わあ……ありがとうございます」
手短に答えるのがやっとだった。信号待ちで鼻が馬鹿になるまでは、呼吸するたびに脳みそへアッパーをお見舞いされている気分だった。
「遠藤さん? 町の中心はあっちじゃないですか?」
麻理子は彼方に輝く町の明かりを振り返り、幹線道路沿いに仰々しく指を差した。
「いや。こっちであってるよ」
遠藤はお構いなく歩き続けた。二人は薄暗い路地へと入っていった。唯一の明かりは、道路を挟んだ対岸の歩道に街灯がポツンと佇立するだけだった。麻理子はいよいよ身の危険を感じ始めた。
「着いたよ」
見上げると、そこは紛れもなくラブホテルだった。ピンクとブルーの派手なネオンが、住宅地の只中にとても不相応だ。
「レストランって言ったじゃないですか!」
語気を荒げたが、遠藤は愚弄の笑みを崩さなかった。見せかけの強がりを見抜かれている。
「あるよ、一階に。頼めば部屋まで運んでくれる」
「屁理屈言わないで……っ!」
不意に遠藤が抱きついてきた。乳房に顔を埋め、激しい息遣いでこすりつけてくる。醜悪な汗と口臭のコラボが麻理子を総毛立たせた。
「おっぱい大きいね。Dくらいかな? こんな薄い服着て……やらしい子だ」
「やめて……離してよ!」
「欲しいんだろ、ほら?」
絶叫するが早いか、遠藤は麻理子の視界に札束をチラつかせてきた。十万……いや二十万はある。
「お前処女だろ? え? 高く買ってやるよ。俺の女になれ。そしたら小遣いだ。一日に一万。悪い取引じゃないだろ」
遠藤を胸に抱いたまま、麻理子は考えに耽り込んでしまった。金に目がくらんでいた。僅かな所持金が一夜で数十万に、一ヶ月で三十万以上に膨れ上がる……あらゆる物を代償にして。
「いや! いやだ!」
麻理子は遠藤を突き飛ばした。今、あまりにもお金が欲しい……それ故の決断だった。今宵は二度も学習した。もう失敗はしない。どこかで己の意欲に背を向けなければ、同じことが繰り返されるだけだ。
「何だよ、何が気に入らない?」
遠藤は呆けた顔と声で尋ねた。
「手取りで二十万だぞ。足りないか? 三十万ならどうだ?」
「お金の話じゃないっての……」
立ち去ろうとする麻理子の腕に遠藤が掴みかかってきた。麻理子は腑に落ちなかった。これほど気味の悪い生き物が、二本足で歩いたり、肺で呼吸したり、ましてや目のくらむような大金をポケットに忍ばせているわけがない。存在そのものがでたらめだ。
「離して! チビ! ハゲ! ゴブリン!」
その時、ホテルから一人の女が出てきた。夜のしじまにハイヒールを打ち鳴らし、長い髪をなびかせて二人の脇を素通りしていった。麻理子は呆気に取られた。
「ちょっ……待って! 助けて!」
女が立ち止まった。タイトなワンピースの上で、田舎町には不釣り合いのブロンドのロングヘアーが風になびいた。
「『ワン』って言ってみ?」
振り向きざまに女が言った。威圧的な口調に、麻理子は再び度肝を抜かれた。
「え……わん?」
「そう。『ワン』だよ、『ワン』」
「……わん」
「もっと大きく」
「わん」
「もっと!」
「わん!」
叫びが静寂を貫いていった。同時に、腹の底から奇妙な勇気がせり上がって来た。今なら戦える……あの悪魔とだって互角に渡り合える。
麻理子は遠藤を振り返った。臆病な面持ちが嘲弄の笑みに取って代わっていた。遠藤は手を離し、よろけながらも後ずさった。
「私の前から消えろ……わん!」
遠藤は脱兎のごとくずらかった。情けない後ろ姿が闇の彼方に消えるまで、麻理子は雄々しい仁王立ちで眺め続けていた。
「やるじゃん」
様子を見ていた女が気さくに話しかけてきた。麻理子より頭一つ大きい。ネオンの光を受けて、身躯の滑らかな曲線美が闇に優雅な輪郭線を投げかけている。ファッション誌から抜け出してきたような女性だった。
「ありがとうございました。えっと……」
「三好。可愛い苗字だろ? みんな三好って呼ぶんだ」
「可愛い……ですね」
麻理子は調子を合わせた。
「私、国見麻理子っていいます」
「ふーん……」
三好の顔がぐっと近づいてきた。端正な顔立ちはケチの付け所がない。控え目な香水も好印象だ。目のやり場に困っていると、三好が何の脈絡もなく麻理子の鼻にキスをした。
「かーわいい!」
呆然自失の麻理子を置いて、三好は颯爽と歩き出した。
「おいで、ポチ。メシ食いに行くぞ」
「ポチ……ポチ! 知ってる!」
麻理子は駆け出した。
「知ってる! 私のあだ名! ポチだった! 思い出した!」
三好を追い抜くと、麻理子は彼女の前に立ちはだかった。三好が微かに笑うのが分かった。
「あたしも知ってるよ、牧原麻理子。うん……あたしは十年前のあんたを知ってる」
「あなた……三好茜?」
思い出してきた。両親が離婚した十年前……この町を去った十年前……父親が自分の前から姿を消したあの時、麻理子は幸せな思い出全てを切り離して生きていくことを選んだのだ。まだほんの七歳だった。当時のことはほとんど覚えていない……あえて忘れることを選び、思い出そうともしなかった。
しかし今、かつて、幸せとともに失われた記憶の一部が、十年の時を経て甦ろうとしている。三好がそのきっかけをくれた。そして彼女の存在もまた、その切り捨てられた思い出の中心に確かな足跡を刻み込んでいる。三好茜は麻理子より二つ年上の、大切な友人の一人だった。
「十年振りか」
三好が笑いかけた。
「あれからどうだった? 幸せだった?」
麻理子はかぶりを振った。
「親が離婚して、それで引っ越したの。お母さん、三年前に再婚したけど……お別れ言えなくてごめんね」
「謝んな。誰も悪くないじゃん?」
三好は犬をあやすような手つきで、クシャクシャっと麻理子の頭を撫でた。
「ねえ、さっき何で無視したの? 襲われてたのに。気付かなかった?」
市街地へ向かって歩き始めると、麻理子は出し抜けに詰め寄った。
「慣れてるから」
三好は素っ気なく答えた。
「ホテルに入るか否かで押し問答やってたんでしょ? 結構あんだよね、そういうの」
「どうして……」
「あそこで働いてっから。フロント。安い給料でコキ使われてんの。……ポチこそ、あんな親父と何してたの? 援交?」
「違うもん…………」
想いが声になることはなかった。帰る家がないことを話したら、三好はどう思うだろう? 身寄りのない麻理子を救うだろうか? もし拒絶されたら……
「変な顔」
思い煩う麻理子の顔を覗き込みながら、三好は小さく嘲笑した。
「すねてる時の顔だ。あんた変わらないね」
「あの時のことなんか覚えてない」
麻理子は冷たくあしらった。
「親が離婚して、色々あったから……全部捨ててきた。楽しかったことも、いやなことも、みんなリセットしようとして。そしたら本当に忘れちゃった」
「へえ、ラッキーじゃん」
三好はまだ笑っていた。
「あたしは覚えてたよ、ポチのこと。グラウンドで鬼ごっこしたり、屋上で日向ぼっこしたり、秘密基地で遊んだり」
「秘密基地? 何だっけ?」
「『みついしくらぶ』よ」
詰まるところ、この道すがら、麻理子が『みついしくらぶ』に関する有益な情報を思い出すには至らなかった。三好行きつけのラーメン屋でチャーハンを御馳走になり、不明瞭な思い出話に無理やり花を咲かせようと努力した時でさえ、それは同じだった。
「おごってくれてありがとう。命拾いしちゃった」
店を後にすると、麻理子は夏の夜風をデザート代わりに頬張った。三好が呆れたように失笑した。
「あんた貧乏そうだもんね」
「所持金2円っす」
「マジ?」
麻理子は、三好の恐れおののくような表情に、狡猾さの片鱗をかいま見た気がした。滑稽な沈黙が二人の間に横たわっている。二人は見つめ合い、ひとしきり互いの胸中を探り合った。
ふと、三好が背を向けて歩き出した。我欲を振り切ろうとする三好なりの振る舞いとも見て取れたが、それでも麻理子は彼女の後を追った。
「あのさ」
飢えた捨て犬が濡れた瞳で愛を乞うように、麻理子は微かな声で鳴いた。
「私をペットにしない?」
寝静まった住宅地の閑静に、麻理子の虚ろな声が響いた。冷静な口調とは裏腹に動悸は加速する一方だったが、麻理子は本能に従順すぎたことを後悔しなかった。さっきはうまくいった、だから今度もうまくいくかもしれない……。
二度目の沈黙は束の間だった。振り向く三好の笑顔が、夜のとばりを彩るどんな光よりも輝いて見えた。
「おいで、ポチ。リードしなきゃ」
三好のたおやかな指先が麻理子の手を握った。柔らかな温もりは全身を抱擁するベールのようで、安堵した麻理子の目から自然と涙がこぼれ落ちてきた。そんなことは露知らず、三好は麻理子を引っ張り続ける。
麻理子は涙をぬぐった。
とても幸せだった。