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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

感情の欠片⑤ ー短編集ならぬ断片集ー

作者: ぷょ
掲載日:2026/04/14

 私は宙を舞っていた。いや、舞っていられたのはほんの一瞬で、すぐさま体に重力が絡みつく。

 夢から現実へ引き戻されるように、私は地面へと、叩きつけられようとしていた。

 『流石に無理かもな』と、心の中で呟いた。

 それなのに、なぜだか死を直前にしたら湧き上がってきそうな感情たちは一向にどこかに引っ込んだままだった。焦り、悲しみ、やるせなさ、そして…生きたいという願望。それらは、一瞬たりとも私の心に現れてくれることはなかった。

 それに、こんな劇的な瞬間を招いたのは、単なる私のうっかりともなると、笑うに笑えない。死因が足を滑らせたことによる落下死なんて何の面白味もない。

 惰性で伸ばしていた長い髪が、落ちることを拒むように空へと伸ばそうとする。私自身の手はとうに諦めて、胸の前で行儀良くお祈りのポーズをしているというのに。

 空が遠ざかる。景色が目の横からどんどん流れていく。どれもこれも、落ちる私を嘲笑っているみたいだった。

 ふと、誰かのことを思い出した。それと、優しく触れた手のひらの温度も。

 その人に触れられた瞬間、私が私でなくなった感覚がした。正直、怖かった。だけどそれ以上に、懐かしさや感動にも似た別の感情が全身を瞬く間に塗りつぶした。

 あの人に縋って泣いた時に、何を考えていたとか、どんな気持ちだったのかとかは、あまりよく覚えていない。覚えているのは、頬を伝っては落ちていった大粒で熱くて不揃いな涙たちの感触だった。

 どれ一つとして同じものはなく、溢れる毎に様々な感情が涙に溶けて入り乱れていた。色とりどりで淡い色の涙たちは、揺らめく度にまた、違う色合いを見せていた。

 一つの涙に、たくさんの色。それでも涙は涙であり続けると悟った。一つの私に、たくさんの涙。…それでも私は、私であり続けると、悟った。

 ぴっと、目元から雫が離れて、宙に浮かび上がった。重力に逆らうように丸くなったそれは、数度ゆらゆらと小さく揺れた後、私の視界から消えた。

 それがなぜ出てきたのかも、どこに行ったのかも分からないまま。

 ぐちゃっとも、べちゃっとも取れない音がしたのだ。そう、私は叩きつけられたのだ、他ならぬ地面に。

 もう腕も頭も、どこも動かせない。だけど私は、どうしても腕を伸ばしたい衝動に駆られていた。先程視界から消えてしまった涙を捕まえたかった。とてもとても小さいけれど、確かに私の一部であるそれを。

 そんなに世間は甘くはないことを、何よりもよく、知っているはずなのに。今更になって命乞いとは笑えてしまう。

 だけど、だけど私は、きゅっと唇を引き結んだまま、じっと空を睨みつけていた。

 視界が徐々にぼやけていくのは涙なのか死へのカウントダウンなのか、私にはもう考えることはできなかった。

 どくどくと心臓が跳ねる度に、じくじくと頭から熱が逃げていく。痛みや暑さを通り越して、もうなんだかよく分からなかった。

 死ぬ、と言うことは分かってはいるのだが、どうやって死ぬのかとか死ぬ前の感覚はどうなのかとか、私には知らないことが多すぎるぐらいにある。

 …ああ、できるならもっと早く気づいていたかった。初めからこの心にあったはずのこの気持ちを、ずっと見つけられなかったこの気持ちを。

 どうして、どうして最後に、こんなこと思うのだろう。…でも、でもやっぱり…

 『しにたくない、なぁ…』


ー・ー・ー


 冷たい風が吹いた。遠く見える水平線に今まさに沈もうとしている夕陽が、今日の昼を名残り惜しむように淡く揺れていた。

 私は、崖の上にいた。崖の下から吹き抜ける強い風が私のスカートをはためかせ、高めに一つで結った長い髪を靡かせた。

 唇をきゅっと引き結んだ私は拳を握りしめたまま、眼前に広がる広大な海の、その水面を睨みつけていた。

 陽が、沈む。

 大昔、昼と夜は仲が良かったらしい。その頃は昼と夜の間に、明け方と夕方という時間があったと言う。その時間帯の話は、昔の本に信じられないほどよく出てくる。昼にも夜にも属さない曖昧な時間。それらをその目で見たことのない今の私たちですらも、魅了してやまないのだ。

 あたりはもうすっかり夜になっていた。海もすっかり暗闇に染まり、そこにあるのは海か、はたまた他のもっと恐ろしいものか。生きとし生けるもの全てを包み込むような、静かで暗い夜がやってきた。

 今日も、明け方も夕方も見られなかった。私がそれを見たいと望んでから、どれぐらいの時間が過ぎただろうか?…こうも叶わない願いなんて、持っているのは辛いだけではないだろうか?

 今の昼と夜は仲が悪い。だから、陽が登れば一気に昼が来て、陽が沈んだ瞬間に夜が来る。

 そんな、情緒もへったくれもない一日を今の私たちは生きている。

「かえろ…」

 人々は昼と夜の二極化に合わせて、新しい進化を遂げていた。

 昼はどんなに温厚で気さくな人でも、夜になった瞬間に寡黙で泰然とした人になる。今は昼を基準にして考えたけれど、どちらが本当のその人なのかは誰にもわからない。勿論、その人本人でさえも。

 でもみんな別に気にしないのだ。誰しもそう言うものだと受け入れて生きている。と言うか、当たり前なのだ。

 …私はそれが、心底気持ち悪いのに。

 家へと帰る足取りが重いのもそのせいだ。私とほかの人たちとのギャップが、どうしても私には奇異に見えてしまう。少数派が自分だと分かってはいる。けれど、分かっているからこそ、より一層その気持ちは強い。

 私は生まれつき、昼と夜での性格の差があまりない。昼の方が少しおしゃべりで、夜の方が少し物静かなぐらいの違いしかない。

 いつの間にか、歩くスピードがどんどん遅くなっていっていた。それに合わせて、ざわざわと道の脇に生える草のさざめく音がうるさくなる。

 どうにも家に帰る気にならない。一人でいたいと言う願いが、並々とこの胸を満たしていく。

「……」

 私はもう、完全に立ち止まっていた。

 歩きたくなんてなかった。暗い暗い夜の一部が、足音もせずにそこまで忍び寄っているみたいで。

 昼と違って照りつけるようではないけれど、静かに確かに追い詰めてくるようで。やはり昼と夜は似ている。昼は射す日差しに濃く伸びた影に煽りたてられ、夜は忍び寄る暗闇に浮かぶ光を見ては恐ろしくなる。

 目まぐるしく変わっては変わっていく昼と夜に追い立てたれて、その隙間から知りもしないものに縋ろうと手を伸ばした。

 そんな甘い考え、報われるはず無いと言うのに。

「もうたくさんだ…」


ー・ー・ー


 彼女は風のような人だと思った。だけどそれと同時に、風にはなれないと思った。

 彼女は軽やかな話ぶりの合間の、息継ぎのような一瞬、ふいにどこか遠くを見る癖があった。

 その横顔は、つい先程まで話していた僕のことさえも忘れて、全てのことも忘れて、きっと今彼女自身が生きていると言うことすらも忘れてしまったかのような雰囲気を持っていた。

 僕はその横顔を見る度に、手を伸ばしたい衝動に駆られていた。だけど手を伸ばしたら、本当に彼女が風となって消えてしまいそうで。僕はどうしても、それができずじまいだった。

 風のような吹き抜ける明るさと、風のように透けて消えてしまいそうな儚さ。そう言う意味では、確かに彼女は風だった。

 だけど彼女は、血の通った人間だった。

 どこか遠くを見る時の、ぼんやりとした瞳の奥に秘められた輝き。彼女の内側から光り輝くもの。きっとそれは、生きるものにしか出せないであろう煌めきだった。

 僕はそれに、魅せられたのだ。

 誰よりも生きているのに、誰よりも生きていなさそうな彼女に。その声の合間に潜む、彼女の中に巣食う得体の知れない何かに。

 恋なんて脆くて不確かなものじゃなかった。もっと強固で、もっと強力で、もっともっと…もっと、危うげな何かだった。

 触れた瞬間に弾けて飛び散ってしまいそうなそれを、誰かもわからない誰かから隠すようにひっそりと抱えていた。

 …今はもう、無い。


「っは…」

 僕は目を覚ました。

 目元から滲むようにして出てきた涙が、今、頬を伝って流れた。中途半端に投げ出された右手は、行き場がなさそうに微かに丸まっていた。

 どうしてだろう。頭がぼうっとして、妙に疲れている。なんだか酷く懐かしくて苦々しい夢を、見ていた気がする。

 夢から覚めた後の、静かにざらつくような喪失感が、ベットから染み出して、やけに薄暗い六畳半の部屋を満たした。

 その中に一人横たわる僕は、ベットに沈み込んだまま動けないでいた。

 自分以外、生きたものが何も無い空間。それはまるで、浅い息を繰り返しているこの僕を静かに葬っているみたいだった。そして、時間だけが確実に溶けていった。


 やっと起き上がれた時にはもう陽は傾いていて、安いカーテンを突き刺すようにして西陽が貫通していた。

 何もしないまま、今日をまた終える。

 言葉だけが、僕の心に重くのしかかってきた。今となってはそれだけが、僕が生きていることを確かに証明しようとしていた。

 ぺたぺたと、生ぬるいフローリングを裸足で歩く。頭が上手く座らなかった。半ば壁に体を擦り付けるようにして冷蔵庫へ。

 ガポッ、と無機質な音を立てて、青白い箱は冷気を吐き出した。冷蔵庫の中には何もなくて、かろうじて冷やしてある水道水を口に含む。濡らすように、慣らすように、ゆっくりゆっくりと。

 一度、やるせなさの向く勢いに任せて一気飲みをしたことがある。結果は散々だった。まず咽せた。それに、上手く飲み込めなくて吐き出した。ただの水とは言え、一度口の中に入って汚れたものが床に広がった。片すのは僕自身しかいない。床に吐き出された吐瀉物なのに冷たくてなんの匂いもしないそれを片付けている時間は、酷く空虚だった。

 いつからだろう。毎日をただ、寝て起きて水を飲んで排泄して、また寝るようになったのは。百年前からそうしている気もするし、つい最近からの気もする。

 ただ一つわかるのは、この繰り返しの中で僕はこのまま、自分の命がふいに消えてしまうことを願っていること。

 こうしてただ緩やかに衰弱していく自分自身を救う気が湧かないのだ。

 そりゃそうだと、心の中でつぶやく。

 布団は少し離れていた間に、すっかりひんやりとしてしまった。どこか嫌がるように、僕が布団に入ることを渋々受け入れる。

 こんな自分は終わればいいと思う、消えてなくなればいいと思う。誰の記憶にも残らないままに。他の誰かに迷惑をかける前に。

 つう…と、目の端から涙がこぼれ落ちた。僕は真っ直ぐ天井を眺めていたので、その涙は目尻を離れてこめかみを伝った。

 ああ、神様と、僕は祈る。

 …ああ、神様。僕は最後に、幸せな夢が見たかったです。

 この濁りきった心でも、また日の目をれるようにしてくれるような柔らかい風を。この腐りきった心でも、また伸びやかな気持ちにさせてくれるような涼やかな風を。僕を生き返らせてくれるような息吹を、もう一度。

 願っても叶わないことを知りながら、僕はまだ祈る。願っても死ぬことはないことを知りながら、僕はまだ生きていく。…後どれぐらい、繰り返すのだろうか?

 僕はもう、考えるのを辞めた。考えたって仕方のない事は世の中にたくさんある。…彼女が消えたのも、それだ。

 また、嫌なことを思い出してしまった。もうずっと、忘れようとして眠りこけているのに。それは消えないまま、まだ僕の部屋で息をするように時たま現れる。それが消えた後の、僕の気持ちを知りもしないで。

 ああ少し疲れた。もう寝るとしよう。起きていたっていい事はないし、起きていたって仕方がないのだから。

 …おやすみなさい。

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