01 魔王の求婚
私は、間違えたのだろうか。
――国の未来を、信じ方を。
――嘆きの塔。
そう呼ばれる高い塔の縁に立ち、吹きつける夜風に、
薄いドレスの裾がはためく。
眼下には、灯りを失いつつある王都――
アウレリア王国。
古より、英雄や聖女を生み出してきた由緒ある国。
だが今は、
その栄光も色褪せ、列強に押され、内側から崩れ始めていた。
(……このままでは、この国は滅ぶ)
そう思ったからこそ、私は必死だった。
無駄を嫌い、甘えを許さず、結果を出せぬ者には厳しく当たった。
とりわけ、聖女と持て囃されていた少女
――フィオナ・リリィハートには。
彼女は優しかった。
だが、考えが浅く、現実を見ようとしなかった。
私は悪意からではなく、危機感から彼女を叱責した。
それが、いつの間にか「いじめ」と呼ばれるようになった。
婚約者だったレオンハルト・ヴァイスは、私を見なかった。
考えることを放棄し、流されるまま、フィオナの隣に立った。
結果――
私は“悪役令嬢”として裁かれ、幽閉され、すべてを失った。
「……もう、いいわ」
誰も理解しない世界なら。
国も、人も、未来も。
私は、静かに一歩を踏み出した。
◇
――冷たい。
背中に感じる感触で、私は目を覚ました。
「……?」
天井が高い。
見覚えのない、黒を基調とした豪奢な寝室。
私は、確かに死んだはずだった。
嘆きの塔から身を投げて――。
ベッドから起き上がり、ふらつく足で部屋を見回す。
重厚な調度品。
分厚いカーテン。
窓の外は夜で、激しい雨と雷鳴が響いている。
「ここは……どこ?」
部屋の隅に置かれた姿見の前に立ち、
私は――息を呑んだ。
鏡に映っていたのは、十三、四歳ほどの少女。
あどけなさの残る顔立ち。
大きな瞳に、不安と怯えを宿している。
「……私、じゃない」
そう思った瞬間、
頭の奥に、焼け付くような痛みが走った。
――思い出す。
この身体の記憶を。
王女として生まれ、
城で大切に育てられ、
ある日、突然――魔王に攫われたこと。
恐怖。
暗い城。
異形の魔物たち。
(……そうか)
私は、理解した。
私は――
アレイシア・フォン・アウレリアだった記憶を持ったまま、
別の人生を生きている。
この少女の名は――
エリシア・フォン・アウレリア。
アウレリア王国の王女。
一か月前、魔王に誘拐され、
今は魔王城に“客人”として囚われている。
毎日、恐怖に震え、泣き叫び、
魔王の前では、言葉すら発せなかった少女。
(……皮肉ね)
国を救おうとして断罪された私が、
今度は国の象徴として、魔王の城にいるなんて。
そのとき。
コン、コン。
控えめなノック音が、静まり返った部屋に響いた。
「エリシア様。失礼いたします」
扉が開き、
黒いローブを纏った若い女性が入ってくる。
年の頃は十七、八。
整った顔立ち。
そして――頭の左右から、二本の角が伸びている。
「……魔族」
彼女は恭しく頭を下げた。
「魔王様がお呼びです」
その言葉を聞いた瞬間、
また、記憶が蘇る。
毎日のように呼び出され、
玉座の前に立たされ、
そして――
(求婚、されていたわね)
泣いて、首を振ることしかできなかった日々。
私は、深く息を吸った。
震える心を押し込み、理性を取り戻す。
「……分かりました。案内してください」
女魔族が、一瞬だけ目を見開いた。
――初めて聞いた。
泣いていない、エリシア王女の声。
◇
謁見の間は、薄暗かった。
天井は高く、壁に等間隔で立てられた蝋燭の炎が、
揺らめきながら空間を照らしている。
影が伸び、縮み、まるで生き物のように蠢いていた。
私は、魔族たちに囲まれながら、玉座の前まで進む。
右手には、先ほど寝室に来た黒マントの女性。
静かな所作で立ち、こちらをちらりとも見ない。
左手には、ひときわ大きな男。
背は高く、体格は岩のようにごつい。
年の頃は、黒マントの女性と同じくらいだろうか。
牛のような角と顔立ちをしているが、その目は意外なほど落ち着いていた。
――護衛、というより側近ね。
そう判断したところで、玉座に座る人物が、ゆっくりと口を開いた。
「よく、眠れたかな。王女」
低く、落ち着いた声。
威圧はあるが、怒気や嘲りはない。
魔王は、顔を上げた。
――若い。
思わず、そう思った。
年の頃は、黒マントの女性と同じくらいに見える。
整った端正な顔立ち。
鋭い眼差し。
黒髪に、頭から伸びる二本の角。
威厳はあるが、老獪さよりも、理知的な印象が勝っている。
(……思っていた“魔王”とは、だいぶ違う)
その瞬間。
魔王が、わずかに目を細めた。
「……ほう?」
私を、じっと見る。
「何か、雰囲気が違うな」
謁見の間に、静寂が落ちた。
黒マントの女性が、わずかに息を呑む気配。
ごつい男も、視線をこちらに向ける。
魔王は、口元に小さな笑みを浮かべた。
「さて、エリシア王女。
今日こそ、返事を聞かせてくれるかな?」
魔王は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「我が妻となってくれるか?」
その声は、淡々としていた。
「なに、そなたはまだ子供だ。
私も礼節はわきまえている。
すぐにとは言わん。
そなたが成人する、二年後までは待つつもりだ」
――この言葉。
王女エリシアは、毎日、これを聞かされていた。
そして、毎回、泣いていた。
声をあげ、首を振り、言葉を失い。
そこで会話は終わっていた。
(……でも)
私は、違う。
恐怖はある。
足は、正直、震えている。
だが、それ以上に――
知りたいという感情が、胸の奥で頭をもたげていた。
なぜ、この魔王は。
なぜ、王女である私を。
なぜ、求婚などという回りくどい真似を?
私は、ぎゅっと拳を握りしめ、口を開いた。
「……わ、わたしを」
声が、少し震える。
「わたしを、妻にしたい理由は……なんですか?」
次の瞬間。
魔王が、はっきりと目を見開いた。
「――ほう?」
そして、低く笑った。
「これは、驚いた」
玉座の肘掛けに指を置き、こちらを興味深そうに見つめる。
「はじめてだ。
そなたが、言葉を発したのは」
黒マントの女性が、思わず私を見る。
ごつい男も、目を丸くしていた。
魔王は、満足そうに頷いた。
「いったい、どういう風の吹き回しか……
いいだろう」
その表情から、冗談めいた色が消える。
「その理由を、話そう」
魔王は、ゆっくりと立ち上がった。
蝋燭の光が、その影を大きく伸ばす。
その影は、玉座の背後の壁に巨大な輪郭を描き、
まるで、この城そのものが意思を持ったかのように見えた。
「私は――」
魔王は、ためらいなく言った。
「人間どもの国を、支配するつもりだ」
――やはり。
胸が、きゅっと締めつけられる。
(魔族……やはり、そういうことか)
反射的に身構えた私の様子に気づいたのか、
魔王は片眉を上げ、口元をわずかに歪めた。
「おっと。そう警戒するな」
片手を軽く上げる。
「武力で、というわけではない。
――経済で、だ」
「……経済?」
思わず、声が漏れた。
その言葉。
生前の私が、
誰よりも重要視し、
誰にも理解されなかった概念。
それが、
魔王の口から語られたという事実に、
頭が一瞬、真っ白になる。
「この世界は、豊かだ」
魔王は、ゆっくりと謁見の間を歩きながら語る。
「資源は潤沢。土地は肥え、技術の芽もある。
本来であれば、我々も、人間どもも、
今より遥かに繁栄できるはずだ」
彼は、鼻で小さく笑った。
「だが、人類は愚かだ。
いつまで経っても、権力争いと戦に明け暮れ、
国家という単位すら、まともに運営できていない」
その言葉は、冷酷で、
しかし――否定できないほど、的確だった。
「この世界を、愚かな人類に任せておくのは宝の持ち腐れだ。
だからこそ、私が支配し、管理し、再編する必要がある」
その声音は冷静だったが、
そこに、人を数としてしか見ていない冷たさが、
ほんの一瞬だけ滲んだ。
私は、唇を噛みしめた。
(……正論だ)
少なくとも、
生前の私には、そう聞こえた。
魔王は、私の反応を確かめるように、一瞬だけ視線を向け、
再び話を続ける。
「我が力で、人間どもを屈服させるなど、造作もない」
ごつい男が、無言で頷く。
黒マントの女性は、表情一つ変えない。
「だが――問題は、そこではない」
魔王の声が、少し低くなった。
「厄介なのは、
そなたの故郷――アウレリア王国で、勇者が誕生したことだ」
心臓が、跳ねた。
(……勇者)
この身体――エリシアの記憶にも、確かにある。
私が生まれる少し前、
アウレリア王国に、勇者が現れたという話。
古より英雄を生んできた我が国にとって、
決して珍しいことではない。
魔王は、淡々と続ける。
「知っていると思うが、
アウレリア王国は、今や列強の属国だ」
その言葉に、胸が痛む。
「魔族領に最も近い地理的条件もあり、
我が魔王軍討伐の“先陣”を切らされている」
彼は、私を見る。
「――その事実も、知っているかな?」
私は、黙って頷いた。
魔王は、再び歩き出す。
「そのアウレリア王国から、
勇者が、魔王討伐のために旅立った」
蝋燭の火が、揺れた。
「勇者という存在は厄介だ。
今は貧弱でも、あっという間に力をつける。
常識外れの成長を遂げる――化け物だ」
声に、わずかな苛立ちが混じる。
「そして、何より厄介なのは……
たとえ死んでも、神の加護によって蘇ることだ」
謁見の間が、静まり返った。
「……いずれ」
魔王は、あっさりと言った。
「私は、勇者に殺されるだろう」
あまりに淡々とした口調に、
逆に、背筋が寒くなる。
(なるほど……)
勇者は、
魔王にとっての、避けられない“天敵”。
「だから、考えた」
魔王は、立ち止まり、私の正面に立つ。
「私は、アウレリア王国と手を結ぶ」
まっすぐに、こちらを見る。
「そのために――
そなたと、婚姻関係を結ぶ」
胸が、どくりと鳴った。
「アウレリア王国に、
勇者の出征を取りやめさせる」
その言葉は、
計算され尽くした一手だった。
私は、息を呑む。
(……外交結婚)
武力ではなく、
経済と政治で、世界を動かす。
――生前の私が、
夢見て、叶えられなかったやり方。
魔王は、静かに問いかける。
「エリシア王女。
これが、私がそなたを妻に迎えたい理由だ」
その視線には、
欲望ではなく、
打算と、覚悟と、――わずかな期待が宿っていた。
はっきりと分かる。
この魔王は、
ただの“敵”ではない。
「どうかな。難しかったかもしれないが、
少しは理解してもらえたかな?」
魔王は、私の反応をうかがうように、穏やかな口調で言った。
「アウレリア王国にしても、
列強に苦い汁をなめさせられている今より、
我々と手を組んだほうが、よほど幸せだと思うのだ」
静かに、しかし断言する。
「双方にとって、悪い話ではない。
――そなたにとっても、な」
そして、少しだけ声を低くする。
「理由は話した。
今一度、問おう。
エリシア王女、私の妻となってくれるか?」
――面白い話だ。
私は、心の中でそう呟いた。
あの愚かな人間ども。
生前、命を落とす直前には、
正直、こう思ったこともある。
(……いっそ、滅びてしまえばいい)
自分たちの首を、自分たちで締めることしかできない者たち。
ならば、魔族の支配下に置かれた方が、
よほど合理的ではないかと。
そして――
目の前の魔王を、改めて見る。
若く、整った顔立ち。
(……かわいい、じゃないか)
私は、一拍おいてから、答えた。
「――承知しました」
謁見の間の空気が、一瞬、凍りつく。
「私は、あなたの妻となりましょう」
次の瞬間。
「……そうか。やはり、拒否するか!」
魔王は、残念そうに、そう言いかけ――
「まあ、時間はある。
じっくりと考えてもらえれば……」
途中で、言葉が止まった。
「…………」
数秒の沈黙。
「……って、今、なんと?」
魔王が、信じられないものを見るように、私を見た。
私は、首を傾げ、丁寧に言い直す。
「ですから、妻になります、と申し上げました」
胸の前で手を重ね、形式ばった口調で続ける。
「不束者ではありますが、
どうぞ、よろしくお願いいたします」
「ええっ!?」
魔王と、
右に立つ黒マントの女性、
左に立つごつい男が、
同時に、素っ頓狂な声を上げた。
……滑稽だった。




