最後の夏、最初の約束
蝉の声が容赦なく降り注ぐ八月の午後、私たち三人は小学校の裏山に立っていた。
「本当にここだっけ?」
汗を拭いながら、大輝が首を傾げる。日焼けした腕には、野球部の練習でできた筋肉がついていた。昔は私よりも細くて小さかったのに。
「間違いないよ。ほら、あの桜の木の根元」
リョウが指差した先には、確かに見覚えのある古い桜の木があった。幹には誰かが彫った落書きの跡。私たちではないけれど、ここで遊んだ記憶が鮮明に蘇る。
「陽菜、本当に掘り返していいの?まだ二十歳じゃないけど」
大輝の問いに、私は頷いた。
「いいの。どうせ、二十歳の時には……」
言葉を濁す。どうせ、みんなバラバラになっているから。そう言いかけて、やめた。
リョウがリュックからスコップを取り出す。いつも無口な彼が、今日に限って率先して動いてくれるのが嬉しかった。
土を掘り始めて十五分。カチンと固い音がした。
「あった!」
大輝が興奮した声を上げる。私たちは顔を見合わせ、一緒にプラスチックの箱を引き上げた。予想以上に小さい。きっと、私たちが小さかったから、これが大きな宝箱に見えたのだろう。
蓋を開ける。
中には、色褪せた紙切れと、小さな小物が入っていた。陽菜、リョウ、大輝──それぞれの名前が稚拙な字で書かれた手紙。
私は自分の手紙を開いた。
『わたしのゆめは、ケーキやさんになることです。みんなをえがおにできるケーキをつくりたいです。二十さいになったら、リョウくんとたいきくんにケーキをごちそうします。ずっとともだちでいてね』
声を出して読み上げると、大輝が笑った。
「マジで? 陽菜、ケーキ屋さんになりたかったの?」
「……小学生の頃はね」
今の私は、国立大学の教育学部を目指している。安定した職業。親も喜ぶ進路。ケーキなんて、趣味で作るくらいだ。
リョウが自分の手紙を黙って見つめている。私は覗き込んだ。
『ぼくは漫画家になります。リョウとたいきの冒険を漫画にして、いっぱいの人に読んでもらいたいです』
「お前、漫画描いてたもんな、昔」大輝がリョウの肩を叩く。「今でも描いてんの?」
リョウは首を横に振った。
「美術部では油絵ばっかり。漫画は……中学で辞めた」
最後に、大輝が自分の手紙を開く。彼の字は、三人の中で一番丁寧だった。
『ぼくはプロやきゅうせんしゅになります。おとうさんとおかあさんと、リョウと陽菜をしあわせにします。ずっといっしょにいたいです』
沈黙が降りた。
大輝は今でも野球を続けている。でも、彼の進路希望は県内の工業大学だ。野球は続けるかもしれないけれど、プロを目指しているわけじゃない。
「なんか、恥ずかしいな」
大輝が照れくさそうに笑う。でも、その笑顔はどこか寂しかった。
私たちは黙って桜の木の下に座った。風が吹いて、葉が揺れる。子供の頃は、この場所が世界の全てだった。ここから見える景色が、私たちの宇宙だった。
「いつから、こんなに現実的になったんだろうね」
リョウがぽつりと言った。彼にしては珍しく、饒舌だった。
「中学? 高校? いつからか、夢を語るのが恥ずかしくなって。『現実を見ろ』って言われるようになって」
「でも、それが大人になるってことなんじゃないの?」
私の言葉に、大輝が首を振る。
「それって、本当に大人になるってことなのかな。ただ諦めてるだけじゃないのか」
彼の言葉が胸に刺さった。
確かに、私は諦めた。ケーキ屋さんなんて、不安定だから。リョウも諦めた。漫画家なんて、食べていけないから。大輝も諦めた。プロ野球選手なんて、才能がないから。
でも、それは本当に「現実的な判断」だったのだろうか。それとも、ただ怖かっただけなのか。
「なあ」
大輝が立ち上がった。
「この夏休み、最後だろ。一日だけでいい。子供の頃の夢、叶えてみないか?」
「は? どういうこと?」
「本物のケーキ屋さんにはなれないけど、陽菜はケーキを作れる。本物の漫画家にはなれないけど、リョウは絵を描ける。俺は……ガキんちょに野球教えるくらいはできる」
リョウの目が輝いた。
「一日だけの、夢の実現?」
「そう。どうせバラバラになるんだったら、最後くらい、子供に戻ってもいいだろ」
私は二人の顔を見た。リョウも大輝も、本気だった。
「……いいね。やろう」
こうして、私たちの最後の夏の冒険が始まった。
翌日、私は早朝からキッチンに立っていた。母が驚いた顔で見ていたけれど、何も聞かずにスーパーの材料費を出してくれた。
ショートケーキを作る。いちごをたっぷり使った、シンプルだけど丁寧なケーキ。生地を焼く匂いが家中に広がる。スポンジが膨らんでいく様子を見ながら、なぜだか涙が出そうになった。
これだ。これが、私が忘れていたものだ。
誰かのために何かを作る喜び。その人が笑顔になることを想像する幸せ。
ケーキは完璧に焼き上がった。
午後、リョウの家に行くと、彼は部屋中にスケッチブックを広げていた。
「見て」
リョウが差し出したのは、私たち三人の冒険を描いた漫画だった。小学校の裏山で遊んだ日。川で魚を捕まえた日。花火大会で迷子になった日。
「すごい……こんなに覚えてたの?」
「全部覚えてるよ。ずっと描きたかった」
リョウの絵は温かかった。三人の笑顔が、ページの中で生きていた。
「陽菜」
リョウが真剣な顔で私を見た。
「俺、やっぱり諦めたくないかも。美大に行きたい。漫画じゃなくても、絵を描く仕事がしたい」
「リョウ……」
「怖いけど。でも、この夏で分かった。俺、絵を描いてる時が一番幸せなんだ」
私は彼の手を握った。
「大丈夫。リョウの絵は、きっとたくさんの人を幸せにするよ」
夕方、私たちは近所の公園に向かった。大輝が子供たちを集めて、野球を教えていた。
「いいか、バットはこう握るんだ!」
彼の指導は丁寧で、子供たちの目が輝いていた。ボールを打てた子が歓声を上げると、大輝も一緒に喜んでいた。
「大輝って、いい指導者だね」
リョウが呟く。
「うん。選手じゃなくても、野球に関われる道はあるよね」
練習が終わると、子供たちが大輝の周りに集まった。
「コーチ、また教えて!」
「絶対来てね!」
大輝の顔が、夕日に照らされて輝いて見えた。
その夜、私たちは裏山に戻った。持ってきたのは、新しいタイムカプセル。
中に入れたのは、今日の思い出。私が作ったケーキの写真。リョウが描いた漫画のコピー。大輝と子供たちの集合写真。
そして、新しい手紙。
私は書いた。
『十年後の私へ。夢を諦めないで。怖くても、一歩踏み出して。そして、リョウと大輝のことを忘れないで。どこにいても、あの夏の約束を思い出して』
リョウも、大輝も、それぞれの手紙を書いた。
「十年後に開けよう」
大輝が言った。
「その時、俺たちがどうなってるか分からないけど、絶対にここに集まろう」
「うん」
私たちは、小さな箱を土に埋めた。桜の木の根元、同じ場所に。
「なあ、陽菜、リョウ」
大輝が星空を見上げながら言った。
「離れても、友達だよな」
「当たり前じゃん」
リョウが笑う。
「私たちは、ずっと友達だよ」
私が二人の手を取る。
三人で、もう一度、あの約束をした。
「ずっと友達でいようね」
子供の頃と同じ言葉。でも、今はもっと深い意味を持っている。
夏の終わりの風が、優しく私たちを包んだ。
九月、新学期が始まった。
リョウは美術の先生に美大受験の相談をした。大輝は野球部の監督に、教職課程を取りたいと伝えた。
私は、まだ迷っている。でも、迷ってもいいんだと思えるようになった。教師になる道も、ケーキを作る道も、どちらも私の可能性だ。
卒業まであと半年。きっと、私たちはそれぞれの道を歩む。
でも、それは終わりじゃない。始まりなんだ。
十年後、また桜の木の下で会おう。その時、私たちがどんな大人になっているか、一緒に確かめよう。
そして、きっとまた笑い合えるはずだ。
子供の頃の夢を、少しでも叶えられた自分たちを誇りながら。




