ホテルの厨房
俺は違う街のホテルでしばらく働くことが決まった。
笑ってしまうことに、磨かれていた荷造りの技術で、あっという間に出立の準備ができてしまう。
オヤジさんが送迎会をやろうというのを断り、逃げるように出発した。
俺、こんなに情けない人間だったかな……。
領内で二番目か三番目に栄えている街だという。
中心街は石畳で舗装され、下水道も完備されていて、空気がきれいな気がする。
風が吹くと土煙が立ち、ひどい日には洗濯物がざらついて、取り込む前にはたいていたことを思い出してしまった。
「『せーの』で、はらうよ」という、明るいかけ声と一緒に……。
ホテルに着くと、地下の従業員用の部屋に案内された。
臨時で雇われた者たちの共同部屋で、貴重品を仕舞う場所とベッドをあてがわれた。
今日は荷ほどきと体を休めるように言われる。
夕食は同じ部屋の連中に誘われ、屋台が並ぶ広場に食べに行った。
初めて見る料理がたくさんある。
覚えて帰ったら……と、また宿屋のことを考えてしまった。
頭を振って、串焼きに集中する。
香辛料が効いたものや、甘辛いタレのものなど種類も豊富だ。
料理人たちはあれこれ分析して盛り上がっている。
あれ、俺は「下ごしらえ」のスキル持ちで、料理人じゃないけど……来てよかったのか?
翌日から、レストランの厨房に入った。
初めて見る器具もあったが、まずは野菜の皮むきなど、基礎的な作業だけをこなす日々。
無心に、大量の野菜を片付けていく。
いわゆる料理の「下ごしらえ」だ。
これなら俺でも大丈夫。
ふいに泣きたくなったときは、人気のないタマネギのみじん切りを担当したりして、日々が過ぎていく。
少し慣れて見渡せば、動線や置き場所など改善すればいいのに……と思うことが目につくようになる。
厨房を支配しているのは、下位貴族の三男以下が多かった。
変にプライドが高くて、平民の意見など聞こうとしない。
ああ、オヤジさんもオカミさんも、俺の意見をすぐに取り入れてくれたなと思い出す。
……お嬢さんも褒めてくれた。
胸がズキンと痛んだ。
このホテルでは、誰でも週一日の休みが取れる。
宿屋では週一日休むために前後の日に仕事を振り分けたり、たくさんの準備が必要だった。
人数が多いから、あらかじめローテーションを組んで休めるんだ。
こうやって、ゆとりを持って生活するのも悪くない。
初めての休みの日は、ぐったりして、ほぼベッドで寝ていた。気がついたら夕方で。
次の休みには、冒険者ギルドを覗きに行けたらいいな。
残念なことに、一流ホテルでも「こんなレベルか」と思う従業員がいた。
俺は仕事が特別にできる方ではないと思っていたが、できる部類に入るのかもしれない。
だらだら歩くな。腕がボウルに当たるだろう。
次に何が必要になるか考えて動け。時間との勝負、道具を探している内に火が通り過ぎたら味が変わる。
よそったあとに皿が汚れていないか、なぜ確認しない。
ただの臨時雇いなので口を閉じているが、「それでもプロか」と言いたくなる。
宿屋の後輩だって、できてたぞ。……覗き魔のボビーは、できてなかったけど。
そして、副料理長が料理長に不満を持っているのが見え見えで、雰囲気が悪くなるからやめてほしいと思うようになった。
観察していると、副料理長の方が難しい料理を作れるようだ。
だが、料理長は「食事を楽しんでもらう」ために作っていて、副料理長は「私の料理はすごいだろう」と言いたくて提供している。
お客様を喜ばせたいのか、自分が褒められたいのか……それが、他の事にも影響を与えていた。
料理長は俺たちを褒めたり注意したりして、一緒にレストランを盛り上げようとしている。お客様の食べるペースはそれぞれだから、給仕係とも連携して、料理を作る順番を変えたりもする。
副料理長は「私の足を引っ張らないでくださいね」というのが基本なので、補佐たちは余計なことをせず、言われたことだけをする。だから、料理長がいない日は、厨房に活気がない。
そして、お客様が早く食べる人でもゆっくり食べる人でも、副料理長が最適だと考えるタイミングでお出しする。
だから、手持ち無沙汰になるテーブルも、料理が渋滞して冷めたり温くなったりしていくテーブルもある。
あれ? もしかして仕事って「完璧」を目指さなくてもいいのか。
相手に合わせて調整する余白があった方が、いいのかも……?
そういえば、冒険者の荷物の梱包サービスを始めたとき、きっちりと積めすぎて、帰路は冒険者が荷造りするから入らなくて困ったと言われたことがあった。
思い出すと恥ずかしいが、「自分だけ完璧」でもしょうがないのかもしれない。
要求されるものより、ちょっといい感じで提供するのが一番いいのか?
周りに完璧を求めて孤立する副長より、気持ちよく人を動かす料理長の方が評価は高い――見ているうちに納得できてしまう。
副長がメインで動くときは、気がついたことを報告しても睨まれるから、些細なことは流される。そんな小さなことが積み重なってトラブルに発展することがあった。
そうすると、評価が下がる。
副料理長が料理長の陰口を叩き、「私を認めない上層部は無能だ」と主張する姿が、だんだん滑稽に見えてきた。
ある日から、夜遅くまで副料理長は研究をするようになった。
厨房に近い大部屋では物音が聞こえて、はっきり言って安眠妨害だ。
努力が実ったら料理のレパートリーが増えて、腕も磨かれていくかもしれない。
だが、そこで完成するのは「究極の料理人」だ。
目標が料理長であるなら、現場の采配やホテルのオーナーとの折衝といった人間力を高めた方がいいだろうに。
技術も才能も熱意もある。だが、意固地になって人の助言を受け付けない副料理長。
悲しい堂々巡りだなぁと思いながら、布団を頭までかけて耳を塞いだ。
暖かい闇の中で、壁越しに厨房の音が、まだ続いていた。