暗転する日常
恋心を自覚してから、毎日が夢のようだった。
ちょっとした触れあいに胸躍らせ、一緒に働く時間が至福のとき。
夜、寝る前に今日の出来事を思い出し、朝起きたら少しでも早く顔が見たいと思う。
当たり前の日常や見慣れた景色まで、なんだか違って見えた。
ある日、午後の「昼中」の鐘が鳴る前にお嬢さんがおめかしして現れた。
どきどきしながら、「どこかへ、おでかけですか?」と訊いた。
仕事着じゃないんだから出かけるに決まっているだろう。気の効いた言葉が出てこない自分が情けない。
「きれいですね!」
後輩が照れもせずに褒める。
くう~、素直に言えばよかった。
「……に、似合ってますよ」
よし、頑張った、俺。
「……ありがと」
少し、お嬢さんの声が固いような気がした。うつむき加減で表情がわからない。
オヤジさんの声がした。
「ちょっと出てくるぞ。夕飯の仕込みの前には戻ってくるから」
俺たちの返事を待たず、オヤジさんとオカミさん、それにお嬢さんは出かけていった。
なんだか、嫌な胸騒ぎがした。
「お嬢さんが婿を迎えるらしいですよ」
後輩の言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
数日前の、あれ……見合いだったのか!
気持ちに気付いた途端に、失恋……?
後輩は元気に食堂に向かい、お嬢さんにおめでとうと話しかけている。
お嬢さんは頬を染めて「ありがとう」と礼を言う。
いつもなら、俺の気配で振り返ってくれるはず。それなのに、わざと気がつかないふりをしている。
……足元がぐにゃりと歪んだ気がした。
ショックで頭が働かなくても、体に染みこんだ動きでなんとかやり過ごす。
夜、皿を拭いていたらパリンという音がした。
あれ、手から滑ったのか。
緩慢な動作で割れた皿に手を伸ばし、案の定指先を切ってしまった。
オヤジさんに「もういい。休め」と言われる。
頭がぼーっとしていたが、「でも、仕事しないと」と力なく呟く。
「大丈夫だ。後は任せろ」という言葉すら、「俺は必要ない」と変換されてしまった。
――俺は働かなければ、価値がない。俺の居場所は、どこにもない――
高熱で寝込んだときに現れる、弱気な俺が目を覚ます。
こうなると、もう、何もかも悪い方にしか考えられなくなるのだ。
ミスを繰り返す俺に、オヤジさんが「少し、実家に戻ってみるか?」と訊いてきた。
「絶対に嫌です」
反射的に、言葉を選ぶ余裕もなく答えてしまう。
家族の仲がいいオヤジさんにはわからないだろう。
その中に居場所がない心細さなど。
いてもいなくても気付かれない、存在感のなさ。いたら便利というだけ。
それでいて目立つと「できるからって、嫌味だな」と嫌われる。
「年の割にしっかりしているから、お前に対する配慮に欠けていたかもしれない。すまなかった」
そんな慰めの言葉ですら、「役立たずと言われたのか?」と思うくらい、俺はおかしくなっていた。
宿泊客からの誘い。
いつもなら適当に交わしているのに、部屋に引きずりこまれてしまった。
「いつも隙がない子が弱っているのも、たまらないわね」と。
むせかえるような安い香水。近づく息の熱さ。
頭が真っ白になって、体が動かなかった。
なにもかもが、どうでもいい。ただ、気持ち悪い。
押しのけることもできず、心がどんどん麻痺していく。
気持ち悪さに耐えきれず、物理的に吐いた。
それが聞こえたのか、隣室の冒険者に助け出され、その女は宿を追い出された。
次の日から、突然吐き気に襲われるようになる。
本当に気持ち悪かった。体ごと、消えてしまいたい。
数日後に、少し離れた大きな街のホテルで働いたらどうかとオヤジさんに勧められた。
外国からの視察団が来るので、人手が欲しいらしい。
セキュリティのしっかりしたホテルなので、怪しげな女は近寄れない。
俺を守るための提案だということを、そのときは知らなかった。
だから――後輩がかなり働けるようになったし、そのうち婿が修行に来るだろうし、俺はいらなくなったんだな、と胸の奥が静かに冷えていく……。