騎士の振る舞いと記憶との齟齬
朝はいつも通りで、仕事がしたくなくて逃げる嫡男殿下を従者たちが探すお決まりの流れ。
だが、それから三日三晩捜索しても殿下は見つからなかった。
元々彼の愛する町娘の事を知っていた上層の官吏や騎士達は、何故殿下が消えたのかを手に取るように理解しただろう。
「ならもう、その庶民の女性は側室に置けばよかったんじゃないの?」
嫡男殿下が駆け落ちした、と事の顛末を聞いた僕はブラウンにそう伝えた。
「殿下はそれを固く拒まれております、もしどうしても庶民の女を伴侶に宛てがうのなら…王位継承権は破棄して頂き、アン殿下を王位にという流れになっていたでしょう。王位継承を諦め王宮で扱き使われるならと、今頃森の小屋にでも逃げ込んで狩りに明け暮れていらっしゃるのでは?」
そう、今問題なのは嫡男殿下が消えた事だけではない。時期王である、王位継承一位に僕を据えるしかないという事実。
殿下は昔から僕にやたらと気にかけて下さったのは、この事が脳裏にあったからかもしれない。僕はと言えば、殿下がいつか王位を継承なさると信じて疑わなかったのに。
「アン殿下、今日は必ず…この本とこの本と、この資料…あとこちらの地図を完全に頭に入れて頂き……」
ブラウンが、僕のデスクにバサバサと本を積み上げていく。
「ブラウン殿……本当にアン殿下に王位を……?私は…反対です、殿下は王位を望んでいませんし、何より危険です。嫡男派が何をしてくるか……」
「カイル、仕方がありません。王弟殿下たちは陛下が王位継承前に殺しあって全員が自滅、陛下のお子は嫡男様とアン様だけ。あの皇后を寵愛する陛下に隠し子がいるはずもない。それだけじゃない、アン殿下は王族としての振る舞いに長けていらっしゃる、人気も高い、王に相応しい事この上ない」
僕は、王位に少しの興味もない次男であった。だが、殿下が居ないのなら国の為に出来るのは、王位を継承する準備と、殿下がお帰りになった時相応のポストを用意する為の国づくりだ。
消えた殿下に恨み言を吐くなど僕らしくもない。
「ただ」
その二文字をブラウンが大声で口にする。
「ただ?」
「アン殿下は確かに王に相応しいお方ですが、お一人で王位を継がせる訳には参りません。アン殿下の狂気的なまでの崇拝者は一人や二人ではない…そしてその地位や名誉も人を狂わせる。ですから、陛下が退位する前に…いや、アン殿下を王位継承一位に上げると発表する前に、何としてでも有力貴族との婚姻を結んで頂きます」
元々、僕は結婚をするつもりだったからブラウンのその言葉に驚く事はなかったが、その次に飛び出した言葉は僕の心を大きく動かす事になった。
「ですから、閨教育を実施致します。王位継承二位の時は、強く出産を勧めることはありませんでしたが、王となれば別です」
「っ、閨教育…?!」
そして、僕よりも驚きを隠さなかったのはカイルだ。激しく動揺し、ブラウンをゆさゆさと揺さぶっている。
この国では、基本的に孕むのは王位を持った人間だという決まりがある。もちろん今の陛下も、その胎で僕を育ててくれた。
皇后様は、僕の父様で…屈強な大男。
もし王の第一子…時期王が女性だった場合は子宮に種を受け出産し、男性だった場合には何度も何度も種付けを行い帝王切開にて取り出す事になる。
嫡男殿下の愛した人は女性だったから、自ずと皇妃として迎える事は不可能だった。
皇妃は他の男性に就いて貰い、側室にその女性を置くという方法もあるが、一途な所は父譲りらしく、嫡男殿下は消えた。
僕は…どうしてもこの小さい身体と可愛らしい顔のせいで男性の貴族との見合いばかりだったが、王位を継承するならば自ずと相手は男性でないといけない。
「……ブラウンさん、せめて…相手が決まってからじゃダメでしょうか…閨教育…」
そして、時期王として必要だと言われても閨教育というのは腰が重い。
「ダメです!アン殿下、嫡男殿下が消えた事はずっと秘密にしておける事ではありません、長くともひと月後には国民にも貴族にも知らせなければなりません。その時までに…皇妃を決めておかねば、あなたが襲撃に遭った時の何倍もの暴動…混乱…ああ、嘆かわしい」
ブラウンが打ちひしがれ、頭を抱えた。
確かに、男性の性行は命懸けだ。体勢や受け止め方を知らないと妊娠出来ない身体になりかねない。
「ブ、ブラウンさん…落ち着いて、僕閨教育受けますから……」
以前の僕なら、伴侶でもない者が僕の身体に触れるなんて汚らわしい…と一蹴していただろうが、必要な事を必要だと言えるのはリンになって良い事の一つだ。
「っ、ダメです!閨教育など……アン殿下の高貴なお身体に手を触れるなんて、どんなに力を持った貴族でも許される事では……」
了承した僕に、カイルが割って入る。
カイルの過保護さには昔から困ってきたが、今日ばかりは国に纏わる大事な教育の話。
「……あの、カイルさん」
カイルを制止しようとする僕に食ってかかるように絶対にダメです…!と語気を強めた。
「……なら、カイル…お前がやればいいでしょう閨教育。あと何か勘違いしているかも知れませんが、別に性行は行わないし裸体も見せずともよいのです、体位や体勢、受け止め方などだけ教えて差し上げれば」
カイルが僕の閨を…と考え、一瞬心臓が沸くが、カイルは今日一番の怒声を上げブラウンをまたしても揺さぶった。
「……それこそ駄目です!アン殿下は私に触れるのを酷く嫌がっていた、その私が…アン殿下の閨など……」
僕が触れるのを嫌がる?
僕は、確かに高貴な王族だがカイルに触れられる事を嫌がった覚えなどなかった。
むしろ、カイルが僕を抱き上げたり優しく撫でたりするその手を…好んですらいたはずだ。
「カイルさん、僕…カイルさんがいい」
本当につくづく、リンという人間は生きやすい。望んだ事をはっきりと口に出しても、怒らなくてもいい、嫌悪しなくてもいい。
「っで?!」
「…どうせなら、よく知った人がいいよ。きっと…アンもカイルさんがいいって言ったと思うし、ね?」
カイルは、慌てふためき僕の言葉を否定しようとしたがすぐに咳払いをすると騎士の礼を僕に送った。
「っ、……殿下の命令は絶対です」
「……では、一週間以内には閨教育を施し、正しい知識を教えられるようカイルもしっかりと勉強しておくこと」
ブラウンが深々と頭を下げると、事務室から退室していく。カイルに抱っこを強請る子どものように腕を伸ばすと、軽々と宙に浮いた。
「………」
腕の中で揺られながら僕の脳みそはリンになったばかりの事を考える。
触れるな、と頑なにカイルが言っていたこと。
僕が触れられるのを嫌がっていたという存在しない記憶。
あの空白の時間に、僕は…カイルに何かを言ったのだろうか。
だが、僕に今与えられた現実はこのカイルの体温。どうでもいい事だと首を横に振った。