第1回 氷河期展(国立科学博物館)
私の計算によれば、この世界が存続する確率は、10%を切っていた。
人類が生み出した知性――AIは、やがて人類の知性を超え、最適化の名の下に、非効率なホモ・サピエンスというバグを排除する。皮肉なことに、その結論を誰よりも早く導き出してしまったのは、AI開発者である私、星降咲自身だった。
西日暮里の昭和レトロな喫茶店「セザンヌ」の隅で、私は冷めたコーヒーを見つめていた。窓の外の喧騒も、店内に流れるジャズも、すべてが色を失った映画のように見えた。未来がないのなら、今この瞬間にも、何の意味があるというのだろう。
その時だった。
「 ママさん、これ、本当にもらっていいんですか?」
太陽みたいな声だった。カウンターで、一人の女性が店の女主人と親しげに話している。
「いいのよ、エミちゃん。私が行くはずだったんだけど、急に腰が痛くなっちゃってね。今日が最終日なんだから、誰か若い子に楽しんでもらわないと」
彼女――見野恵美ちゃんは、二枚のチケットを手に、くるりと店内を見回し、そして、世界の隅で澱んでいた私と、目が合った。
「ねぇ、そこのかわいいお嬢さん。よかったら、これから上野の国宝展、一緒に行かない?」
それが、私のモノクロの世界に、最初の色が灯った瞬間だった。
美術館で、エミちゃんは子供のようにはしゃぎながら、展示されてる一つひとつの作品に込められた物語を、楽しそうに私に語ってくれた。刀に宿る武士の魂を。絵巻物に描かれた人々の暮らしを。仏像の穏やかな微笑みに込められた、数百年分の祈りを。
彼女の隣で、私は忘れていた感情を思い出していた。美しいものを、美しいと感じる心。物語に胸を躍らせる心。
帰り道、夕暮れの上野公園で、エミちゃんは言った。
「付き合わせちゃってごめんね。でも、楽しかったー! 歴史って、ただの過去じゃないの。今ここにいる私たちに繋がってる、壮大な物語なんだよ!」
そう言って笑う彼女の横顔を、私は忘れないだろう。
――この笑顔が、ずっと続きますように。
――この人が愛する、物語に満ちたこの世界が、続きますように。
エミちゃんと上野駅で別れた私はそのまま30分くらい徒歩で大学に戻った。日曜で誰もいない研究室の電気をつけると、白衣をまとい、その日から、指導教授にも秘密で独自のAIガジェットの開発を始めた。
私の絶望的な計算を覆す、たった一つの可能性。歴史の中にこそ、未来を救うヒントがあるのかもしれない。いや、それしかない。
エミちゃんの好奇心をエネルギーの核にした、時空を旅する腕時計型AIナビゲーションシステムだ。
コードネームは『レキタビ』。
◆氷河期への扉
それから数ヶ月。私はエミちゃんに誘われるがまま、週末になると様々な展覧会を巡るようになっていた。その日、私たちは上野の国立科学博物館で開催されている特別展「氷河期」を訪れていた。
「すごいねサキちゃん! このケナガマンモスの全身骨格、高さ3メートルだって! こんなのが本当に歩いてたんだよ!」
「ホラアナライオンの骨に、人類がつけた傷が残ってるわ…」
エミちゃんの尽きない好奇心に引っ張られ、私は夢中で展示を追いかけた。彼女の瞳がキラキラと輝くたび、私の左腕にはめられた『レキタビ』の小さな画面が、ひっそりと光を溜め込んでいくのを、私は知っていた。
膨大な展示を見終え、私たちは満ち足りた気分で出口へと向かっていた。ミュージアムショップで図録とマンモスのぬいぐるみキーホルダーを買い、あとはレストランで冷たいクリームソーダでも飲みながら、今日の冒険を振り返るだけ。そのはずだった。
「…ねぇ、サキちゃん」
エミちゃんが、ふと足を止めた。
「あそこに『真・最終章はこちら』ってあるよ。行ってみよう!」
エミちゃんの視線の先、出口の案内看板のすぐ横に、取ってつけたように古びた木製の扉がある。扉には、マジックで殴り書きしたようなチープな看板がぶら下がっていた。
【真・最終章はこちら】
私の胸は嫌な予感でざわめいていた。気のせいだろうか、あの扉の周りだけ、空気がじっとりと重く、歪んでいるように見える。レキタビが警告を発していた。《警告:高エネルギー反応を検知。時空連続体への干渉リスクが発生》
「えぇ…? なんだか、おかしな雰囲気だからやめておこうよ。早くレストランで感想戦しようよ。私、お腹すいちゃったなー」
(しまった!エミちゃんの好奇心エネルギーが、レキタビの閾値を超えちゃう…!まだレキタビは実用段階じゃないのに)
必死の抵抗もむなしく、エミちゃんは私の手首をがっしりと掴む。
「いいからいいから、それはあとで! きっと未公開の展示があるのよ! これは歴史ブロガーとしての使命よ!」
エミちゃんが扉に駆け寄った瞬間、レキタビの小さな液晶画面に文字が流れた。
《プロトコル・タイムリープ、実行》
ギィィ…という鈍い音を立てて、エミちゃんが扉を開ける。扉の向こうは、光も届かない深淵のような闇。そして、次の瞬間、私の体は強い力で、その闇の中へと引きずり込まれていった――。
◆数万年前の人類が見た氷原
目を開けると、そこは博物館ではなかった。
凍てつく風が吹き荒れる、見渡す限りの大草原。遠くには雪を頂いた山脈が連なり、空はどこまでも高く、青い。
「…すごい…これって氷河期のパーチャルリアリティー? えっ、ガチで寒いんだけと」
隣で、エミちゃんが震えながら呆然と呟いた。
私達の視線の先には、巨大なケナガマンモスの群れが、悠々と大地を闊歩していた。
「夢…じゃないよね?」
「うん…」
私は左腕のレキタビに意識を集中する。《現在地:ユーラシア大陸、約6万年前。エモーショナル・バッテリー残量:15%》
エミちゃんの知的好奇心をエネルギー源とするレキタビはタイムスリップでエネルギーを一気に使ってしまったようだ。現代に戻るには、圧倒的にエネルギーが足りなかった。
とはいえ、このまま夏服では凍えてしまう。「ヒーターオン」と私はレキタビに指示を出すと、二人の周りの温度が暖かくなる。
「どうしようサキちゃん、私たち…」
不安そうなエミちゃんに、私は努めて冷静に言った。
「大丈夫。まずは安全な場所を探そう。さっき展示で、この時代の人類は洞窟に住んでたってあったよね」
私たちは知識を頼りに、しばらく歩き、ようやく大きな巨岩の陰に洞穴を探しだした。
しかし、夜の闇はすぐに訪れ、遠くからは肉食獣の咆哮が聞こえ始める。さらに、洞穴の奥からも、肉食獣のうなり声と気配が近づいてきた。
寒さと恐怖に震えながら、エミちゃんの手を握った、その時だった。
エミちゃんは暗闇の中で手頃なサイズの石を右手に取り、私を守るように前に出ると、「氷河期のホモ・サピエンスは、草食動物を狩っていただけじゃない。ホラアナライオンやホラアナクマといった肉食獣とも戦ってきたのよね」と震えながらも気丈に言った。
私は「確かに、展示でそんな説明あったかも。ホラアナライオンやホラアナクマを滅亡させたのは、同じ捕食者であるホモ・サピエンスだったかもって」と答える。
エミちゃんは「そうそう!驚いたわね。そんなご先祖さまの歴史を知ったんだから、私も負けない」と石を振り上げて構えた。
暗闇から獣の瞳が外の月明かりをわずかに反射して蠢いた。その時、レキタビが、電子音を発した。
《エモーション増加を感知、バッテリー急速充電。時空座標、不安定につき、近接次元への強制ジャンプを実行します》
「え、ちょっと待って!」
私の制止も聞かず、再び世界が歪む。今度は、さっきよりは緑の多い、針葉樹の森の中に私たちは立っていた。
《現在地:フランス・ドルドーニュ地方、約6万3千年前。バッテリー残量:5%》
「うわ…エネルギーがだいぶ減っちゃった…暖房機能も使えないわ」
私が頭を抱えていると、エミちゃんが息を呑んだ。
「サキちゃん、あれ…」
茂みの向こう、焚き火を囲む二つのグループがいた。
片方は、頭が大きくがっしりとした体つきで、どこか武骨な印象、ファンタジーものの「ハーフリング」に似ている。もう片方は、私たちによく似た、すらりとした体型。
「ネアンデルタール人と…クロマニョン人…!本当に共存していたんだ!」
エミちゃんの声が興奮で震える。
二つの人類が、同じ時代、同じ場所に存在している。展覧会で学んだばかりの知識が、目の前のリアルな光景として展開されていた。
《バッテリー残量:10%…20%…30%》
(すごい、エミちゃんの知的好奇心と完全にリンクしてる)
私は再びヒーター機能をオンにした。
「でも、どうしよう、見つかったら…クロマニョン語なんて知らないし」
「大丈夫よ、エミちゃん。レキタビに、翻訳機能を入れたから。AI学習で未知の会話でもすぐに推測するわ」
私は腕時計に触れ、小さな声で命じた。「モード・コミュニケーション」
《未知原語翻訳モードを起動します》
しばらくすると、焚き火を囲む彼らの会話が、断片的に頭に流れ込んできた。
◆2つの人類
ネアンデルタール人のリーダーらしき男が、クロマニョン人の若者に、獲物の肉を分けている。言葉は違う。文化も違う。でも、そこには確かに、助け合い、生きようとする「人間」の姿があった。
「すごい…」
エミちゃんが呟いた。
「彼ら、争ってなんかいなかったんだよ…。ただ必死に、家族を守って、明日を生きようとしてるだけ…」
その時、クロマニョン人の若者と、ネアンデルタール人の若い娘の視線が絡み合った。二人の顔が、遠目にも恥じらいで赤らんでいる。
「恋に、落ちたんだ…。ネアンデルタール人とクロマニョン人、種は違っても、言葉が違っても、心が通じ合うことができるんだね」
エミちゃんの瞳には深い共感の涙が浮かび、人類の祖先に対する尊敬の念があふれていた。歴史の事実を知るだけでなく、その時代に生きた人々の「心」に触れた瞬間だった。
その時、レキタビが優しい光を放った。
《高レベルの共感を検知。エモーショナル・バッテリー、急速充電中…70%》
「やった…!」
「どうしたのサキちゃん?」
「ううん、なんでもない。エミちゃんが、すごい発見をしたってこと!」
私は笑顔で答えた。エミちゃんの心が動けば、私たちは未来へ帰れる。その確信が、私に勇気をくれた。
◆古日本島の始まりの物語
バッテリーが70%まで回復したことで、レキタビの機能は安定した。
《帰還エネルギー、未達。最適化された次なる座標を推奨。目的地:日本列島、約2万年前》
「次は、氷河期末期の日本だって!」
「私たちの故郷の、始まりの時代…!」
エミちゃんの目が、再び探求者のそれに変わる。私たちは光に包まれ、次なる時空へと旅立った。
次に私たちが降り立ったのは、潮の香りがする海岸だった。今よりもずっと海面が低く、瀬戸内海もまだ陸地だった頃の日本。空には巨大なワシが舞い、森の奥からは、ナウマンゾウの鳴き声が聞こえる。
私たちは、海岸線に作られた小さな集落を見つけた。竪穴式住居が並び、人々が黒曜石で石器を作り、焚き火で魚を焼いている。あと数千年後から始まる縄文時代の、さらにその源流。日本の物語が、まさに始まろうとしている場所だった。
「見て、サキちゃん。あのお母さん、土をこねてる…」
一人の女性が焚き火の近くで、試行錯誤しながら、粘土で何かを作っていた。まだ土器とも言えない、平たい土の板のようなもの。
「すごい…これが、あの縄文土器に繋がる、世界で一番最初の土の器…かもしれない」
エミちゃんは、まるで宝物を見るように、その光景に見入っていた。
「彼ら、ただ生きてるだけじゃない。生きるために、道具を作ってる。寒さをしのぐために、家を建ててる。そして、家族のために食べ物を少しでも美味しくしようと、器を生み出そうとしてるんだ…」
それは、生きるための「工夫」であり、他者のための「創造」だった。厳しい自然環境の中で、ただ耐えるのではなく、知恵を絞り、手を取り合い、より良い明日を作ろうとする人々の営み。
「…そっか」
エミちゃんが、ふっと微笑んだ。
「歴史って、こういうことなんだ。誰か一人の英雄が作るものじゃない。名前も知らない、たくさんの人たちの、毎日の小さな『物語』が積み重なって、できてるんだね…」
その瞬間だった。エミちゃんの心が、最高の充足感で満たされたのを、私は肌で感じた。
それは、歴史の壮大な流れと、今ここにいる自分自身が、確かに繋がっているという実感。過去への愛おしさと、未来への希望が結びついた、純粋な感動。
レキタビが、虹色の光を放った。
《エモーショナル・チャージ、100%。帰還プロトコル、起動します》
「やったよ、エミちゃん…!」
「うん。なんだか、全部わかった気がする。帰り道、答え合わせしようか」
エミちゃんは、満足そうな笑顔で私を見た。
◆エピローグ:クリームソーダの約束
気づくと、私たちは国立科学博物館のレストランの席に座っていた。
目の前には、手付かずのクリームソーダが二つ。窓の外は、すっかり夕暮れの色に染まっていた。
「いやー、すごかったね、最終章のバーチャルリアリティー! まるで現実だったみたい!Xでもあんな展示あるっていう情報なかったし、私のくじ運の良さでスペシャルコンテンツを引き当てたのかな!」
エミちゃんが、胸を張ってマンモスのぬいぐるみキーホルダーを揺らす。
私は、そんな彼女の笑顔を見つめながら、心の中で呟いた。
(本当の歴史の舞台に行ったことは内緒にしておこうかな。帰還条件がまだよく分からないし、レキタビを使うのはしばらく辞めたほうがいいのかな…。でも、心から楽しそうなエミちゃんを見ているのが、私の幸せだから、いっか)
「エミちゃんのおかげですごい冒険ができたわ」
私は微笑んで、クリームソーダのストローを口にした。シュワシュワと弾ける炭酸が、心地よかった。
「でしょ! また面白い展覧会、見つけなくっちゃね!」
「うん」
私は頷いた。
未来がどうなるかなんて、まだわからない。
でも、この人が愛する物語を、この人の笑顔が続く世界を、私は絶対に守ってみせる。
そのために、私の『レキタビ』は、これからも時空を超える旅を続けるのだ。
「来週もまた展覧会、行こうね。エミちゃん」
特別展「氷河期展 ~人類が見た4万年前の世界~」
国立科学博物館
2025年7月12日~10月13日