話し合いの末に
圧倒的なプレッシャーで部屋の温度を下げたラケルは、テーブルの上に乱雑に置かれた離縁状を視界の端に捉えた。
客人を見る目つきが一層鋭くなる。
「これはこれは、ヴェルデ伯爵。仕事中に押しかけて申し訳ない。」
トルテスの白々しい上辺だけの挨拶をラケルは黙殺した。
「用件を尋ねているのだが?」
「ああ失礼。用件だが….娘と離縁してほしいのだ。伯爵も不本意な婚姻で迷惑だったろう。」
「不本意だと…?」
ラケルが地を這うような低い声を出した。
(ひぃっ…なんか物凄く怒ってる…?)
聞いたことのない感情的なラケルの声に、ケイトは震え上がりそうになるのを必死に堪えた。
心を強く保たないと無駄に謝ってしまいそうで、彼の強者感をビシバシと感じる。
「勝手に決めつけないで頂きたい。」
立ったままトルテスのことを見下ろしていたラケルは、ゆっくりと歩いてケイトの隣に腰を下ろした。
隙間なくぴたりと寄り添い、彼女の手を取って握りしめる。
「俺はケイトのことを愛している。」
「何だと?」「……ひゃっ!!?」
唐突なラケルの清々しい愛の告白。
トルテスの怒気を孕んだ声とケイトの声にならない声が重なった。
(なっ…ちょっ、ちょっと待ってよ!!こんな時に笑えない冗談を…って、え?何これ本気なの??嘘でしょ!やめててててえええぇ!!)
未だ手は繋がれたまま、真横にいるケイトを真摯な瞳で見つめ続けるラケル。
こんな状況で…と頭では冷静に理解しつつも、心は制御出来ずにケイトの顔が赤くなっていく。
「可愛い」
「……っ!!!!!」
ラケルがケイトの頬にキスをしてきた。
真っ赤な頬を親指の腹で撫でつけ、恍惚とした表情で熱く見つめる。向かい側に座っているトルテス達のことは完全無視であった。
苛立ったトルテスが大袈裟に咳払いをして、ケイトを睨みつけてきた。
「ケイト、伯爵はああ言ってくださってるが、お前はどうなんだ?この婚姻は元より分不相応だと思わんか。今はいっときの興味で愛を向けてくれているが、それが続く保証はない。だったら、最初からお前を求めてくれる相手に嫁いだ方が幸せだと、そう思うだろう?賢くなりなさい。」
射抜くような目でケイトだけを捉え、説き伏せようとするトルテス。ラケルに口を挟まれないよう早口で捲し立てた。
(私の幸せ…元から期待していなかったから、今更言われても困るというのが本音かしら。でも、本当に相手が私を望んでくれたのなら、少しは期待出来るのかな…)
ケイトの逡巡を読んだかのように、ラケルの手がぎゅっと力強く握りしめてきた。
驚いて視線を上げると、自分を見つめる甘さのある瞳と目が合った。
『大丈夫、信じてほしい』
そんな風に言われている気がして、恥ずかしくなってしまい、慌てて俯いた。
追い討ちをかけるように、その頭をぽんぽんと優しく撫でられ、服の下にじんわりと変な汗が滲む。
(なんでこんなに甘いのよっ!!心が悲鳴をあげてるわ!ああもうっ)
そしてラケルの纏う空気が一変し、硬い表情で前を向いた。
「で、次の婚姻相手は誰だ?」
「それは…」
トルテスが言い淀んだ。
必死に取り繕っているが、忙しなく左右に動く瞳から動揺していることがバレバレだ。
「ここまで勝手に押し進めるのだから、もう次が決まっているのだろう?離縁後とはいえ、ヴェルデ家と無関係とはいくまい。こちらにも把握しておく必要がある。」
「…とある伯爵家の当主だ。先方の都合もあるから、今はまだ名前までは明かせん。離縁が成立した後、改めてお伝えしよう。」
ラケルが思案顔で数秒沈黙すると、トルテスに侮蔑の目を向けた。
「…シャロット伯爵か。」
「…………っ」
沈黙が答えであった。
隣に座るミーシャも頬を引き攣らせている。
「娘をあんな男の所へ嫁がせるとは…お前達正気か?」
「あんな男って…それどういうこと?」
顔を青くして黙り込むトルテスの代わりに、ケイトが尋ねた。
社交界に疎く、名前を聞いてもどんな人物か思い至らなかったためだ。
ケイトに視線を向けられ、ラケルが少し困ったように考えている。
「言いにくいのですが…シャロット伯爵には特殊な収集癖があり、見目麗しい女性や極端に若い女性を何人も邸に囲っているそうです。ちなみに、彼の歳は60近いはず。」
「うっわ………………………」
(これは完全アウトだわ。)
ケイトの顔が歪み、ドン引きしている。
「そんなの噂に過ぎないだろう。ヴェルデ伯爵ともあろうお方が…噂を本気にして勝手なことを言うと、不敬罪で訴えられるぞ。言葉には気をつけた方がいい。」
「シャロット伯爵は事実犯罪まがいのことをしており、王宮から何度も注意勧告が出ている。その書類を作成したのは俺だからな。噂などはなから気にしていない。」
「そんなことっ……」
トルテスの顔が怒りでみるみる内に赤くなっていく。
だが、ラケルの正論に反論できる材料はないらしく、黙ったまま貧乏ゆすりでガタガタと机を揺らすだけだ。
「ケイト」
「!!」
突如として、優しく名を呼んだラケルがソファーから立ち上がり、彼女の前に跪いた。
(え、何この状況…?)
完全に気を抜いていたケイトが彼の行動に驚愕し、目を見開く。
「心から愛している。君といたい。君がいい。だからどうか、この俺を選んで頂けますか?」
真っ直ぐに手を伸ばし、ありのまま、ひたすらに希う。縋るような瞳で必死にケイトのことを見つめた。
(ずるい。そんな風に真っ直ぐに求められたら私…)
一度は落ち着いたはずのケイトの顔が、真っ赤に染まる。
潤んだ瞳に赤くなる耳、それはもう誰が見ても分かる結果であった。