悪夢
張り付くような鋭い視線…
ゾッとするような狂気の笑み…
吐息から伝わる生暖かい体温…
(いや…こっちに来ないで………)
どんなに嫌がってもそれは躊躇なく距離を詰め、瞬く間に彼女の眼前へと迫る。退路は壁に阻まれ逃げ場はない。動けない状況で必死に顔だけ背ける。
そして、彼女の全身を取り込もうと巨大な黒いモヤとなって襲いかかってくる…
「いやあああああああっ!!!」
自分の甲高い悲鳴で目を覚ましたケイト。
ベッドから半身を起こして素早く辺りを見渡すこと3回、ようやく夢を見ていたことに気付いた。
額に手を当て、記憶を消し去るように頭を左右に降る。
「ひっどい夢だわ…」
呻くように呟いた。
昨日王宮でラケルに迫られたことが、自分の中に暗い影を落としていることに腹が立ち、枕を両腕で締め上げた。
「ケイト様、お目覚めですか?」
叫び声に気付いたローラが部屋に入ってきた。
「ローラ!今日は朝食にスイーツ盛り合わせを追加してもらって!ホイップも忘れずにね!!」
「え、ええ。畏まりました。」
心配して部屋に駆けつけたものの、普段通り…いや普段以上に元気な声が返ってきて少し安心したローラ。
朝食の時間に遅れてしまわないよう、急ぎ厨房へと知らせに行く。
「そういえば今日は旦那様がいらっしゃる日だったような…」
階段の踊り場で立ち止まり、戻って伝えるべきか考え、ひとまず主人の指示を遂行することにした。
その後朝の支度で忙しいローラがこのことを再度思い出すことは無かった。
「ケイト、おはようございます。」
読みかけの新聞を閉じ、朝にピッタリの爽やかな笑顔を向けてくるラケル。
初夏の日差しを受けた黒髪は艶めき、白い肌がより透き通って見える。細めたシルバーの瞳には見たことのない優しさが溢れていた。
「は」
思わず不躾な声が出た。
(今なんて言ったこの人…………)
ホイップたっぷりスイーツ盛り合わせを楽しみにウキウキとダイニングルームに入ってきたケイトが一瞬で表情を失くす。
「ケイト、こちらにどうぞ。」
席を立ったラケルが慣れた手つきでケイトの席の椅子を引き、スマートに着席を促してきた。
不遜な態度を取るケイトのことを気にする素振りもなく、ひたすら優しい笑みを向けてくる。
部屋の隅に控える給仕係達の雰囲気も柔らかい。ラケルの行動を好ましく思っているようだ。
そんな陽だまりのごとく温まるこの部屋で、ケイトの心の中だけブリザードが吹き荒れていた。
「まぁ旦那様、一体どうなさいましたの?」
わざとらしく張り付けた笑顔で、にこやかに言い放ったケイト。眉を吊り上げ、煽るように顎を上げる。
(こんな嫌がらせ、いつまでも耐える一方だと思ったら大間違いよ。さぁ挑発に乗って本性を現しなさい。使用人達の前に晒してやるわ。)
ラケルの引いてくれた椅子に座り、宣戦布告とばかりに冷えた視線で彼のことを見上げた。
「ああ、しばらく邸で仕事が出来るように調整しました。これで毎日ケイトと共に朝食が取れる。もちろん、夕飯も。この上ない幸せですね。」
ふふふっと声に出して心の底から嬉しそうに笑ったラケル。
普段無愛想なほど無表情な彼が見せた無邪気な笑顔に、若い使用人達が頬を赤く染める。何人かはつい仕事の手を止め、ぽうっとした表情でラケルに見惚れてしまった。
「は…今なんて……………」
嬉しそうに顔を綻ばせるラケルに対し、ケイトの本音がしっかりと漏れ出た。
だがその声を聞いてもなお、彼の表情が崩れることはない。
「さぁ、冷めてしまいますから、そろそろ朝食にしましょうか。」
「・・・・・・・・・・・・」
思い切り無視ししてきたラケルのことを思い切り睨んだが、返ってきたのは胃もたれのしそうなほどひどく甘い笑顔であった。
顔に穴が開きそうなほどにこにこと見つめ続けてくるラケル。
埒が開かないと思ったケイトは諦めてカトラリーに手を伸ばした。
(もう訳がわからないわ…何なのよこの人……空腹なんてもうどっかに行ったけど、とりあえずなるべく早く食べて、なるべく早くここから出よう。ああもう一刻も早く脱出したいわ…………)
「そういえば今日のデザートはケイトのリクエストだと聞きました。俺にもくださいね。」
「うっわ」
(忘れてたあああああああ!!やらかしたわ!!デザートなんて食べてたら余計な時間が掛かるじゃない!!)
「ふふふ。一口貰えれば十分ですから、だからそんな泣きそうな顔をしないでください。」
「……いやむしろ、全部食べてもらった方が好都合というか…丸ごと差し上げますわよ?」
「ああ、食べさせるのが恥ずかしいのですね。大丈夫ですよ、ちゃんと自分のスプーンで食べますから。」
「は?別にそういうことじゃ……」
「そんなに照れてしまって、本当にケイトは可愛らしいですね。」
「・・・・・・・・・・」
ここでついにケイトの思考が完全停止した。
全く話が通じず、白目を剥いて口から泡を吹き出しそうになる。
「え、何をされてるのです?」
意識を取り戻したケイトがひとつ瞬きをして、焦点を合わせる。
気付くといつの間にかラケルが隣の席に移動してきており、ケイトの目の前にちぎったパンを差し出していたのだ。
「お手伝いが必要かなと思いまして。さぁどうぞ。」
「け、結構です!」
声が裏返る。
すぐ近くから笑みを堪える雰囲気を察したが、気付かなかったことにした。
揶揄わられたと知りながらもカッと体温が急上昇し、顔に熱が集中する。
横から突き刺してくる熱っぽい視線を無視して、ケイトはフォークを手に待ち、自分の皿を空にすることだけに集中したのだった。