芸は身を助ける? それとも滅ぼす?
これは小説習作です。とある本を開き、ランダムに3ワード指差して、三題噺してみました。
随時更新して行きます。
【お断り】「道、友、欲」の三題噺です。
(以下、本文)
天下泰平の江戸時代、お侍の家に生まれても次男、三男と成ると、家を出て自分の口は自分で養うしかありませんでした。
さて、ここに山南・片岡優之進なる若者あり。
山南とは後に自らつけた雅号。お察しの通り三男坊でした。
この山南くん、幼にして学問に秀で、十で神童と称えられましたが、メッキが剥げて十五で才子。
このまま二十歳を迎えたら「ただの人」となるのは火を見るより明らか。
親兄弟で相談の上、山南くんを長崎で医者修業させる事にしました。
藩儒(大名家お抱えの学者のこと)はどこでも足りており、「学問で身を立てる」は言うほど簡単ではない。医者の方が手っ取り早く稼げたのです。
さて山南くん、長崎で湘江・安芸達之助と名乗る同年齢の若者と出会いました。
詳しい説明は省きますが、湘江とはエラくええカッコしいな雅号なのであります。
この二人、どっちも三男坊で、共に詩を良くし、たちまち意気投合して刎頸の友となりました。
ここで言う詩とは「みんな違って、みんないい」の詩ではなく漢詩の事であります。
漢詩は、もう見向きもされなくなりつつありますので、誰でも知ってる適当なサンプルを思い付かないなあ。
「ふんけいのとも」は、もうメンド臭いから自分で調べて下さい。
さて湘江くん、酒の席の戯れに山南くんに、こんな質問を振って来ました。
「時に君、武芸のたしなみは、あるかね?」
山南くんにとって、これはプチ・トラウマな質問でした。
「ああ。剣だ槍だ弓だ馬術だと散々仕込まれたよ。なにしろ、殿様から足軽に至るまで武士道武士道のお家がらだったからね。」
「そりゃいい。形ばかりでいいから、僕にご指南いただけないかな。」
山南くんのライフがまた削られました。
「武芸だなんて、今どき流行らないよ。食えるもんでもなし。」
「まあ、そう言うな。偉い人から『どうなんだ?』と聞かれて『できません』じゃ話にならないからね。」
「仕官(お侍さんの就活のこと)の持ちネタを、また増やそうってか。ご熱心な事だなあ。」
とは言ったものの、大切な刎頸の友です。山南くんは湘江くんの相手をしてやりました。「どうせすぐ音を上げるだろう」とタカを括っていましたし。
ところが湘江くん、立ち会ってみれば、なかなか器用なタチで、「形だけなら」アッと言う間に免許皆伝レベルまで行ってしまいました。
山南くん、ちょっと感心して言いました。
「ここまで来たんだ。いっそ上を狙ったらどうかね。素振りは毎朝。あとは走り込む事だな。」
湘江くんは本に目を落としたまま、プイと言いました。
「いや、もういいよ。知っての通り、僕は凝り性なもんだから、持ちネタ一つ一つに、あんまり深入りしたくないんだ。」
ちょっとムカつく言い方ですが、「持ちネタ増やすため」は山南くんも承知の上でしたから、その先のセリフを山南くんは飲み込みました。
湘江くんの爆走は武芸だけに、とどまりませんでした。
普通は三年かかる医者修業を二年で片を付け、かと言って仕官の旅に出るでもなく、能の茶道の将棋の囲碁のと遊び狂い始めたのです。
「これも仕官の持ちネタ増やしか」と山南くんは想像しましたが、そのうち「悪い場所で湘江を見かけた」と言ったタグイの噂が伝わって来ました。
医者のタマゴが、なんで物理学の実習までしなければならないんですかね?
「おい、あんまり欲をかくなよ。」
溜まっていた物が、遂に山南くんの口を突いて出ました。
湘江くんは横を向いたままプイと答えました。やっぱり自ら恥じる所はあったんでしょう。
「やっぱり武士道武士道かい? お固いねえ。いいかい、オレたちは武士と言っても、テーブルの端を両手で握りしめて落ちまい落ちまいとしているだけの存在なんだぜ。利用できるものは何でも利用すべきだし、藁しべ一本でも落ちて来たら、それにすがりつくべきなんだ。」
山南くんは再び口を閉ざしました。「学校の友だちは永遠不滅のものじゃない」と言う事くらいは分かっていたからです。
その後、山南くんは小さな大名家の藩医(会社の産業医みたいなもの)に召し抱えられました。かわいい嫁さんを貰い、子宝にも恵まれて充実した日々を送っていましたが、ある凶作の年、財政逼迫した大名家から召し放ち(リストラ)されてしまいました。
三十代の仕事盛りに、これはひどい。
宮仕えがすっかり嫌になった山南くんは、刀を捨て、町医者として生きて行く決意をしました。
一方の湘江くんは、もっと大きな大名家の藩医のポストにありつきました。
芸達者な安芸達之助くんを周囲が放っておくはずがなく、なんとまあ、若様の守り役(第一秘書みたいなもの)に取り立てられました。
若様の雅号は悟遊と申します。お察しの事と思いますが、若様は若様でも、遊び人の五男坊の若様でした。当然の事ながら、悟遊さまと湘江くんは、息のピッタリ合った名コンビになりました。
もっとも、悟遊さまには悟遊さまなりのお考えがあったのです。
「このまま家にいても五男坊の余に芽が出るはずもなし。幸い茶の湯の世界では、ちったあ名の知れた余である。茶の湯は金のかかる道楽だが、若様と言う立場をうまく利用すれば茶の道で食って行く事も可能であろう。」
なるほど悟遊さまと湘江くんが相性ピッタンコなはずですな。
ところがどっこい、運命の神様は気まぐれなもんです。
悟遊さまの四人の兄上は疫病でバタバタと亡くなってしまわれた。
思いもかけず藩主の座に据えられた悟遊さま、やらせてみれば、なかなかの政治家だった。
「これまでずっと藩政の中心から遠ざけられていた」と言う弱みを強みに変えた。
しがらみが無い分、バッサバッサと藩政改革を進める事ができた。
ルール違反をした者は血縁者でも容赦しないが、重箱の隅を突つくようなケチな事はしなかった。
ほどほどと言う事を、わきまえていたのです。
やがて名君の評判は江戸表の幕府まで伝わり、悟遊さまは幕閣の末席に連なる事になりました。
この出世スゴロクの影の立役者は湘江・安芸達之助でした。
悟遊さまの家老に取り立てられて以降、主君の影になり日向になりの大活躍で、藩政に大きく貢献したのでありました。
ところが運命はまたしても手の平を返す。
三年後、幕府の表向きも大奥も巻き込む大権力闘争のとばっちりを受けた悟遊さまは、切腹=お家取り潰しこそ免れたものの隠居を命じられ、家老・安芸湘江のみが切腹して果てました。
「ほら見ろ。欲をかくなと言ったじゃないか。」
悲報に接した山南くんの目から涙がポロリとこぼれました。
それは友を失った悲しみの涙であり、余りの運命に対する悔し泣きでもある。
立場が変わったとはいえ、山南くんと湘江くんは季節のあいさつを欠かさない仲ではあったのです。
実は山南くん、医業は息子に譲って五十歳で隠居していたのです。
手すさびの積もりで書いた書画が思わぬ評判を呼び、山南くんは文人・風流人サークルに迎え入れられていました。
山南くんと湘江くん。二人の人生は、やはりどこかでクロスしていたのです。
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以上が私の七代前の祖先、山南・片岡優之進の略伝である。
たまたま読んでいた江戸期の随筆文学に片岡山南の名が無かったら、私は調査の糸口さえ、つかむ事ができなかったに違いない。
山南一族は代々、医家を輩出して行くが、伝えられた家訓は「医は仁術なり」でも「ヒポクラテスの誓い」でもない、「欲をかくな」である。
実際的なものにしか目を向けない家系だったのだ。
ところが不思議な事に、どの代でも最低一人の「遊び人」を出しているのである。
ここで言う「遊び人」とは、俳人、歌人、詩人、小説家、劇作家、俳優、画家、彫刻家、音楽家、舞踏家と言った「食えない商売」に血道を上げ、生涯を捧げた人々の事である。
かく言う私も、職を転々としつつ売れない小説を書いて来た。
「実際的な事にしか目を向けない一族が、なぜか遊び人を生み出してしまう」必然性は、我が身に照らしても大いに理解できる所だ。
こう言うのも家風と言うのだろうか。