王都の夜明け
長い夜が明ける。朝焼けが王都の街並みを照らすとともに、くず屋たちはゴミを集め始め、少年たちが王都新聞を街に配り歩く。あと半刻もすれば大聖堂の鐘がその他の王都民を起こし、賑やかな街の風景が戻ってくるだろう。
その光景は一見してまるで昨日と同じ顔をしているが、すでに幾人もの権力者は昨晩のうちに地殻変動とも言える大きな力の変化が起きたことを察知しているはずだ。
まさか、突如起きた大きな力の変化の一端を無能騎士と呼ばれた俺が担っているとは聖騎士団のかつての同僚の誰が信じるだろう。
黙って東の港の埠頭から海を眺めていると隣に立つソフィア・グレイシャーが手を引いた。
「ドン、そろそろ参りましょう。聖騎士団に嗅ぎつけられたらまずいでしょうから」
俺は「ああ、そうだな」と言って海に背を向けた。リリーやその両親が乗った客船はとうに水平線の彼方に消えている。今となってはルートヴィッヒ家の幸福を祈るだけしかできない。
俺はソフィアと一緒に待たせてあった馬車に乗り込み、大きく深呼吸をする。馬車が走り出し、朝の新鮮な空気が体を巡ると、ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れ、どっと疲労が肩にのしかかる。それも仕方がないことだろう。ギリギリのところで国が瓦解する瀬戸際を切り抜けたばかりなのだから。
今、思い出しても恐ろしい現場としかいえなかった。
王子の媚薬を飲まされたリリーは異端スキル「夢幻術数」を自分ではコントロールできない状況だった。
恐ろしいことにセシルがレイモンド王子の部屋を出た時、本当に眠りに落ちる聖騎士たちは王子の命令通り貴族たちを襲おうとしたのだ。もし新たに解放した「王の横暴」でリリーを制御することができなかったら、王都だけじゃなく国全体の秩序は崩壊していただろう。
かつて忠誠を誓った後継第一位王子レイモンド・デュヘルマークは狂気を孕んだ規格外の人物と言って間違いがない。
しばらく車窓から見える朝の王都を眺めているとソフィアが口を開いた。
「どんな気分ですの?」
「どんな気分?」
「決まっているでしょう。ミチーノファミリーのトップであるあなたはすでに王都の商業圏の三分の一を手中に収めているのよ。何よりカポネの計画を頓挫させ、手打ちという苦渋のカードを切らせた。王都史に残るほどの大仕事を終えた男はどんな気分なのかしらと思って」
少し道を行くだけでルートヴィッヒ商会の紋章が貼られた建物が幾つも通り過ぎる。この建物の権利がすでに俺のものとなっているなんてとても信じられることではない。
ソフィアは続けて言った。
「おまけにトルケマダ異端審問官を殺して教皇庁に喧嘩を売り、王位継承権第一位王子に劇薬を飲ませた。私にはレイモンド王子よりドンの方が狂気を孕んでいるように思えるけど」
それはその通りだった。俺がやってのけたことは大罪そのものだ。
俺が黙ったまま車窓を眺めていると馬に乗る二人の聖騎士と馬車がすれ違う。甲冑から判断すると早朝の巡警を担当する若い聖騎士だ。
通り過ぎる時、聖騎士はチラリとソフィア・グレイシャーや俺の姿を見て、何事もなかったかのように走り去っていった。
ソフィアはそんな聖騎士を横目で眺めながら言った。
「聖女様も寝る暇もないわね。宮廷に教皇庁、いろんなお偉い方に説明して回らないといけないのだから」
ソフィアが話す通り、これからのセシルの気苦労は計り知れない。
巨石城全体が眠らされたという前代未聞の事象。魔王マニーナの出現。さらに教皇庁が誇る異端審問官であるトルケマダ・スロブリンの失踪についてもセシルは問いただされることだろう。
セシルがそのすべてにミチーノファミリーが関わっていることに辿り着くのは時間の問題だ。その時、セシルはドン・ミチーノたる俺に対して、以前のような友好的な態度をとることはない。激しい対立が待っていることだろう。
そしてそれは当然の成り行きだ。俺の脳裏には暗い地下道で命乞いをするトルケマダの姿が浮かぶ。自分が犯した女に滅多刺しにされたトルケマダは涙を流しながらおれに跪き、「なんでもしますから助けてください」と何度も繰り返し懇願した。その哀れな男に最後の一太刀を浴びせたのは他でもない俺だった。
俺の考えていることを読み取ったのか、ソフィアは言った。
「教皇庁を敵に回してどう立ち回るおつもりですか?」
「教皇庁所属のトルケマダが貴族相手に異端者を使って何をしていたかはこちらが全て掴んでいる。そう簡単に教皇庁は俺たちに手出しはできないさ」
俺は最後に一言付け加えた。「ただし特殊異端者のリリーを国外に逃したことを含めて、聖騎士団を率いるセシルが見逃すことはないだろう」
ソフィアはため息をついた。
「だからまた浮かない顔をしていたのね」
そう言ってソフィアが俺の頭を腕で優しく引き寄せた。「胸を張ってください。どれだけ罪を重ねたとしても、元聖騎士レオン・シュタインが国を守ったことに変わりはないのですから」
それから、一人の異端者によって巨石城全体が眠りに落ちるという前代未聞の夜から三ヶ月が経った。事件の詳細は一部の貴族や聖騎士団内にとどまり、一般の王都民が詳細を知ることはなかったが、あの日以来王都では実に様々な噂がひしめき合っている。
まずレイモンド王子があの日以来、公の場に姿を現さなくなったことに王都民は様々な憶測を立てている。何かの事件に巻き込まれ大怪我を負ったと話すものもいれば、重病説をまことしやかに話す人もいる。
神学界では魔王復活論争が息を吹き返していた。なんでも、かつてこの地を支配したとされる魔王マニーナによく似た少女を複数名の聖騎士があろうことか巨石城で目撃したというのだ。
その少女は眠る貴族たちを人質にするカポネファミリーの異端者たちを一瞬のうちに戦意喪失におとしめたという俄かには信じたがたい噂も王都では流れている。
当のセシルの反応は不可解だった。目撃情報から推論すればマニーナと俺たちミチーノ・ファミリーになんらかの繋がりがあるのは明らかなのに、セシルはあの夜に見た少女は魔王とは似ても似つかない存在だったと教皇庁最高会議の場で証言したらしい。
それでいてセシルはこんな書簡を送ってきた。
「巨石城の一件に関しては大変感謝しております。ただし、レオンの件を含めて一度あなたとはじっくり話し合わなければならないでしょう」
面倒なことになるのは明らかだったが、俺がセシルに詰問されるという場面は未だ訪れていない。
今、王都の秩序を揺るがす事態が起きているのだ。
王都からはるか西。国境を守る「聖女の壁」と呼ばれる防壁の向こう側には王家や法王庁を頂点とするこの国の秩序が及ばない辺境地帯が広がっている。
その辺境で近年決して起きることがなかった大規模な蜂起が起こり、国境を守る聖騎士団が襲われるという事案が立て続けに起きた。
これほどの大規模な蜂起は西の地方領主らの手には負えないらしく、王都聖騎士団の部隊も先日派兵された。それでも蜂起は収まらず、ついには聖騎士団トップであるセシル自ら陣頭指揮を取るのではないかという噂も流れ始めている。
俺は俺で急拡大するミチーノ・ファミリーの運営に忙しく、王都新聞に目を通すくらいのことしかできていないが、個人的にこの事案に興味を覚えていた。
王都新聞によれば、未開の部族らを統率するのはシア・セイレンという女らしいが、なんでもこの女は自分のことをこう名乗っているらしい。自分は「異端者の王に仕える者」なのだと。




