本物の血が流れる世界
バンピーを殴った拳にじんわりとした痛みが残っている。バンピーには悪いことをしたが、おかげでこの世界の成り立ちを少しずつ理解してきた。
一つ言えることはここは単なる夢の世界じゃない。
学舎の木の匂い、貴族から発せられるオードパルファムの艶やかな香り。窓を通して学舎内を照らす太陽の光。嗅覚や痛覚、全てがリアルそのもの。そう、ここはもう一つの現実と言ってもいい空間なのだ。
そこから導き出された仮説は控えめに言って最低だ。
カノが使う透明化スキル「シャドーウォーク」を使い、姿を消した状態で地下にある営倉に向かっている間、刻一刻と危機感が募っていく。
リリーのスキルで眠らされたのは貴族や聖騎士だけではない。ガンビーノの殺人鬼フォルッサ・マリア、無類の狂人アリウス・ユング。巨石城地下牢獄に幽閉されている歴々の異端者を学舎内で見かける。彼らも聖騎士や貴族と同様、眠らされてここに囚われているのだ。
聖騎士達は皆緊張した面持ちで、異端者から少し離れたところで剣を構えている。異端者達はまだ状況が飲み込めていないのか、何も行動を起こしていないが、いつ戦闘行為が発生してもおかしくはない。この状況とさっきの仮説を掛け合わせるとどうなるか……
そこまで考えたところで、脳裏にリリーの声が響いた。現実世界からリリーが俺に話しかけているのだ。
(レオンさんが考えている通りです。夢幻世界はただの夢の世界ではないのです。そこで傷を負えば生身の身体から血が流れます……)
「やっぱり、か……」
つまり聖騎士や貴族達は二つの世界で同時に危険に晒されているのと同義というわけだ。
地下へと繋がる廊下へと差し掛かった時、小さな声で「ドンの気配がする、もしかしてそこにいる?」と呼びかけられた。辺りを見回すと、廊下の天井からつるりとしたスキンヘッドの男が顔を出している。俺のファミリーに所属する脱獄異端者のソクラテだ。
ソクラテは強面な顔つきとは裏腹にしゅんと申し訳なさそうに言った。
「ドン、ごめん。命令失敗した。ルブラン公爵を連れ出す前に眠らされた」
「仕方のないことだ。リリーのスキルの前ではどうすることもできない」
ソクラテは天井裏から手を伸ばした。
「情報を共有したいのでここにきてほしい」
俺はジャンプして手を掴み、ソクラテのいる天井裏に潜り込んだ。ソクラテは二メートルを超える大男ながら、こういった狭い空間でも器用に入り込むことができる能力を持つ。
ソクラテは不安げに言った。
「さっき聖騎士の人たちがこのままカノちゃんが口を割らなかったら耳や四肢を切り落としでも計画の全貌を吐かさせるって言っていた」
異端審問官と同様に聖騎士団が異端者に対する拷問を厭わないのは事実だ。当然のことながら耳を切り落とせば、現実のカノも耳を失うことになる。とにかく迅速に動かないといけない。
「ソクラテ、セシル聖騎士団長の居場所は分かるか?」
そう尋ねた時だった。突然、廊下や天井裏にいる俺たちの周りを煌々たる光が包み込む。続いて地響きと共に廊下の窓ガラスが一斉に粉々に割れ、学舎に爆風が舞い込んできた。威力は凄まじく、屋根裏まで粉塵で覆われた。
間違いなく、これはセシルしか発動することができない最難関聖術「ベツレヘムの星」。どうやらセシルは今現在戦闘中にあるらしい。しかもこれほどの聖術を使わなければならないほどの異端者と。
そしてようやく、現実世界のセシルを守る結界が徐々に弱くなっている理由を知る。セシルとて無限に聖術を発動できるわけではない。聖術を発動する時には必ずマナと呼ばれる聖術の根源となる力を消費する。
当然、今の聖術のような大業は大量のマナを消費することになる。つまり、この世界での戦闘が続けば続くほど、マナは枯渇し、現実世界のセシルを守る結界が弱まっていくというわけだ。それこそがレイモンド王子の狙いと見て間違いない。
俺は言った。
「ソクラテ、俺の代わりにカノを守るためひと暴れしてくれるか? 時間を稼げればそれで構わない」
ソクラテは弱々しい表情で頷いた。「ドンが命令するなら準備はできている」
俺はソクラテにカノが囚われる営倉に向かうよう指示をした。ソクラテはずっしりと頷くと、天井裏を這いながら暗闇の中に消えていった。
俺は屋根裏から聖術による爆風でボロボロになった廊下に降り立ち、窓から外へと飛び降りた。屋外に出ると、遠くでセシルが聖騎士達に指示を送る声が聞こえてきた。気配からして戦闘は第一修練場あたりで起きているようだ。
学舎を離れ、修練場へと続く弓射場に差し掛かった時だった。突然、スキル「シャドーウォーク」の効力が消え、俺の姿は実体化した。次の刹那、斬撃が放たれたのを感じて俺はサッと後ろに飛んだ。
ギリギリのところで白刃を避けるが、続いて左右で剣が走る。屈んでそれを避け、再度後ろへ飛翔する。息を落ち着かせながら前方に顔を向けると、俺の目の前には三人の聖騎士が立っていた。
「レオン、久しぶりだな」
俺の前に現れたのは上級騎士の甲冑をきた聖騎士三人だ。忘れもしない、聖騎士団を退団した日、俺を捕縛しようとした先輩騎士達だ。
「まさかこんなところでかねてから与えられていたレイモンド王子の王命を叶えられるとはな」
その言葉と共に、聖騎士達は剣を振いながら俺に飛びかかってきた。
咄嗟に斬撃を手持ちの小刀で受け流すが、その後も次々と上級騎士らの鋭い太刀を浴びせられる。この迷いのない剣筋から言って、先輩方は本気で俺を殺すつもりらしい。そしてそれがレイモンド王子の王命というわけだ。
しばらく、こう着状態が続いた。聖騎士は聖術を発動し、俺の動きを鈍らせた上で剣を振るう。俺はギリギリのところで剣を受け続ける。
セネカの異端スキル「光速の殺し手」を発動すれば勝機は見えるが、今夜の連戦で俺のスタミナも尽きつつある。異端スキルの発動は一度が限度。余力は残しておきたい。
俺は剣を受けながら言った。
「おい! 少しでも正義心があるのなら俺を通せ! セシルを現実に連れ戻さなければ聖騎士団に致命的な被害が及ぶぞ!」
「バカな、王家の命令に従うことこそが我らの正義! そんなこともお前はこの学舎で学ばなかったのか!」
確かに王家に絶対の忠誠を誓うのは聖騎士にとって当然の理だ。これ以上の話し合いは無用。仕方がないが、異端スキルを発動するしかない。そう思った時、冷ややかな女の声が聞こえた。
「貴様ら、いったい何をしている」
続いて空から鋭い一閃が振り落とされると、俺と上級聖騎士らはどちらもサッと後ろへ下がった。一際輝く長剣を振り落としたのは第一聖騎士団所属、剣聖リリスだ。
リリスは俺と聖騎士を交互に眺め見ながら言った。
「全く、一体どちらが敵か味方かもわからないな」
そしてリリスは剣を構え直す。
「ただし戦闘の理由は察しがつく。今回のところはレオン、あんたにつくとしよう」




