97
早朝。社の中に奇妙な笛の音が響き渡った。
ぴっぽろぽろぽろ、ぴぃ~
その後、ちーん、と鈴だか鉦だかの音がして、風景がぱかりと扉のように開く。
そこから華麗に飛び降りたのは妖猫だった。
ところが、飛び降りたのが、ちょうど、眠っているソウビの上だった。
ぐえっ、と奇妙な声を上げて、ソウビは慌てて飛び起きた。
「おや?
これは見事な狐の敷物だと思ったら、生きていたニャ。」
妖猫は足元を見下ろして、にゃあ、と上機嫌な笑顔を見せた。
「おはようございますニャ。
新しい朝が来たニャ。希望の朝だニャ。」
「てめえ!
朝っぱらからなにしやがる!」
妖猫とは正反対の不機嫌の極まりの顔をして、ソウビは今にも襲い掛かるように姿勢を低くした。
それに妖猫は悪びれずに、あっさりと謝った。
「ごめんニャ。
お腹出して仰向けで寝る狐ニャんて、初めて見たんだニャ。」
「問答無用。
この俺様を怒らせたことを、後悔させてやる!」
「ちょっと待った待った待った!」
先に起きて厠へ行っていた枯野は、慌てて戻ってくると、その間に割り込んだ。
「あ、あちっ、あちっ、あちっ。」
ソウビの打った狐火を、とりあえず全部、止めてやる。
「ふう。おふたりとも、喧嘩はやめてください。」
「喧嘩だあ?
先に手を出したのはそっちじゃねえか!」
「だから、謝ったニャ。
執念深い狐は嫌われるニャ。」
枯野を挟んで言い合いになるふたりに、枯野は盛大なため息を吐いた。
それから、そっとソウビの前に膝をつくと、いきなり、ぎゅっと抱きしめた。
「おいっ、てめえ、なにをっ!」
暴れようとしたソウビは、枯野ごと、ふわり、と温かな色をした光に包まれた。
光のなかで、ソウビはびっくりしたように目を見開いたまま固まっていた。
「・・・痛いところは、ありませんか?」
光が収まると、枯野はソウビの顔を覗き込んで静かに尋ねた。
拗ねたようにそっぽをむいて、ソウビは、ない、とぼそりと答えた。
「・・・治癒術くらい、俺にもできるのに。」
「まあまあ。俺にまともに使える術はこれくらいですから。」
ぶすっと拗ねているソウビに枯野は苦笑してから、妖猫のほうを振り返った。
「昨日はいろいろと無理なお願いをしてすみませんでした。」
妖猫は呆けたように枯野の治癒の光を見ていたけれど、はっと我に返って手を振った。
「ニャんニョ、ニャんニョ。
我輩、ちゃあんと、ミスターオゥノゥにはニャしを聞いてきたニャ!
あ、しまった・・・」
妖猫は慌てて口を押えて、上目遣いになって枯野を見た。
「今の、聞こえてしまったかニャ?」
「はあ。ミスターオゥノゥに、ちゃんと話しを聞いてきた、って・・・」
律儀に枯野が繰り返すと、おーまいがっ!と妖猫は天井を仰いだ。
「その、ミスターオゥノゥ、というところ、忘れてほしいニャ。」
「え?」
「ミスターオゥノゥは、表側の術師としても、ニャかニャかに、有名ニャお方ニャ。
そんなお方が、裏側の術師、略して裏師もやっているということがバレたら、大変ニャ。」
「お前さん、それ全部俺たちに言ってしまっていいのか?」
怪訝そうに眉根を顰めて、ソウビは妖猫を見る。
妖猫はまた、しまったあ!と天井を仰いだ。
「いかんいかん。
素直な坊ちゃんと話していると、ついつい、こちらも正直にニャんでも言ってしまうニャ。
まったく、坊ちゃんは危険なお人ニャ。」
「???
俺、何かしましたっけ・・・」
きょとんとして首を傾げる枯野に、妖猫は再び、おーまいがっ!と叫んだ。
「それ、やめてくれニャ。
そニョ、汚れを知らニャい、清んだ瞳は、我輩に対する、凶器ニャ。」
「・・・なんとなく、分かった。
こいつ、アホだな。」
ソウビはむっつりと言うと、くるりと人に変化して、そこへ胡坐をかいた。
妖猫は手に負えないと言うように大袈裟な仕草で首を振った。
「こともあろうに、我輩をアホ呼ばわりとは。
昨日から、ミスターオゥノゥのところやら、オトドのところやら、忙しく渡り歩いてきたというのに。
そニョ我輩に、アホだと?」
心外そうにぶつぶつ言ったものの、妖猫はそれ以上は争うつもりはないようだった。
「いい知らせと悪い知らせ、どっちから聞きたいニャ?」
気を取り直すように、妖猫は枯野に尋ねた。
「じゃあ、悪い知らせから。」
枯野の答えに頷くと、妖猫は話し始めた。
「セイレーンの琴の存在は、大王の術師たちも、昔から知っていたニャ。
霊力の高い琴を利用しようと、あれこれ画策もしたニャ。
ただ、琴の利用価値については、いまいち、よく分かっていニャかったニャ。
そのうえ、琴を弾けるのはたったひとりのセイレーンだけ。
そのセイレーンもニャくニャってしまった。
そニョ辺りで、術師たちは、琴に対する興味は、いったん、ニャくニャっていたニョニャ。
その琴が再び、見つかったニャ。
おまけにセイレーンの血を引く息子までいたニャ。
ただ、そのセイレーンの息子は、妖狐族とのハーフニャ。
そこで、術師たちの意見は真っ二つに分かれたニャ。
妖狐族にいうことを聞かせるニャんてどだい無理と、諦めた術師のほうが大半ニャ。
けど、たとえ妖狐族でも、いうことを聞かせてみせようと言う術師も、ニャん人かはいたニョニャ。
ところがところが。
琴を弾ける人間がいるらしい。
最近になって、そんな情報が入ったニャ。
それは、どこかのはニャまちの芸妓だと。
人間の娘とニャれば、妖狐族よりよほど扱いやすい。
というわけで、やつら、その娘を探しているニャ。」
「それって・・・」
名前を口走りそうになった枯野の口を、ぎゅっとソウビの手が塞いだ。
ソウビは油断ない目を周囲に配りながら、枯野の耳元で言った。
「迂闊に名前なんか言うんじゃない。
どこの誰が聞いているか分からないだろ?
こいつだって、信用していいものかどうかも。」
ちらりと視線だけで、妖猫を指す。
ソウビの鋭い目に、妖猫は小さくため息を吐いてみせた。
「我輩ニャら、信用していただいて結構ニャ。
その方のことも、我輩は知っているけれど、それを奴らに教えるつもりはニャい。
だいたい、教えるつもりだったら、坊ちゃんにこんなこと知らせたりしニャいニャ。」
憤慨したように、ぴん、と髭をしごいてから、続けた。
「そやつらは、我輩の朋輩とは敵対関係にあるニャ。
おニャじ、大王に使える術師でも、いろいろ複雑ニャ。
けれど、友だちの敵を助けるほど、我輩もお人好しじゃあニャい。」
「彼は、信用できると思います。」
枯野もソウビにそう言った。
ソウビは、ふん、と鼻を鳴らすと、慎重に言葉を選びながら妖猫に尋ねた。
「そいつらは、あいつのことには感づいているのか?
それとも、あいつがどこの誰だか、まだ皆目分からないような状況か?」
「ソイツコイツアイツドイツ。
この国の言葉は難しいニャあ。」
妖猫は節をつけて歌うように言った。
「くそっ。
どう言えばいいんだ・・・」
頭を抱えたソウビに、妖猫はにやりと微笑んだ。
「けど、我輩、ちゃんと分かっておりますニャ。」
「なら、さっさと続きを言え。」
「はいはい。まったくせっかちだニャあ。」
妖猫は嘆くように言ってから答えた。
「おそらくは、その娘がどこの誰か、奴らも特定しているニャ。
ただ、やつらは琴を見うしニャったニャ。
だから、今のところは、娘に手出しは控えている状況ニャ。
琴がニャければ、どうしようもニャいからニャ。」
「俺が琴を持ち出したことは、知られてない?」
「いんや。それは知られているニャ。
けど、坊ちゃんは、一度、行方不明にニャったニャ。
まあ、それは我輩のお陰だけれどもニャあ。」
妖猫は得意げに胸をそらせる。
「お陰ってのはそういうところで使うもんじゃない。
お前さんの仕業、と言うんだ。そういうときは。」
ソウビはむっつりと口を挟む。
妖猫は素知らぬ顔をして、先を続けた。
「奴らは坊ちゃんが琴を持っていると思っているニャ。
そして、いまだに坊ちゃんの消息は掴めていニャいニャ。
けどまあ、それも時間の問題だろうけどニャあ。」
枯野は物も言わずにすっと立とうとした。
けれど、ソウビはその帯をぎゅっと握っていて、もう一度座らせた。
「そう先走るな。
今のは悪い知らせのほうだ。
もうひとつ、いい知らせってのを聞いてから動くとしようや。」
ソウビに言われて、枯野は渋々座り直した。
妖猫は、にゃあ、と一声鳴いてから、続けた。
「じゃあ、いい知らせのほうニャ。
坊ちゃんが昨日調べてほしいとおっしゃった札のことニャ。
その札は、大昔の裏師の作ったもニョニャ。
貼り付けておくと、痛みや苦しみ、怒りや悲しみといった、負の感情を増幅するニャ。」
「なんて酷いことを。
傷の痛みや傷つけられた怒りを増幅して使鬼にしたってことですか?」
枯野が眉を顰める。
妖猫も、気の毒そうに目を閉じて頷いた。
「使鬼を作るときにはよく使われる方法ニャ。
殺される恐怖はより強力ニャ力を引きだすニャ。
しかし、これは、酷いやり方だと、我輩も思うニャ。」
「琴の音は、その怒りや悲しみを慰めるのかもしれんな・・・」
ソウビも辛そうに呟いた。
「憎い使鬼ですけど、怪物もまた、被害者なのかもしれません・・・」
枯野は悔しそうに唇をかんだ。
「お優しい坊ちゃんニャ。
そんニャ坊ちゃんに、朗報ニャ。
これは、その札の効果を打ち消す効果のある札ニャ。
大急ぎで、ミスターオゥノゥに作ってもらったニャ。」
妖猫は、懐から一枚の札を取り出した。
「今ある札に、この札を合わせるニャ。
そうすると、札同士、互いの効果を打ち消し合い、消滅するニャ。
使鬼でニャくニャれば、瘴気も出さニャい、ただのでっかい蛸にニャるニャ。
あとは煮るなり焼くなり、好きにするニャ。」
枯野は札を受け取って大事に懐にしまった。
「とにかく、使鬼への対策に光が見えたのは有難い。
けど、今はまず、一度、花街に戻ろうと思います。」
枯野はソウビを見て言った。
「どこかへ行くニョか?
ニャら、ウサギ穴を使うといいニャ。」
そんな枯野に、横から妖猫は言った。
「ウサギ穴のことは、この国じゃ、我輩とミスターオゥノゥしか知らニャいニャ。
奴らの目に止まらず移動するにはもってこいニャ。」
「それは有難い。」
枯野は妖猫の提案に飛びついた。
「あれなら一瞬であの方をここに連れてこられます。
今すぐ、お願いしたい。」
けれど、それには、妖猫は顔をしかめて首を振った。
「坊ちゃんが使うニョは、問題ニャい。
けど、人間に使わせるニョはやめた方がいいニャ。
あニョ方、ってのは、ただの人間ニャ?
ただの人間に、ウサギ穴は危険ニャ。
人間は、弱い生き物ニャ。
驚いたり怖がったりした拍子に、思ってもみニャいところへ落ちるニョがおちニャ。」
「人間には、危険なんですか?」
「我輩ニャら、大事な人間にはやらせニャい。」
きっぱりと宣言されて、枯野はあからさまに落胆した顔になった。
けれども、すぐに思い直したように顔を上げた。
「片道だけでも、ウサギ穴を使えれば、時間は短縮できます。
なにより、傍にいれば、俺が守ってあげられる。
こちらへ来るときには、俺の背に乗せてくればいいのだし。」
それには妖猫もすぐさま同意した。
「ああ、それはいいかもしれニャいニャ。
そうか、背にニョせられるニャら、もしかしたら、ウサギ穴もいけるかも・・・」
そこへソウビが割り込んだ。
「それって、お前さんが連れて行かれたっていうあの穴かい?」
「はい。とても便利なもので。
うんと遠くの場所でも、すぐに辿り着けるんです。
ペロ殿。今から俺を、連れて行ってもらえませんか?」
ふむ、と妖猫は鷹揚に頷いた。
「連れて行って差し上げても構わニャいけれども。
坊ちゃんニャら、もう我輩なしでも、使えるんじゃニャいかニャ。」
妖猫は髭をしごいてにっこり微笑んだ。
枯野は驚いて聞き直した。
「あれって、誰でも使えるものなんですか?」
「少しコツを掴めば、誰でも使えるニャ。
坊ちゃんはもう十分に、コツを掴んでいるニャ。」
「けど、あの扉を開くにはなにやら棒を振り回して・・・」
「ああ。あれは我輩が自分用にカスタマイズした方法ニャ。
一般的には、こうするニャ。」
妖猫は立ち上がると、かかとを揃えて背中を真っ直ぐに伸ばした。
「いいかニャ?
こんなふうにかかとを揃えて・・・つま先を三回、地面に打ち付ける。
はい、とんとんとん。」
枯野とソウビの目の前で、妖猫の姿は一回掻き消え、また現れた。
「ほら、やってみるニャ。」
妖猫に促されて、枯野はやってみることにした。
「こう、かかとを揃えて・・・とん、とん、とん・・・あれ?」
「もちょっと早くニャ。こう、とんとんとん。」
「とんとんとん。」
すとん。
何の前触れもなく、枯野は暗闇のなかに落ちていた。
闇のなかに、妖猫のにっこり顔が浮かび上がった。
「上手上手ニャ。
やっぱり坊ちゃんは筋がいいニャ。
それじゃあ、我輩、次の約束があるニョで、そろそろ失礼しますニャ。」
来るときも突然なら、去るときもいつも突然だ。
妖猫は手を振って、あっという間にどこかへ去って行ってしまった。
ウサギ穴から枯野が戻ると、ソウビは突然消えた二人を探してきょろきょろしていた。
「驚かしてすみません、ソウビさ・・・。
けど、俺、今すぐ、あの方を迎えに行きたいと思います。」
「え?そんなにすぐに?」
ソウビは驚いたけれど、へっ、と笑って腰を上げた。
「俺も連れて行け、枯野。」
「え?ソウビさ・・・も?」
「俺も人間じゃないしね。大丈夫だろ?」
「それは・・・問題ないと思いますけど。」
ソウビはにやりと笑って、枯野の肩に腕を乗せた。
「そんじゃいっちょ朝飯前に、一仕事、しますかね。」
「あ、はい。」
枯野は妖猫に教わった通りに、ウサギ穴を開いた。




