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舟で待っていた京とソウビは、もうずっと、枯野の姿を見つけようと、海面を監視していた。
人魚になった枯野は、呼吸のために浮上する必要はない。
そう分かっていても、これほど長い時間、潜ったままなのはどうにも気にかかる。
不安な気持ちに心が侵されていくのを堪えながら、ふたりにできるのはただ待つことだけだった。
それにしても、遅すぎる。
もうとっくに日も高く上っている。
少しばかり妖力の回復したソウビは、もう一度、術を使った。
もしかしたら、海の上からでも、何か見つけられるかもしれないと思ったからだ。
しかし、海の上からは、特に何も見つけられなかった。
ソウビの妖力は長くはもたず、術は、朝のときよりももっと短い時間しか続かなかった。
力を使い果たしたソウビは、またもや舟のなかでへたり込んだ。
瘴毒に満ちた海の底、ひとり探索をしている枯野のために、なにかしてやりたかった。
けれど、この広い海に揺れる小さな舟の上にいて、できることはなにもなかった。
ひどく穏やかな海だった。
この海の底に怪物が封印されているとはとても思えないほどの、穏やかさだった。
その静けさの陰で、不穏なものは進行し続けている。
一刻も早く、何か、手を打たなければならないはずなのに、たった今、できることはなにもない。
ただ気持ちばかり焦るのにじっと耐えるしかなかった。
突然、大きな波が起こった。
足元から吹き上げるような波に、小さな舟はひどく揺れた。
ソウビは必死になって舟の縁にしがみついた。
京はその状況にも落ち着いて、舟をひっくり返されないように操った。
そんな波がもう一度起きた後。
水面に浮かんできた枯野を見つけたのは京だった。
京は急いで枯野のほうへと舟を寄せた。
枯野は気を失っていた。
京とソウビはふたりがかりで、なんとか舟の上に枯野を引っ張り上げた。
水から上がった途端、枯野の姿は人の姿に戻り、それから、狐の姿へと変化した。
狐になった枯野は、気を失ったまま、かはっ、と血を吐いた。
それは、瘴毒にからだの内側まで浸食されている証だった。
ソウビはすぐさま、妖力を全開にして、浄化の術を使った。
既にソウビの妖力はほとんど残っていなかった。
それは、下手をすれば、ソウビの命にすら関わることだった。
ただ、そのときのソウビは、そんなことはまったく考えなかった。
とにかく、枯野の命を救いたい、その一心だった。
「・・・もうこれで、だいじょうぶ、だ・・・」
枯野の浄化にありったけの力を使い果たしたソウビは、それだけ言い残して気を失った。
枯野は、さっきの苦しそうな状態からはずっとましになって、すやすやと眠っていた。
ソウビの息遣いも落ち着いていて、ただ、疲れ果てて眠っているように見えた。
京はふたりを寝かせたまま、舟を浜へと戻した。
浜に着くと、海人たちに手伝ってもらって、ふたりを社へと運び込んだ。
ふたりはそのまま昏々と眠り続けた。
ただ、どちらも、命に別条はないようだった。
今は寝かせておくほかに、できることはなにもない。
海人たちは、京を残して、皆それぞれの仕事へと戻っていく。
京も、夜になる前にいろいろと必要なものを取ってこようと、祖父母の家に一度戻っていった。
何もない社の部屋で、ふたりは静かに眠り続けていた。
夜の帳の降りるころになって、先に目を覚ましたのは枯野だった。
よく眠ったおかげか、からだもずいぶん回復していた。
起き上がった枯野は、隣で寝かされているソウビに気づいた。
ソウビは、ただでさえ色白なのに、いっそう青白い顔になって眠っていた。
枯野は慌ててソウビに近づくと、口元に鼻先を寄せて息を確かめた。
深く眠っていたけれど、ソウビはちゃんと息をしていた。
手足に瘴毒の痕もない。
どうやら、妖力を使い果たして気を失っているらしい。
枯野はほっとため息を吐くと、ぶるっと身震いをひとつして、人に変化した。
枕元に置いてあった着物で、さっさと身支度をする。
枯野のからだのあちこちには、瘴毒の痣がまだ少し残っていた。
けれどそれには構わずに、枯野はソウビの額に自分の額を押し当てた。
もしもソウビが起きていたら、この体勢は絶対に嫌がるだろうな、とちらりと思ったけれど。
枯野は、そのまま、自分の力を分けるようにソウビに送り込んだ。
力が戻ると、ゆっくりとソウビは目を開いた。
枯野は慌ててからだを起こすと素知らぬ顔をして、ソウビに微笑みかけた。
「気分は如何ですか?
珍しいですね。ソウビさ・・・が、ここまで妖力を使い果たすなんて。」
ぼんやり枯野を見返していたソウビの瞳に、むっとした色が浮かんだ。
「お前さんこそ、浄化もせずに、あんなになるまで、何をやってたんだ。」
叱られた枯野は、気まずそうに視線を逸らせた。
「すいません。
まだ、大丈夫かと思ってたら、蛸の脚に絡めとられて・・・」
「は?」
眉をぴくりとさせたソウビは、膝立ちで枯野に詰め寄ると、その胸元をぐいと掴んだ。
「これは前から思ってたんだけどね。
お前さん、自分の体力を、ちょいと過信しすぎなんじゃないかい?」
「いやあ、でも、いつもなんとかなってますし・・・」
無抵抗を示すように両手を上げる枯野を、ソウビは下からじっと睨み据えた。
「確かにお前さんは化け物みたいな体力を持っているけどね。
それだって、無尽蔵じゃない。
これまで生きてこられたのは、たまたま、運がよかっただけだ。
けど、ずっとそんなことをしていたら、いつか、死ぬよ?」
「いやあ、まあ、それは、妖狐のお役目なんてものは、そもそも、そういうものでは・・・?」
「それは違う。
確かに、お役目に危険が伴うのは仕方のないことだ。
予想のつかない状況に陥って、手の打ちようのないことも、ないとは言わない。
けど、予想できる危険は、事前に予想して、それに対する手は打っておくべきだ。
お前さん、性格は温厚なのに、お役目に対するときには、ちと強引過ぎるよね?
なんたってそう、先を急ぐ?」
ソウビは視線を下ろして少し何か考え込むようにしてから、もう一度、枯野をじっと見つめた。
「お前さんは、まだ仔狐だったころから、お役目を果たしていたそうだね?
師にもつかず、お役目についてろくに習わないうちから、実践に出ていた、と。
それも、いつも身の丈に合わないような難しいお役目ばかり選んでいた、って。
お前さんがそんなに強いのは、そうやって自分を追い込んで、実戦で鍛えてきたからだろう。
それは、お前さんの立派な歴史だ。誇ったっていいと思うよ。
そういうお前さんの存在は、郷にとっても有難い面もあった。
だから、郷も、そんなお前さんのことをずっと放置していたんだろう。
けどね?今はもう、お前さんは俺の相棒なんだ。前みたいな一匹狼じゃねえ。
だったら、その戦い方も、もう少し改めてほしい。」
枯野の瞳をじっと覗き込むソウビの目から怒りが消えて、ほんの少し頼りな気に揺れた。
「少なくとも、ここにひとり、お前さんのことを心配している奴がいる。
どこにいても、それだけは、忘れないでほしい。
お前さんのからだが傷ついたり苦しんだりすれば、俺も、痛かったり苦しかったりするんだ。」
枯野はわずかに目を見開いてから、ソウビの瞳に笑いかけた。
「なんか、すっごく、もったいない、です。
ソウビさ・・・が、俺の相棒だなんて。」
「なにがもったいないだ。
俺が、お前さんを、俺の相棒にしたんだ。」
ふん、とソウビは鼻を鳴らすと、枯野の胸から手を離した。
「もっとも、そう思ってんのは、俺のほうだけなのかもしれないけどね。」
つん、とそっぽを向いたソウビに、枯野は困ったように言った。
「俺も、ソウビさ・・・が痛かったり苦しかったりすれば、痛みや苦しみを感じる、と思います。
・・・さっきは、青い顔をして眠っているソウビさ・・・を見て、ひどく驚きました。
思わず、息を確かめてしまいましたよ・・・」
「ふん。妖力を使い果たすなんて無様な真似をしたのは、ずいぶん久しぶりだ。
用意周到、臨機応変が俺の座右の銘なのに。
お前さんといるとこの俺が、調子を狂わされっぱなしだ。」
ソウビは、諦めたようなため息をひとつ吐いてから、挑戦的な瞳でぐいと枯野に迫った。
「なのにね、こんなふうに振り回されてるのもなんか楽しいとか、どこかで思っちまってるんだよね。
なんだか、悪い男に引っかかった女みたいだ。
まったく、質の悪い男だよ、お前さんは。」
枯野は逃げるようにからだを引きながら、愛想笑いを浮かべた。
「それは、どうも・・・すみません。
っと、俺、どうしたらいいんでしょうか?」
「どうも。
もう少し自分を大事にしろとか、頭を使えとか、言いたいことはあるけれども。」
ソウビはにやりと笑みを浮かべる。
「要は適材適所。
お前さんができないことは、俺がやりゃあいいってこった。
それこそが、相棒の値打ちってもんだろ?」
「・・・はあ。」
「まずはさ、そのからだの痣、治しておこうか。
お前さん、妖力を俺に送り込んだだろう?」
「・・・このくらいなら、放っておいても、そのうち消えますし・・・」
「だからね、そういうの、俺は嫌なんだ。
いいから、つべこべ言わずに、治させろ。」
ソウビは有無を言わさずに枯野に浄化をかけた。
けれど、妖力はまだ十分ではなくて、ソウビは辛さを堪えて術を使った。
「くそっ。
お前さんは、妖力の制御は下手くそなくせに、浄化と治癒だけは上手いんだよね。
お前さんをそんなふうに仕込んだのは、由良殿なんだろうな。
流石、お父上だよ。」
枯野は困った顔をしつつも、ソウビにされるがままになっていた。
「他の術は父も諦めてましたけど。
これだけは、何があってもできるまでやれ、って。
あの優しい父を、この修行のときだけは、怖い、って思ってました。
けど、後になって、父がそうしてくれたことに、感謝しましたよ。」
「そうしてもらってなければ、俺と出会うこともなかっただろうからね。
俺も、由良殿には感謝する。」
なんとか浄化が完了して、ソウビは、ふうと息を吐いた。
その瞬間、くらりと倒れ込みそうになったのを、枯野が慌てて抱き留めた。
「・・・う。
まいったね。
俺はまだ、休息が足りていないみたいだ。
もう少し、寝る。」
ソウビはどこか拗ねたように、枯野に背中を向けて、寝具に横になった。
「お前さんも、もう少し寝ておいたらどうだい?
妖力の回復には睡眠が一番だよ。」
ソウビに言われて、枯野も素直に横になった。




