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枯野と琴  作者: 村野夜市
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日の光にきらきらと輝く海を枯野は覗き込んだ。


「このくらいなら、行けます。」


ソウビは渋い顔をしたけれど、否とは言わなかった。


枯野は素早く着物を脱ぐと、水飛沫も立てずにつるりと海に滑り込んだ。

水に入った途端、その姿は人魚へと変わっていた。


「へえ。それがお前さんのもうひとつの姿かい?」


水のなかで光る鱗に、ソウビは目を細めた。


「綺麗っすねえ。」


京も思わず感嘆のため息を漏らした。


枯野はちらりとだけ笑って、そのまま海の底へと潜っていった。


歌と琴の力で封じたものの、瘴毒のすべてが浄化できているわけではない。

ぴしぴしとからだに当たる瘴毒は、少しずつだけれど、枯野を傷つけていく。


あまり長くはもたないな。


いちいち浄化する時間も惜しい。

枯野は、受けた傷はそのままにして、先を急いだ。


なずの木の森は、枯野の行く手を遮るように揺らめいていた。

なんだか自分自身が檻のなかに閉じ込められているような錯覚を覚えつつも、進んでいく。

瘴毒に侵されていなければ、おそらくは魚たちの楽園のような場所だろう。

けれど、今はそこは、鬱蒼とした暗黒の森だった。


道を覚えるのはわりに得意だ。

そんな枯野でも、なずの木の森には手を焼いた。

森は常に揺らめき、かたちを変える。

うっかりすると、どちらから来たのかさえ分からなくなってしまいそうだ。


大きな茂みを回り込んだときだった。

どぶん、と大きな瘴毒の塊に、頭から突っ込んでしまった。

まずい、と思ったときには、もう遅かった。

流石の枯野も、その毒気に意識が遠くなった。

ゆっくりとからだが海の底に沈んでいった。


日の光も届かない暗い海の底で、枯野は気を失って倒れていた。

速い潮の流れに押し流されるけれど、それをやんわりとなずの木たちが受け止めた。

どれだけの間、そうしていたのかは分からない。

ふと、海の底を伝わる琴の音に、枯野は目を覚ました。


それはとても微かな、かさかさした音だった。

途切れ途切れに、ぽつり、ぽつり、と聞こえてくる。

琴の音に混じって、微かに歌も聞こえてきた。


歌に合わせて、森の木々はゆらゆらと揺れた。

揺れながら辺りに満ちる瘴毒を浄化していく。

枯野の周囲にあった木々は、そっと枯野のからだを撫でた。

すると、枯野がからだに受けていた瘴毒も、少しずつ和らげられていった。


それでも、辺りには、森が浄化しきれないほどの瘴毒が満ち満ちていた。

浄化しても浄化しても、後から後からまたわいてくる。

その源を断たない限り、やがては、森ごと瘴毒に侵されてしまう。

それも時間の問題のように思われた。


動けるようになった枯野は、ゆっくりとからだを起こした。

そのときだった。

なずの木の森の上、遥か彼方の海面から、光の筋が差し込んできた。

光は森の中心で弾け、一瞬、辺りは極彩色の色に染まった。


ソウビさんの術か。


さっき妖力を使い果たしてへたり込んでいたソウビが、もう一度、同じことをやってくれたらしい。

枯野は心のなかでソウビに感謝した。


眩しい光に染まる森のなかに、一か所だけ、まったく光を受け入れず暗黒のままの場所がある。

その場所へむかって、一直線に枯野は進んだ。


ソウビの術はそう長くは続かない。

それでもさっき確かに見えた暗黒の位置を、枯野はしっかりと頭に刻んでいた。


かじきのように進む枯野に、なずの木たちは力を貸すように道を開く。

幾重にも重なる紗の帳の向こう側あったのは、暗黒の巨大な岩だった。


巨大な岩のてっぺんに、一本の銛が突き立っていた。

一枚の札が、その銛によって、岩に縫い留められていた。

銛の突き立った場所から、どくどくと瘴毒が溢れ出している。

岩の周りのなずの木は、瘴毒に侵されて、黒く変色し、石筍のように固くなっていた。


枯野は銛に近づくと、手をかけて、引き抜こうとした。

けれど枯野の力でも、その銛を引き抜くことは叶わなかった。

もしかしたら、この札のせいかもしれない。

枯野は札をよく見ようとした。

すると、いきなり、ご、ご、ご、と巨大な岩は動き出した。


これは、岩じゃない!


ゆっくりと身動ぎをするように動いた岩の下から現れたのは、巨大は吸盤だった。

これこそ、話しに聞いていた使鬼。

トモノの島を襲った怪物蛸だった。


それは、とても、生き物とは思えないほどの大きさだった。

巨大な鯨や深海の大烏賊さえ、赤子に思えるほどだった。

なにかに例えるなら、小さな浮島ほどもあるだろうか。


怪物蛸は、一度だけ身動ぎをした後、また動かなくなった。

けれど、辺りにはいっそう濃い瘴毒がまき散らされていた。

瘴毒を吸い込んだ胸が、ずきずきと痛む。

それでも、枯野は、怪物に縫い留められている札を、もう一度確かめようとした。


しかし、潮に揺らされる札を確かめるのは、なかなかに至難の技だった。

そこに描かれているのは、見たこともない文様だった。

もう少し、呪符の修行をちゃんとしておくんだった、と枯野は後悔した。

蛸を使鬼にするための呪なのだろうということだけは、予測はつくけれども。

それ以外のことは、なにひとつ分からない。

呪いの種類や、解呪の方法も、皆目、見当がつかなかった。


この札を持って帰れないものかと枯野は思った。

ソウビなら、この札に描いてあることも分かるかもしれない。

札の端を持って、力任せに引いてみる。

しかし札は、引き千切るどころか、端を破ることすらできなかった。


力任せにえいえいと引っ張っていると、また、蛸が、ご、ご、ご、と身動ぎをした。

それに合わせて、銛の突き立ったところから、どくどくと瘴毒が溢れ出した。

まずい、と枯野は札から手を離した。


その枯野の後ろに、巨大な触手が持ち上がった。

それは一瞬で枯野のからだを絡め取り、力任せに海の底へと叩きつけた。


もうもうと立ち上る瘴毒のなかを、枯野は、触手から逃れようともがいていた。

完全に、自分の油断だった。

まさか、あれほど素早く、怪物蛸が動くとは思わなかった。


逃れようともがけばもがくほど、怪物蛸の脚は枯野のからだを締め付けてくる。

瘴毒を吸い込み続けた胸の痛みも、焼けつくようだった。

気が遠くなりかけたとき、どこからか声が聞こえた。


―― もうすぐ、助けがくるよ、枯野。

    あと少し、もう少し、堪えて、頑張っておくれ・・・


そうして、また微かな琴の音が、辺りに響き渡った。


その途端、蛸の脚から、すっと力が抜けていった。

枯野はありったけの力で、その脚から抜け出した。

あとはもう、何も考えず、水面を目指して浮上していった。


なんとか水面に辿り着いた枯野は、そこで力尽きて、気を失った。

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