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海の瘴毒は、この間よりももっと濃くなっていた。
瘴気を見ることはできない京にも、本能的な不安を感じさせるほどだった。
舳先に座った枯野は、ゆっくりと琴を鳴らした。
一粒一粒の音を、なにかの曲というわけでもなく、気の向くまま、ただ弦を弾く。
けれど、不思議なことに、それはなにかの音楽のようにも聞こえた。
琴の音が響くと、そのあたりから、すっと、瘴毒が引く。
けれど、舟が通り抜けると、瘴毒はまた、どこからともなくわいてきて、帰る道を塞いでしまう。
鏡のように凪いだ海の上を、滑るように舟は進んだ。
京の舟を操る技術は、かなり確からしい。
舟の苦手なソウビも、京の操る舟ならば、それほど不安は感じずに乗っていられた。
舟底の板一枚下のの海では、毒々しい瘴毒が、渦を巻くように漂っていた。
進むにつれて、それはより一層、濃くなっていった。
直接触れはしなくとも、濃い瘴毒の漂うなかにいると、どんよりと気持ちも沈み込んでいった。
「そういや、昨夜のソウビのアニキ、なかなかさまになってましたねえ。」
皆の気を引き立てるように、わざと明るく京が言った。
「ああ、あれか。」
面倒臭そうに相槌を打つソウビに、京は重ねて尋ねた。
「なんか、すっげえ難しそうなこと言ってましたけど。
あれはどういう意味なんっすか?」
「痛いの痛いの飛んでいけ。」
「は?」
「痛いの痛いの飛んでいけ。」
同じことをソウビは繰り返してから、仕方ねえなあ、と説明した。
「この世の禍は、陸の神たちがよってたかって木っ端微塵に砕いてしまう。
砕いた禍は、川の神が海へ流し、海の神は海の底深くに飲み込んでしまう。
飲み込んだ禍を、風の神が地の底へ吹き飛ばし、地の底の神は悉く消滅させてしまう。
そうやって禍は根本から何もかも、失くしてしまいますように。
つまり、痛いの痛いの飛んでいけ、だ。」
「・・・なるほど。」
京は分かったような分からないような顔をして、とりあえず頷いた。
「この使鬼は、海の底深くで捉えられたまま、ずっとどこへも行けずにいるんですね。」
舳先に座った枯野がぽつりと言った。
「ああ、そうだ。
いい加減、根の国に送ってやらないとな。」
ソウビもひとつ頷いて答えた。
「この辺で止めてもらおうか。」
しばらく行ったところで、ソウビは京に舟を止めさせた。
「お前さん方、落ちるなよ。」
ソウビはそう注意を促してから、すっと、舟の上に立った。
ソウビの絶妙な平衡感覚は、舟をぴたりと止めたまま、まったく揺らさなかった。
祈るように両手を合わせると、ソウビは手で印を結んだ。
妖力を練り込みながら、術を構築する。
やがて完成した術を放つと、辺り一帯の海が一斉に輝いた。
「あっちだ。」
海は、瘴毒の濃さを示すように、色分けされて見えていた。
その一番濃い色を、ソウビは真っ直ぐに指さした。
すぐさま、京はその一点に向けて舟を漕ぐ。
ソウビのつけた色は、舟が辿り着くや否や、嘘のように消え去った。
「・・・ふう・・・」
妖力の消耗したソウビは、舟に座り直すと、疲れたように縁にもたれた。
「あとは、任せた。」
頷いた枯野は、琴を手に取った。
「京殿。耳を塞いでください。」
「え?あ、はい。」
京が耳を塞ぐのを確認すると、枯野は、琴を弾きながら歌った。
ゆらのとを、の歌を繰り返し何度も歌う。
枯野の声は、凪いだ海の上を、つるつると滑っていく。
どこからか風が吹き、鏡のような海面に、ざわざわと波が立った。
枯野は気にせずに歌い続けた。
海の波は、次第に大きくなって、白い波頭が立ち始めた。
舟も、ゆらゆらと激しく揺すぶられた。
たまらずにソウビは舟の縁を掴む。
耳を塞いだまま、京は伺うように枯野を見つめた。
ざわざわと泡立つ海のなか、果ての見えないなずの木の森が、一斉になびいていた。
森は、なにかを隠して、護っていた。
枯野の歌は、その森に、強い力を吹き込んでいるようだった。
やがて、ゆっくりと、舟の揺れは収まっていった。
板一枚下の海は、まだざわりざわりと揺れていたけれど、それはこちらまでは伝わってこなかった。
「とりあえず、封印の強化はできたようです。」
そのとき、東の山の端に、ゆっくりと上ってきた朝日から、光の筋が伸びてきた。
光は枯野たちの舟を貫いて、むこうの島まで、真っ直ぐに届いていた。
海の上に、きらきらと、光の道ができる。
それは、ユラの海の上にできた、陸と島とを繋ぐ、一筋の道だった。
「この上を歩いて行けそうだな。」
光の道を見て、ソウビが言った。
「島の海人たちは、昔、この道を辿って、海を渡ったそうっす。」
京は朝日にむかって祈るように手を叩いた。




