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夜に祓えの祈祷を行うから、病人は全員、村のお社に集まるように。
そんな報せが村中を駆け巡る。
やっぱり、お狐様だ。
お狐様は頼りになる。
歓喜の声は村中から沸き起こった。
枯野たち三人は、一足早く社に来て、その夜の祈祷祭の準備に追われていた。
やることは山のようにある。
延々続く単純作業をしながら、三人は離れていた間のことをそれぞれ話した。
「はあ?
それでお前さん、半月かけて、延々、海を泳いで帰ってきたってのか?」
燈明の火口を作りながら、枯野の話しを聞いていたソウビは、素っ頓狂な声を上げた。
「お前さんって、つくづく、脳みそまで筋肉でできてたんだねえ。」
首を振りながらしみじみ言う。
枯野は、少しばかり顔を赤くして、うつむいた。
「いやそんな、いくら俺でも、脳みそのなかまで鍛えるなんて、できませんよ・・・」
ソウビは呆れた顔をして枯野を見た。
「なに照れてんだ。
褒めてねえ。」
くくくくくっ、と京が笑い出す。
ソウビはついつい、説教口調になる。
「いくらなんでも、術を使うとか。
俺に連絡を取るとか。
思いつかなかったのか?」
「・・・はあ。そのときには。
とにかく急いで帰ろう、と。
連絡なんて、どうやって取ったらいいのかも、分かりませんでしたし。」
「念話があるだろ?」
「・・・俺、念話って、やったこと、ない、です。」
「って、お前さん、使い魔たちとどうやって話してんだ?」
「ああ、それは、椿が勝手に読み取ってくれて・・・」
「つくづく。使い魔が有能すぎると、ダメになるやつの見本みたいだな。」
ソウビにずけずけ言われて、たはは、と枯野は情けない笑顔になった。
見かねた京が、まあまあ、と割って入る。
「しっかしすごいっすね。
半月の間、不眠不休で泳ぎ続けてた、って。」
「不眠不休ではないけれど。
眠りながらも、泳ぎ続けたんだ。
食事も、泳ぎながら摂ってた。」
「なんか、魚みたいっすね。」
「魚、に近いのかな?
とにかく、半月もあったから、海はたっぷり堪能した。」
どこか満足げな枯野に、京とソウビは顔を見合わせて苦笑した。
「けど、よかったな。親戚が見つかって。」
ソウビはしみじみと言った。
「お前さんも、これで天涯孤独じゃなくなったってわけだ。」
「俺は、前から天涯孤独じゃありませんよ。」
枯野はソウビと京の顔を順番に見た。
「こんなにいいアニキと弟がいるんだから。」
ソウビは一瞬絶句してから、にやりと笑った。
「おうそうかい。
お前さん、本当にそう思うんなら、これから俺のことは、ちゃんとアニキと呼べ。
ソウビさ、はいい加減禁止だからな。」
枯野は否とも応とも答えず、ただ、首を竦めただけだった。
細かい手仕事のあとは、揃って、境内や参道の整備にとりかかった。
「燈明の数は、こんなもんっすかね?」
京は物置から引っ張り出した燈明を手押し車に積み上げながら言った。
「参道に燈明を灯すなんて、正月か祭りみたいっす。」
なんだかうきうきと楽しそうにも見える。
「祭礼に使ったばかりで、掃除のいらなかったのが助かりましたね。」
枯野は積み上げたものが崩れないように抑えていた。
「手の抜けるところはせいぜい抜いておかねえと、夜に間に合わねえからな。」
ソウビは腕組みをして、ただ口だけ出している。
「しっかし、お祭りの準備、自分でやる神様なんて、前代未聞っすよね?」
「仕方ねえだろ。
村の若い者はみぃんな瘴毒を食らって寝込んじまったからな。
残った年寄りも看病に追われてやがるし。
今、この村で、動けるのは俺たちだけだ。」
山のように燈明を積み上げた手押し車は、枯野が易々と引いていく。
それを参道の両脇にひとつずつ設置するのは、京とソウビだ。
「・・・それにしても、幻術って、なんか、一個一個手作業なんっすね?」
「狐火ひとつ灯すにも、妖力は使うんだ。
節約できるところは、少しでも節約しておかねえと。
いざ、ってときに、妖力切れで肝心な事ができなけりゃ、話しにならねえ。」
ソウビは黙々と燈明を並べながら言った。
「どんなに派手な舞台でも、裏を返せば、地道な手仕事の積み重ねなもんだ。
こういうこと、コツコツ積み上げるってのも、大事なこった。」
なるほど、と頷く枯野を振り返って、ソウビは微かに笑った。
「しかし、肝心なのは、お前さんの浄化術だからな。
術力を増幅して送ってやるのが、この祈祷の肝だ。
けど、受け取る側にも、それを受け取る準備ってものをさせておく。
そうすれば、効果もより高くなるって寸法よ。」
「来るぞ来るぞと待ち構えておけば、知らないうちに来るより効果が出るってことっすか?」
「まあ、そういうこった。」
ソウビは小さく、へへ、と笑った。
「騙しているといえば、騙しているんだが。
人の心持というものは、けっこう、大事なもんよ。
心持次第で、うまくいきも、しくじりもする。
その心持のほうを、俺は担当するってこった。」
「ソウビさ、がいてくれて、よかったです。
俺だけだったら、きっと、黙々と、ひとりずつ、浄化してたと思います。」
「だーかーら、アニキと呼べと言ったろ?」
ソウビはやれやれという顔になった。
そうこうしているうちに夜になり、祈祷を受けるために、村人たちは社へと集まり始めた。
正月のように明々と照らし出された社の景色に、皆目を丸くしてきょろきょろしている。
陰からそれを見ていたソウビは、にやりとほくそ笑んだ。
「よーし、驚いてやがる。しめしめ。」
「なんか、ソウビのアニキ、悪い顔してるっすね。」
「うるせえ。
じゃ、行くぜ?」
ソウビの合図で、三人はそれぞれの持ち場に着いた。
神楽笛の高い音が鳴り響く。
しゃーんと涼し気な鈴の音がする。
ぼっぼっと順に灯りの灯った本殿には、白い衣に身を包むソウビの姿。
ソウビは手に持った鈴を高らかに振り鳴らした。
境内の空気は、一斉に清み渡る。
境内に集まった人々は、我知らず頭を下げて、降り注ぐ鈴の音を受けた。
場を清めたソウビは、厳かに、祝いの文を詠み上げた。
今日この時この場に集いたる者どもの、汚れ禍事、祓い給え、清め給え。
科戸の風の雲を吹き放つ事の如く、霧を吹き払う事の如く。
大船の舳解き放ち、艫解き放ち、大海原に押し放つ事の如く。
彼方の繁木が本を、敏鎌以ちて打ち掃う事の如く。
汚れ禍事、余すことなく、速川の瀬に坐す川の神の、大海原に持出なむ。
此く持出往なば、八潮道の潮の八百会に坐す海の神の、悉く呑みてなむ。
此く呑みてば、息吹戸に坐す風の神の、根の国底の国に吹き放ちてなむ。
此く吹き放ちてば、根の国底の国の神の、さすらい失いてむ。
此くさすらい失いてば、四方に汚れ禍事の一切はあらじ。
さらさらと鈴が鳴る。
灯りを映して、一粒一粒の鈴は、きらきらと光る。
おお、と人々のどよめきが流れた。
ソウビは、横に控えていた枯野に、視線で合図を送った。
ぱららん。
枯野が琴を打ち鳴らすと、人々は一斉に押し黙った。
これがあの伝説に聞く霊験あらたかな琴かと思われるほどの響き。
固唾を呑んで見守る人々の前で、枯野は静かに歌いだした。
「痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。」
・・・・・・。
・・・・・?
・・・、・・・、・・・!
背筋を伸ばして集中しようとしていた人々は、怪訝な顔になる。
いや、まさか、これが祈祷の歌のはずはない。
けれど、どう聞いても、それはやっぱり、痛いの痛いの飛んでいけ。
おまけに、何度も繰り返していらっしゃる。
いやいや、これは真面目なご祈祷なのだから。
笑ったりしてはまずい。
自らをつねったり、身をよじったりして堪えようとするけれど。
ぷ、と誰かが堪えきれずにふきだした。
つられて、何人か、笑い出す。
だめだ笑うな、つられるだろうが。
意識すればするほどに、笑いが込み上げてくる。
ふつふつと零れ始めた笑いは、少しずつ、少しずつ、限界目指して、膨れ上がっていく。
ゆらゆらと笑いを堪える人々の肩が揺れ始める。
「痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。」
なまじ低くてよく響くいい声なのが、余計にいけない。
なんたって、このお方は、大真面目な顔をして、こんな歌を・・・
「痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。
痛いの痛いの飛んでいけ~。」
ぴぃー、ととんでもない音を立てて、神楽笛が鳴った。
と思ったら、ひぃひぃ言って笑いだしたのは、さっきまで笛を吹いていた京だった。
「いやもうこれ、笑わずにいるなんて、無理っすよ?」
それが合図だった。
堪えきれなくなった人々は、堰を切ったように笑い出した。
あははは
だはははは
ぎゃはははは
笑い声は渦を巻くように巻き起こり、村全体を揺るがして響き渡る。
「枯野。今だ。」
ソウビの合図に枯野はひとつ頷くと、歌に浄化の力を送り込む。
すると、それは笑いの波動に何倍も効果を相乗されて、村全体に渦を巻くように拡がっていった。




