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早朝。鏡のように凪いだ海に、むくりとひとつ、まるいものが浮かんだ。
それは素晴らしい速さでみるみる海岸に近づいてきた。
ざばざばとしぶきを落としながら海から上がったのは、人の姿になった枯野だった。
立つのと同時に、下半身も足ひれではなくて、二本の足になっていた。
しかし、ここにきて、少しばかり困った問題があった。
着物をどこかに置いてきてしまったらしい。
枯野の全身には、ところどころに紫色の痣のようなものが浮かんでいた。
これは瘴毒にやられた痕だった。
なんとか避けて、岸に上がったけれど、流されてきた欠片でも、かなりの痛手を受けてしまった。
瘴毒への対応は慣れているけれど、そんな枯野でも、これほど強烈なのは経験したことがなかった。
瘴気の源は、よほどの大物らしい。
放っておくわけにもいくまいが、しかし、今ここで自分ひとりでどうこうできる相手にも思えない。
まずは、ソウビに相談してから、郷に連絡をとるか・・・
そこまで考えてから、枯野は思わずくすりと笑みを漏らした。
すっかり、妖狐の自分に戻っている。
ついさっきまで、足ひれのついた人魚の姿で、海のなかにいたはずなのに。
まあ、いい。余計なことは考えるまい。
枯野はひとつ頭を振ると、全身に妖力を行き渡らせた。
つぃ、つぃ、とからだについた痣が消えていく。
妖術の類は、基本、全部、苦手だ。
ただ、自らのからだの治癒や浄化に関してだけは、嫌というほど、父親から叩き込まれた。
そのおかげで、今もまだ生きていられている、と言っても過言ではない。
浄化の済んだ枯野は、ぶるりとからだをひとふるいして、狐へと姿を変えた。
そうでなくても見晴らしのいい浜に、金色の大きな獣の姿はたいそう目立った。
それでも、素っ裸のまま人の姿をしているよりは、千倍マシだった。
それにしても、砂浜に金色の獣というのも、あまりにも場違いだ。
うっかり人の目に見つかりでもしたら大騒ぎになりそうだ。
枯野は大きなからだをなるべく小さく縮めて、隠れる場所を探して走り出した。
久しぶりの足裏に感じる大地の感触に、かなり、感動する。
海の水を足ひれで蹴って進むのも心地よいけれど。
風を感じて走るのもまた、とても楽しい。
思わず夢中になって駆けていたら、いきなり、すとん、と穴に落ちた。
暗い穴のなかを急降下しながら、ああ、またこれか、と思った。
とりあえず、自分は落ちていない、と想像する。
すると、すぃ、と落下は止まった。
「ペロ殿。どこにおられるのですか?」
暗闇のなか、枯野は大声で呼ばわった。
すると、目の前に、にゃあ、と大きな猫の顔が現れた。
猫は嬉しそうに口を広げて笑った。
「坊ちゃん、おかえりニャさい、だ、ニャ。」
猫の顔はぐるりと一周回転すると、帽子を被って靴を履いた奇妙な猫の姿が現れた。
「我輩、海のニャかは、圏外ニャ。
けど、もしかしてもしかすれば、坊ちゃんは帰ってくるかも知れニャいニャ。
だから、あっちこっちに落とし穴、掘っといたニャ。
うまく嵌ってくれてよかったニャあ。」
・・・うまく嵌った?
思わず聞き返したくなったが、とりあえず、黙っておくことにした。
妖猫はしかつめらしい顔をして、続きを言った。
「もう帰ってこニャいかと心配したニャ。
それが坊ちゃんの選択ニャら、それもまた仕方ニャしニャけれども。
ニャーんとニャく、後味は悪いニャ。」
どことなく面倒臭いその話し方も、ちょっと懐かい。
妖猫は言い終わると、大仰な仕草で帽子を取って、優雅にお辞儀をした。
「お詫びと言ってはニャんニャけど、ニャんニャりとお申し付けくださいニャん。
坊ちゃんのお力にニャりますニャん。」
「お力に、って言われても・・・」
のんのんのん、と妖猫は立てた人差し指を振った。
「今すぐ思いつかニャくても大丈夫ニャ。
必要にニャったら、いつでも呼ぶニャ。」
妖猫は枯野に小さな笛を差し出した。
「これを吹けば、我輩はいつでも参上しますニャ。」
「あ・・・有難う。」
枯野はそう言って笛を咥えた。
それを見て、妖猫は怪訝な顔になった。
「うん?そういえば、ニャんでそんな姿ニャ?
笛、間違って飲み込んでしまうニャ。」
「・・・いや、それは・・・その・・・
今、人の姿になるのは、いろいろとまずくて・・・」
妖猫は鷹揚な様子で、指で髭をしごいた。
「ふふん。いや、お気になさらず、ニャ。
我輩、変化は見慣れております故。
どうぞ遠慮ニャく、やってくれニャ。」
「いや、あの・・・
実は、着物を失くしてしまって・・・」
枯野がきまり悪そうに打ち明けると、妖猫は、にゃあ、と目を丸くした。
「なるほど。セイレーン族の衣は昆布だったニャ。」
「・・・昆布巻き付けて歩くのも、その・・・」
「確かに。それはお困りだろうニャ。
それじゃあ、早速、お役に立ちますニャ。」
妖猫はにっこりすると、懐から取り出した小さな杖をくるくると振り回した。
それから、得意げに、歌うように唱えた。
「ねこがねこんだねころんだ~。」
それを聞いた枯野は、思い切り不審そうな顔になった。
「・・・・・・なんですか?それ?」
のんのんのん、と妖猫はまた指を振った。
「ニャんだあ、知らニャいニョかニャ?
やっぱり、狐さんは、猫族ニョことはそんニャに詳しくはニャいのニャあ。
これは、ミスターオゥノゥに習った、とっておきの呪文、ニャ。
我輩は、この国のこと、ミスターオゥノゥに、たーっぷり習ってきたニャ。
このしゃべり方も、ミスターオゥノゥに習った、この国の猫族の正式なしゃべり方ニャろう?」
えっへん、と妖猫は胸を張る。
そのミスターオゥノゥ、というのは、本当に信用していいのだろうか・・・
ちらりと枯野はそう思ったけれど、とりあえず、黙っておいた。
呪文はともかく、妖術のほうはちゃんと効いた。
「どうかニャ?
ちゃあんと、お国の衣装らしくしておいたニャ。」
そこに現れたのは、都の貴族が着ているような、衣冠束帯の一式だった。
「・・・いや、俺は、もう少し、動きやすそうなののほうが・・・」
むう、と妖猫は口を尖らせた。
「それニャら、ちょっと、待つニャ。
ねこがねこんだねころんだ~。」
呪文と共に衣冠束帯一式は消えて、代わりに現れたのは、歌舞伎役者のような衣装だった。
「・・・・・・いや、できたら、もう少し、目立たない感じで・・・」
枯野が注文をつけると、妖猫は、むうむう、とさっきよりもっと口を尖らせた。
「ニャんニャ。文句の多いやつニャ。
じゃ、これでどうニャ。」
三度目に現れたのは、枯野が普段着にしているような着物だった。
「あ。助かります。んじゃ、着替えますから、ちょっとそっち、向いててくださいね。」
枯野はいそいそと人に変化すると、妖猫の出してくれた着物を着た。
意外なことに、背の高い枯野にも、ちょうどいい丈だった。
きゅっと帯を締めると、着心地もなかなかによかった。
「我輩の魔法はどうニャ?ニャかニャかニャもんニャろ?」
妖猫はこの上なく上機嫌になって言った。
枯野もにっこりと返した。
「あ、はい。有難うございます。
じゃ、お詫びはこれで済んだということで。」
のう、と妖猫は首を振った。
「ニャんニョ、これしき。
我輩、ケチではニャいからニャ。
またニャんかあったら、遠慮ニャく、言うニャ。」
「あ。はい。そのときには。」
枯野は鈴と笛を帯のなかにしっかりとしまい込んだ。
それから、ぺこりと妖猫にむかって頭を下げた。
「おかげさまで、これで、ソウビさ、たちに合流できます。」
妖猫は首を傾げて枯野を見た。
「ソウビさ、というのは、前に一緒にいた妖狐族かにゃ?」
「ああ。そうです。」
「ニャら、その方たちのところに送って差し上げるニャ。」
妖猫は奇妙な姿勢をとると、またあの棒をくるくるくると回し始めた。
「それじゃあ、いくニャ。
しっかり、足を踏ん張るニャ。
ねこがねこんだねころんだ~。」
あまりにも得意げに唱えるのに、枯野は笑いそうになるのをなんとか堪える。
奇妙な呪文はともかく、妖猫の魔法はなかなかに強力だ。
びゅうびゅうと耳元で風が唸ったかと思うと、枯野は、いつの間にか京の村の前に立っていた。




