表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯野と琴  作者: 村野夜市
90/124

88

早朝。鏡のように凪いだ海に、むくりとひとつ、まるいものが浮かんだ。

それは素晴らしい速さでみるみる海岸に近づいてきた。

ざばざばとしぶきを落としながら海から上がったのは、人の姿になった枯野だった。


立つのと同時に、下半身も足ひれではなくて、二本の足になっていた。

しかし、ここにきて、少しばかり困った問題があった。

着物をどこかに置いてきてしまったらしい。


枯野の全身には、ところどころに紫色の痣のようなものが浮かんでいた。

これは瘴毒にやられた痕だった。

なんとか避けて、岸に上がったけれど、流されてきた欠片でも、かなりの痛手を受けてしまった。


瘴毒への対応は慣れているけれど、そんな枯野でも、これほど強烈なのは経験したことがなかった。

瘴気の源は、よほどの大物らしい。

放っておくわけにもいくまいが、しかし、今ここで自分ひとりでどうこうできる相手にも思えない。

まずは、ソウビに相談してから、郷に連絡をとるか・・・


そこまで考えてから、枯野は思わずくすりと笑みを漏らした。

すっかり、妖狐の自分に戻っている。

ついさっきまで、足ひれのついた人魚の姿で、海のなかにいたはずなのに。


まあ、いい。余計なことは考えるまい。

枯野はひとつ頭を振ると、全身に妖力を行き渡らせた。

つぃ、つぃ、とからだについた痣が消えていく。

妖術の類は、基本、全部、苦手だ。

ただ、自らのからだの治癒や浄化に関してだけは、嫌というほど、父親から叩き込まれた。

そのおかげで、今もまだ生きていられている、と言っても過言ではない。


浄化の済んだ枯野は、ぶるりとからだをひとふるいして、狐へと姿を変えた。

そうでなくても見晴らしのいい浜に、金色の大きな獣の姿はたいそう目立った。

それでも、素っ裸のまま人の姿をしているよりは、千倍マシだった。


それにしても、砂浜に金色の獣というのも、あまりにも場違いだ。

うっかり人の目に見つかりでもしたら大騒ぎになりそうだ。

枯野は大きなからだをなるべく小さく縮めて、隠れる場所を探して走り出した。


久しぶりの足裏に感じる大地の感触に、かなり、感動する。

海の水を足ひれで蹴って進むのも心地よいけれど。

風を感じて走るのもまた、とても楽しい。


思わず夢中になって駆けていたら、いきなり、すとん、と穴に落ちた。


暗い穴のなかを急降下しながら、ああ、またこれか、と思った。

とりあえず、自分は落ちていない、と想像する。

すると、すぃ、と落下は止まった。


「ペロ殿。どこにおられるのですか?」


暗闇のなか、枯野は大声で呼ばわった。

すると、目の前に、にゃあ、と大きな猫の顔が現れた。

猫は嬉しそうに口を広げて笑った。


「坊ちゃん、おかえりニャさい、だ、ニャ。」


猫の顔はぐるりと一周回転すると、帽子を被って靴を履いた奇妙な猫の姿が現れた。


「我輩、海のニャかは、圏外ニャ。

 けど、もしかしてもしかすれば、坊ちゃんは帰ってくるかも知れニャいニャ。

 だから、あっちこっちに落とし穴、掘っといたニャ。

 うまく嵌ってくれてよかったニャあ。」


・・・うまく嵌った?

思わず聞き返したくなったが、とりあえず、黙っておくことにした。

妖猫はしかつめらしい顔をして、続きを言った。


「もう帰ってこニャいかと心配したニャ。

 それが坊ちゃんの選択ニャら、それもまた仕方ニャしニャけれども。

 ニャーんとニャく、後味は悪いニャ。」


どことなく面倒臭いその話し方も、ちょっと懐かい。


妖猫は言い終わると、大仰な仕草で帽子を取って、優雅にお辞儀をした。


「お詫びと言ってはニャんニャけど、ニャんニャりとお申し付けくださいニャん。

 坊ちゃんのお力にニャりますニャん。」


「お力に、って言われても・・・」


のんのんのん、と妖猫は立てた人差し指を振った。


「今すぐ思いつかニャくても大丈夫ニャ。

 必要にニャったら、いつでも呼ぶニャ。」


妖猫は枯野に小さな笛を差し出した。


「これを吹けば、我輩はいつでも参上しますニャ。」


「あ・・・有難う。」


枯野はそう言って笛を咥えた。

それを見て、妖猫は怪訝な顔になった。


「うん?そういえば、ニャんでそんな姿ニャ?

 笛、間違って飲み込んでしまうニャ。」


「・・・いや、それは・・・その・・・

 今、人の姿になるのは、いろいろとまずくて・・・」


妖猫は鷹揚な様子で、指で髭をしごいた。


「ふふん。いや、お気になさらず、ニャ。

 我輩、変化は見慣れております故。

 どうぞ遠慮ニャく、やってくれニャ。」


「いや、あの・・・

 実は、着物を失くしてしまって・・・」


枯野がきまり悪そうに打ち明けると、妖猫は、にゃあ、と目を丸くした。


「なるほど。セイレーン族の衣は昆布だったニャ。」


「・・・昆布巻き付けて歩くのも、その・・・」


「確かに。それはお困りだろうニャ。

 それじゃあ、早速、お役に立ちますニャ。」


妖猫はにっこりすると、懐から取り出した小さな杖をくるくると振り回した。

それから、得意げに、歌うように唱えた。


「ねこがねこんだねころんだ~。」


それを聞いた枯野は、思い切り不審そうな顔になった。


「・・・・・・なんですか?それ?」


のんのんのん、と妖猫はまた指を振った。


「ニャんだあ、知らニャいニョかニャ?

 やっぱり、狐さんは、猫族ニョことはそんニャに詳しくはニャいのニャあ。

 これは、ミスターオゥノゥに習った、とっておきの呪文、ニャ。

 我輩は、この国のこと、ミスターオゥノゥに、たーっぷり習ってきたニャ。

 このしゃべり方も、ミスターオゥノゥに習った、この国の猫族の正式なしゃべり方ニャろう?」


えっへん、と妖猫は胸を張る。

そのミスターオゥノゥ、というのは、本当に信用していいのだろうか・・・

ちらりと枯野はそう思ったけれど、とりあえず、黙っておいた。


呪文はともかく、妖術のほうはちゃんと効いた。


「どうかニャ?

 ちゃあんと、お国の衣装らしくしておいたニャ。」


そこに現れたのは、都の貴族が着ているような、衣冠束帯の一式だった。


「・・・いや、俺は、もう少し、動きやすそうなののほうが・・・」


むう、と妖猫は口を尖らせた。


「それニャら、ちょっと、待つニャ。

 ねこがねこんだねころんだ~。」


呪文と共に衣冠束帯一式は消えて、代わりに現れたのは、歌舞伎役者のような衣装だった。


「・・・・・・いや、できたら、もう少し、目立たない感じで・・・」


枯野が注文をつけると、妖猫は、むうむう、とさっきよりもっと口を尖らせた。


「ニャんニャ。文句の多いやつニャ。

 じゃ、これでどうニャ。」


三度目に現れたのは、枯野が普段着にしているような着物だった。


「あ。助かります。んじゃ、着替えますから、ちょっとそっち、向いててくださいね。」


枯野はいそいそと人に変化すると、妖猫の出してくれた着物を着た。

意外なことに、背の高い枯野にも、ちょうどいい丈だった。

きゅっと帯を締めると、着心地もなかなかによかった。


「我輩の魔法はどうニャ?ニャかニャかニャもんニャろ?」


妖猫はこの上なく上機嫌になって言った。

枯野もにっこりと返した。


「あ、はい。有難うございます。

 じゃ、お詫びはこれで済んだということで。」


のう、と妖猫は首を振った。


「ニャんニョ、これしき。

 我輩、ケチではニャいからニャ。

 またニャんかあったら、遠慮ニャく、言うニャ。」


「あ。はい。そのときには。」


枯野は鈴と笛を帯のなかにしっかりとしまい込んだ。

それから、ぺこりと妖猫にむかって頭を下げた。


「おかげさまで、これで、ソウビさ、たちに合流できます。」


妖猫は首を傾げて枯野を見た。


「ソウビさ、というのは、前に一緒にいた妖狐族かにゃ?」


「ああ。そうです。」


「ニャら、その方たちのところに送って差し上げるニャ。」


妖猫は奇妙な姿勢をとると、またあの棒をくるくるくると回し始めた。


「それじゃあ、いくニャ。

 しっかり、足を踏ん張るニャ。

 ねこがねこんだねころんだ~。」


あまりにも得意げに唱えるのに、枯野は笑いそうになるのをなんとか堪える。

奇妙な呪文はともかく、妖猫の魔法はなかなかに強力だ。

びゅうびゅうと耳元で風が唸ったかと思うと、枯野は、いつの間にか京の村の前に立っていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ