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山のなかで別れた後、枯野はこっそり娘のあとをつけた。
娘は、妖狐の郷にほど近い花街の、とある寂れた見世に連れていかれた。
それを見届けてから、枯野は父と暮らした古巣へと戻った。
翌朝、枯野は野で見つけた花を見世の前に届けた。
父は亡くなった母のために、母を埋めたという山のほうへ向かって毎朝花を手向けていた。
母はとても花が好きだったから、きっと喜んでくれている。
父の言った言葉を、枯野はよく覚えていた。
そして、これからは父に代わって、母のために、自分が花を手向けようと思った。
手向ける花は、野に咲く季節の草花だった。
母のために花を摘むついでに摘んだ花をあの娘にも届けよう。
枯野は自分にそう言い訳をした。
あの娘は花は好きだろうか。
花の嫌いな人間はいない、と父は言っていたけれど。
娘の反応を知りたくて、枯野は、花を置いたあと、そっと物陰から様子を見ていた。
一日目は青い竜胆の花を置いた。
朝、掃除をしに出てきた娘は、不思議そうにちょっと首を傾げた。
それから、花が踏まれないように、脇へ避けた。
娘のそんな何気ない優しさに、枯野は胸がじんとなった。
二日目は竜胆よりも華やかな桔梗を置いた。
娘はまたちょっと首を傾げて、今度は桔梗の花を戸の入口にさしておいた。
花を飾ってもらえたことが、枯野にはとても嬉しかった。
三日目は撫子をたくさん摘んできた。
娘は、まあ、と目を丸くしてから、花を丁寧に拾い集めて、笊に入れて持って行った。
きっと見世のなかのあちこちに、あの花を飾るつもりだろう。
娘の暮らしをほんの少し、花で彩ることができたように、枯野は感じた。
そんなふうに毎日花を届け続けた。
白い雪が一面に積もる冬には、花を見つけることができなくて困った。
そんなときには、小さな雪ウサギや雪だるまを作った。
松の枝や南天の枝を届けたこともあった。
椿の花を髪に飾ってくれたときには、どうしようもなく胸がどきどきした。
一度だけ、野ネズミを届けたときには、ちょっとした騒ぎになった。
娘は悲鳴を上げて、家のなかに逃げ帰ってしまった。
これはまずかったかと引き取ろうかと思ったら、また恐る恐る娘は戻ってきた。
それから、手に持った箒の先で、ちょいちょい、とネズミをつついた。
ネズミは気を失わせていただけだったから、それで目を覚まして、すぐさま逃げて行った。
その姿を見て、娘は心底ほっとした顔になった。
娘にネズミの贈り物はだめらしい、と枯野は学習した。
春には山菜を、秋には山の幸をたくさん拾ってきた。
こちらのほうは喜んでもらえたみたいだった。
岩魚を捕まえてきたときには、ネズミとは違って喜ばれた。
魚は大丈夫、と、これもまた学習した。
初めてのお役目で得た報酬は、全部使って米を買った。
あのときの握り飯のお礼のつもりだった。
娘に美味しい米をたくさん食べさせたかった。
請けるお役目は次第に難しくなり、どうしても届けに行けない日も出てきた。
そんなときには、郷の仔狐にお駄賃を渡して、やっぱり毎日欠かさずに届け続けた。
気前のいい枯野は、仔狐たちにはちょっとした人気者だった。
枯野に関わることに親狐たちはいい顔をしなかったが、仔狐たちはこっそり枯野を手伝った。
もちろん、半分以上はそのお駄賃が目当てだったけれども。
それでも、いつの間にかそれで枯野と仲良くなったやんちゃ狐たちも、かなり多くいた。
見世の塀の外を通りかかったときに、中で話す娘の声が聞こえてきたことがある。
娘はなにやら琴の話をしているようだった。
すると、突然、こんな謡が聞こえてきた。
ゆらのとの
となかにふれる
なづのきの
さやりさやさや
さやりさや
枯野ははっとして足を止めた。
それは枯野もよく知っている謡だった。
母の好きな謡だと言って、父がよく謡っていたのだ。
幼いころから、枯野は父親に、謡を謡ってはいけないと言い聞かせられてきた。
どうしていけないのかは分からない。
けれど、絶対にだめだと言う。
それでも、ときどき、誰もいないときに、こっそり謡ってしまうこともある。
そんなときに謡うのは、いつもこの謡だった。
というより、枯野の知っているのはこの謡だけだった。
それからは、塀の外を通りかかるたびに、いつも娘の声が聞こえてこないかと期待するようになった。
娘は毎日忙しくくるくると働いていて、その願いはなかなか叶うことはなかった。
それでも、たまさかに声を聞けると、その日は一日中、幸せな気持ちで過ごすことができた。
けれども、そのうちに、塀の外で聞くだけでは物足りなくなってきた。
塀にはあちこち穴が開いていたが、修理されずに放置されていた。
枯野にとっては、その穴を抜けるのなど、造作もないことだった。
庭の植え込みに隠れて、枯野は娘の様子を眺めていた。
庭に面した部屋で、娘は芸事の稽古をつけてもらっているようだった。
お天気のいい日には、部屋の障子は開け放してあった。
そんなときには、枯野は好きなだけ、娘の様子を眺めていた。
師匠らしき女から、娘はよく、筋がいいと言われていた。
そうか、筋がいいのかあ、とそれだけでもう、なんだか妙に嬉しかった。
枯野も幼いころ、父によく、筋がいいと言ってもらった。
そのときの嬉しかった気持ちよりも、もっと嬉しかった。
娘は謡も舞もとても上手だった。
いや、正直に言えば、謡や舞の上手下手は、いまいちよく分からない。
けれども、謡う娘の声はとてもきれいだと思ったし、舞う姿もきれいだった。
なにより筋がいい、のだから、上手いに決まっている。
そう思うことにした。
禿として座敷につくようになった娘は、それはそれはきれいだった。
華やかな着物を着て、薄く化粧をした姿は、この世のものではないのではないかと思った。
いつまでもいつまでも見ていたいと思った。
叶うものならば、連れて帰りたい、とすら思った。
客として訪れる、という発想は、なかなかわかなかった。
花街がどういう場所なのか分からないわけではなかったけれど。
自分には異世界のような場所だとずっと思っていた。
それよりも娘の喜ぶ食べ物や薬を届けてやりたい。
娘の師匠は重い病を抱えていた。
師匠から漂う病の臭いを嗅いで、枯野は残された命があまり長くないことに気づいていた。
それでも、少しでも長く、師匠には娘のそばで生きていてほしい。
そう強く思った。
大切な人を失うことの辛さは枯野自身が、誰よりよく知っている。
薬はとても高価なものだった。
金子はそのために使おうと思った。
娘の前に姿を現してみたいと思ったこともなかったわけではない。
あの笑顔を正面から受け取ってみたいと何度も思った。
いつも遠く遠くから、娘を盗み見ていたけれど。
遠くから見ただけでも、その笑顔はあまりにも愛らしくて、息をするのも忘れるくらいだ。
あれが、自分のほうにむけられたら、もうそれだけで、一生幸せだと思った。
それでも、枯野は娘の前に姿を現すことは、自分に禁じていた。
どうしてか、それをしてはいけないと思っていた。
恋をしてはいけない。
枯野は父にそう言われていた。
娘に対する自分の気持ちが恋なのかどうかは分からない。
けれど、なんとはなしに、踏みこんではいけない領域に思えた。
遠くから見ているだけ、それ以上はいけない。
枯野は知らず知らずのうちに、自分にそう言い聞かせていた。
けれど、とうとう枯野がその禁を破るときがきた。
それは、娘が大事な人を失ったときだった。
枯野は、父を失ったときのことを思い出した。
あのどうしようもなく、悲しくて、淋しかったときのことを。
世界から自分は捨てられた気がした。
生きている意味なんて、もう自分にはないと思った。
あのとき、娘が助けてくれなかったら、今、ここに枯野はいない。
あのとき、娘が握り飯を分けてくれなかったら、今、ここに枯野はいない。
気が付くと、見世の入口に立って声をかけていた。
一度だけ。
たった、一度だけ。
娘にかけてあげる慰めの言葉も思いつかないけれど。
ただ、どうしようもなく、娘のことが気がかりで、枯野は娘の前に姿を現してしまった。