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京の帰還を喜んだのも束の間。
浜に戻った海人たちは、次々と具合が悪くなり、あっという間に皆、寝込んでしまった。
京も例外ではなかった。
高熱を出して苦しむ者らの容態を診たソウビは、これは普通の病ではなく、瘴疫だと言った。
「しょうえき?って、なんすか?」
熱に浮かされ、苦し気な荒い呼吸をしつつも、京はソウビに尋ねた。
ソウビは、腕を組み、難しい顔をして答えた。
「瘴毒に中ったんだ。
あのユラの海は、強い瘴気に犯されている。
魚が逃げるはずだ。」
ソウビは、腕組みをして袖のなかに隠している自らの手をちらりと見た。
その手も瘴毒に犯されて、紫色に変色していた。
「この俺様が、ほんのちょこっと水に漬けただけで、このざまだからな。
こりゃあ、なかなか厄介な瘴毒だぜ。」
ソウビは思い切り顔をしかめた。
「もう少し軽い毒なら、俺にもなんとかできたかもしれんが。
ここまで強い毒となると、俺の手には負えん。
けど、もう郷には連絡をしておいたから。
すぐに、解毒の得意なやつを送ってくれるそうだ。
悪いが、それまで、もう少し、我慢してくれ。」
「悪いだなんて、そんなことないっすよ。
ソウビのダンナがいてくれてよかったっす。
おいらたちだけだったら、途方に暮れてたに違いないっす。」
感謝の気持ちを込めて見つめる京を、ソウビはじっと見てから、言った。
「じゃ、その気持ち、形にしてもらおうか。」
「へ?形?」
いったい何を要求されるのかと身構えた京に、ソウビはにやりと笑った。
「そのソウビのダンナ、ってのはやめてもらおう。
ソウビと呼べないのなら、それもいい。
今後、俺のことは、おお兄ちゃん、と呼べ。」
「は?」
予想外な要求に京が思わず目を丸くする。
それにもう一度にやりと笑って、ソウビは続けた。
「枯野のことは、ちぃ兄ちゃん、だ。いいな?」
「え?いやそれ、枯野のダンナ、今ここにいらっしゃらないのに。
勝手に決めちゃって、いいんっすか?」
「構わねえ。あいつはこの俺の相棒だからな。
この俺の決めたことに、否やなんぞ、言うわけがねえ。
分かったか。」
堂々と決めつけてから、ソウビはほんの少し頼りない目つきになってぼそりと言った。
「・・・俺も枯野も、親もきょうだいも、ないからな。
家族ごっこっての?今だけでいいから、少し、付き合え。」
京は少しの間黙ってから、ぽつり、と言った。
「おお兄ちゃん?」
「なんだ?」
にへらっと笑って振り返るソウビに、京もつられて笑ってしまう。
「あの、兄ちゃんってのも、ちょっと、あれなんで・・・
アニキってのは如何っすか?」
「まあ、そのくらいなら、許してやる。」
「じゃ、ソウビのアニキ。」
「・・・なんだ、ダンナがアニキになっただけだな・・・」
ソウビはぶつぶつ言ったが、まあ、いい、と諦めた。
「それにしても、ここまでの瘴毒を出すとは・・・
その怪物蛸、ただのでっかい蛸というわけではなさそうだな?」
「あ・・・使鬼だ、って言ってました。
大王が、送り込んだ、って。」
何気なく答えた京の台詞に、ソウビは目をむいた。
「使鬼?
って、お前さん、なんでそんなこと、知ってんだ?
言ってた、ってのは、なんだ?
どこの誰がそんなこと言ってたんだ?」
立て続けに尋ねるソウビに、京は、ふにゃり、と困った顔になった。
「あ・・・と・・・すいません。
一個ずつ、で、いいっすか?」
「・・・仕方ねえな・・・」
ソウビはしかめっ面をしながらも、京に合わせてゆっくりと話しを聞き出していった。
「なるほど。海のなかの世界ってのは、地上とは時の流れ方が違うというからね。
お前さんにとってはほんの一刻だったのが、こちらではひと月経っていたというわけだ。」
京の話しを聞いて、ソウビは納得したように頷いた。
「で、そのお方が、ずっと海の底で、琴を弾いて、使鬼を封印してた、って言うのかい?」
「らしいっす。」
「あの森には、使鬼を封じ込めるだけじゃなくて、その琴の力を増幅する役割もあったんだな。」
ゆらのとの
となかにふれる
なずのきの
さやりさやさや
さやりさや
何気なく口ずさんだソウビの謡に、京は、へえ~、と感心したように言った。
「よくご存知っすね。
それ、おいらたち海人族に伝わる謡っす。」
「琴音がよく謡っていたんだ。
さやりさやさや、ってのは、昆布の揺れる姿だって言ってたっけか。
その姿に、琴の霊威を重ねているんだ、って。
なんのことだか、いまいちピンとこなかったんだが。
なるほど、そういうことか。」
ソウビは納得するように頷いてから、ふむ、と視線を上げた。
「さやというのには、鞘、もしくは、莢、もかけてあるのかもしれんな。
そのなかに閉じ込めた、というわけだ。
この歌、作ったのは、その幽霊狐か。」
「幽霊狐って・・・山吹様っすよ?」
京は急いで訂正した。
「枯野のダンナのお祖父様っす。」
「つまり、由良殿の父上、か。
おそらくは、この謡、由良殿の母上が由良殿に教え、由良殿が、潮音殿に教えた。
潮音殿から、花野屋の芸妓に伝わった、というわけだな。」
「・・・なんか、すごいっすね・・・」
「謡というものは、人から人へと伝わるものだからな。」
ソウビは、軽く肩を竦めた。
「倒しきれなかった使鬼を封じた場所を伝えようとしたんだろうな。
あとは頼む、というわけだ。
その使鬼を送ったのが大王だとすると、大王に情報が漏れるのを阻止したかったんだろう。
それで、こんな回りくどいことをしたんだ。」
「けど、ユラの海ってだけで、見つけられるもんっすかね。
ユラの海と一口に言ったって、ものすごく広いんっすよ?
いかな怪物蛸といえど、どこにいるか見つけるのは、難しいっす。」
「お前さんたちにはな。
けど、俺たちなら、その気になりゃ、見つけてみせるさ。
・・・もっとも、あの舟ってのにもっぺん乗らないといけないってのは、ぞっとするけどな。」
ソウビは忌々し気に顔をしかめた。
「探索なら、俺も苦手じゃねえ。
ただ、敵が海のなかとなると、問題はどうやって倒すか、だ。
この瘴毒のなかを、海人族に行かせるわけにはいかねえし。
妖狐族は泳ぎは苦手ときた。」
京はソウビをまじまじと見つめた。
「・・・枯野のアニキ、なら・・・?」
ソウビはむうと唸った。
「あいつを待つしかねえ、ってことか・・・」
ふぅ、とひとつ、ため息を吐く。
「やつなら、この瘴毒にも耐えるかもしれんが・・・
それにしたって、かなり苦戦は避けられねえだろうな・・・」
「・・・その使鬼って、今封印が解けかけてるんっすよね?
この瘴毒も、そのせいなんっすよね?」
「まあ、そうだろうな。」
「その使鬼の封印って、この琴で、強められるかもしれない、って、山吹様が・・・」
京は預かりものの琴を指さした。
それにソウビは首を振った。
「いや、だとしても、この琴も、枯野が弾かねえと音が鳴らねえだろ?
やっぱり、枯野待ちってことに、変わりは・・・」
言いかけて、ん?とソウビは言葉を切った。
「いや。
そういや、琴音は、この琴を弾いていた。
あの謡も、この琴を弾きながら、謡っていたんだ。」
ソウビは寝ている京の肩を、ぎゅっと握った。
「琴音をここに連れてこられねえかどうか、掛け合ってみよう。
使鬼の封印を強化することができれば、道も開けるかもしれねえ。」
「・・・それって、枯野のアニキの思い人、っすよね?」
「ああ、そうだ。
枯野は恩人だと言い張ってるけどな。」
ソウビはにやりと笑って言った。
「使い魔たちも置いてきてるしな。
あのときの敵の狙いも、琴音や琴じゃなくて、枯野だった。
なら、琴音をここへ連れてくるってのも、無理なことじゃねえかもしれねえ。
よし、そうとなれば、忙しくなるぞ。」
途端に元気になって、ソウビはいそいそと出かけていった。




