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海のなかに戻ると、祖父母や伯母たち全員がそこに揃っていた。
枯野がなにも言わなくても、もうみんな、すべてを悟っているようだった。
一番、年かさの伯母が、皆を代表するように、ゆっくりと進み出た。
それは貝の船に乗って枯野を迎えに来た、あのときの伯母だった。
「カール・・・いいえ、枯野。
貴方は、陸に帰るのですね?」
枯野が頷くと、伯母も頷いた。
「分かりました。
貴方の選択を、わたしたちは尊重します。」
そう言って笑ってみせたけれど、その笑顔はどこか淋しそうだった。
「ただ、お別れの前に、ひとつだけ言い訳させてください。
貴方が陸の記憶を失っていたのは、わたしたちが、わざとそうしたわけではありません。
おそらく、からだが変容するときに、その影響で、一時的に陸のことを忘れてしまったのでしょう。
もっとも、貴方が忘れていることに気づきながら、わたしたちは、あえてそれを黙っていました。
それは、きちんと貴方に謝罪しなければと思っています。」
伯母は丁寧に頭を下げた。
枯野は微かに微笑んで、伯母に首を振ってみせた。
「そんなこと、謝ってもらう必要、ありません。
たとえ教えてもらったとしても、あのときの俺は混乱していただけだと思うんです。
むしろ、生まれたときからここにいて、みなさんの家族として育った。
たとえ嘘だったとしても、その言葉のままに接していただいたこと、俺は感謝しています。」
枯野は頭を下げる伯母の手をとった。
「みなさんは、俺のことを、家族として受け容れて、優しくしてくれました。
家族のぬくもりみたいなものに、俺は、ずっと、憧れてました。
みなさんは、俺に、それをくれました。」
伯母たちは一斉に涙を堪えるように鼻をすすりだす。
けれど、目の前の伯母だけは、鮮やかに微笑んで、枯野のほうへ両腕をひろげてみせた。
「それはだって、貴方はわたしたちの大事な家族だから。
可愛い甥っ子さん。さあ、いらっしゃい。」
枯野は照れもなく、伯母に近づくと、そっと、胸に抱きしめた。
「・・・前は、こういうことも、できませんでしたけど。」
「恥ずかしがることなんかないのよ?
貴方は、わたしたちの大切な子どもなのだから。」
伯母は自分よりもずっと大きな甥っ子を、そっと抱きしめた。
「ここは、貴方の家よ。いつでも、帰っていらっしゃい。」
「・・・はい。」
枯野は伯母から離れると、その顔を真っ直ぐに見て、短く、けれど、はっきりと答えた。
その枯野に頷き返して、伯母は言った。
「貴方はもう立派なセイレーンの一族です。
貴方にかけられていた封印は、もう、すべて解けました。
けれど、セイレーンになった貴方に、伝えておかなければならないことがあります。」
伯母は枯野の目をじっと見つめて、ゆっくりと言った。
「海のなかで平穏に暮らすわたしたちに、取り立てて特別な能力はないの。
少しばかり、寿命は長いけれど、それも、他の種族に比べて特別に長いというほどじゃない。
ただ、ひとつだけ。
わたしたちの歌声には、人間の精神を乱す力があるの。
その力をコントロールすることは、とても難しい。
だから、人間の前では、決して歌ってはいけない。」
枯野は、父の残した三つの戒めを思い出した。
「俺の父親も、俺にそう言いました。」
「それは、おそらく、貴方の母親が、そう伝えるようにと言い残したのでしょう。
妹はとても歌が上手かった。
月の綺麗な晩は、よく海の上の岩場に座って、琴を弾きながら歌っていたわ。」
伯母は懐かしそうな目をして遠くを見た。
けれど、その瞳をすぐに悲しそうな色に変えて、伯母は続きを話した。
「あるとき、たくさんの荷を積んだ貿易船が、この海を通りかかったの。
妹の歌声に聞き惚れた船員たちは、船の操作を誤って、船を沈めてしまった。
わたしたちは、溺れた船員たちを、全員、助けたわ。
誰一人、命を落とすことなく、陸へ帰してあげた。
なのに、彼らがわたしたちに返したのは、恩ではなくて仇だった。
彼らは、船が沈んだのは海の怪物のせいだと船主に報告したの。
船主は、怪物を退治するんだと、船団を引き連れて、この海にやってきた。
妹は、家族を守るだめだと言って、たったひとりで、その前に出て行ったの。
この禍を招いたのは、自分が歌を歌っていたせいだ。
だから、その責任は、自分がとらなければいけないんだ、って言って。
抵抗することもなく、彼らに拘束され、箱に入れられた。
そんな妹を、わたしたちは、ただ、何もせずに見ていることしかできなかった。
わたしたちを守ろうとしたあの子の意志を、無にするわけにはいかなかったから。」
伯母は悔しそうに唇を噛んだ。
「わたしたち、全員の力を合わせれば、嵐を起こして、人間の船など、全部沈めてしまえる。
実際、わたしたちはそうするつもりだった。
けど、あの子は言ったの。
このあたたかくて平和な海を、戦いの血で汚したくはない、って。
あの子は、家族だけではなくて、この海も、守ってくれた。」
うつむいた伯母の顔から、ぽろぽろぽろと白い真珠が転がり落ちる。
それは、人魚の流した涙だった。
「そんなことがあったから、あの子は、貴方にも歌を歌わないように、と言ったのでしょう。
セイレーンの一族は歌がとても好きだけれど。
だからこそ、歌ってはいけない、と。」
母は、潮音という名の歌姫になって花街で歌っていた。
その歌を聞いて、また、運命を狂わせた人もいた。
なるほど、だからこそ、なおのこと、歌ってはいけないと言い残したのかもしれない。
「それから、もうひとつ。」
物思いに沈んだ枯野を呼び戻すように、伯母は言った。
「これは、納得できないと思うかもしれないけれど。
わたしたちは、同族以外とは、恋をしてはいけない。」
それもまた、父の残した戒めのひとつにあった。
「同族以外に恋をしたセイレーンは、決して幸せにはなれない。
昔から、そう言い伝えられているの。
セイレーン以外の者がセイレーンに恋をすれば、その者は自らの命を縮める。
けどもし、その者に、セイレーンも恋をしてしまったときには・・・」
伯母は少し言葉を切ってから、思い切ったように言った。
「セイレーン自身の命を縮める。」
枯野は、はっとして顔を上げた。
それもまた、母自身の身に起きたことから得た教訓だったのか。
「父も、俺に言いました。恋をしてはいけない、って。」
「妹は、とても早く亡くなった。
セイレーンとしてはあり得ないほどに。
多分、あの子は、貴方のお父様に、本気で恋をしてしまったのね。」
父は、母が早世したのは自分のせいだと言っていた。
それは、事実だったのか。
母は多分、それでも、後悔はしなかっただろう。
どうしてか、それは確信できる。
けれど、父は、後悔だらけだったかもしれない。
こんな運命を選んでしまったことを。
父は枯野に言い残した。
海に行ってはならない。
歌を歌ってはならない。
恋をしてはならない。
結局、枯野はその全部を破ってしまったけれど。
けれど、今ならまだ、間に合うのかもしれない。
琴音とはまだ、ぎりぎり、恋仲とは言えない間柄だ。
琴音の命を縮めてしまうなんてこと、万に一つもあってはならないのだから。
けど、どうなのだろう・・・
琴音に恋をしてしまっているのは、自分のほうなのだから。
自分の命を縮めるだけなら、いっそ構わないとも思う。
琴音を想わないなんて、それだけでもう、生きているとはいえない状況なのだから。
「枯野。」
名を呼ばれて枯野は顔を上げる。
「妹は、不幸だったとは思わない。
いいえ、幸せだったに違いないわ。
貴方を見ていて心からそう思った。
妹は、貴方のお父様を本当に心から愛した。
その愛に、命をかけても惜しくはなかったのでしょう。
貴方のお父様は、それほどに素晴らしい方だった。
きっと、貴方のお父様も、妹のことを、本心から愛してくださったに違いないわ。
だけど・・・
貴方も、同じ幸せを得られるとは限らない。
だから・・・」
伯母は、枯野に一本の短剣を差し出した。
「これを、貴方にあげます。
もしも、貴方が誰かに心を奪われて、けれども、その恋から自由になりたいと、思ったときには。
相手の心臓を、この短剣で刺しなさい。
心臓から流れた血が、貴方にかかれば、貴方はすべて忘れて元通りになれる。」
枯野はぎょっとした。
心臓を剣で刺す?
そんなこと、できるわけがない。
けれど、ふと、思い直した。
相手の心臓から流れた血がかかれば、すべて忘れて元通りになる・・・?
枯野はゆっくりと手を伸ばすと、短剣を受け取った。
もしかしたら、いつか、これが役に立つこともあるかもしれない。
そう。
自分に、ではなく、大切なあの人の心を護るために。
伯母はそんな枯野を心配そうに見ていたけれど、気を取り直すようにもうひとつ、包みを差し出した。
「それから、これも。持ってお行き。」
「これは?」
それはどう見ても風呂敷包みだった。
あまりに場違いな道具の出現に、枯野はいろいろ忘れて、きょとんとなった。
「海流に流されてきたのを拾ったの。
けれど、この布は、貴方が着ていた衣の布によく似ているから。
おそらく、貴方の国の人のものでしょう。
ここにあっても仕方ないものだし。
返せるものなら、返してあげてちょうだい。」
枯野は風呂敷包みをしげしげと見つめた。
確かに、見覚えのある布を使っている。
しかし、それ以上に気になったのは、結び目にかけられた封印の呪文だった。
「これ、決してほどけないように、呪文がかけられているんですけど。」
「あら、そうなの?
道理で、開けてみようとしたけれど、開けられなかったのよ。」
伯母は、納得というように頷いた。
「この封印、俺、見覚えある、って言うか・・・
うちの郷の妖狐の術、だと思います。」
「あらまあ。
なら、なおのこと、ちょうどいいわ。
もうずいぶん経ってしまっているけれど。
落とし主が見つかったら、返してあげてちょうだいね?」
にこにこと、伯母は風呂敷包みを枯野に押し付けた。
伯母に預かった短剣と風呂敷包みを抱えて、枯野は、国に帰ることになった。
「貴方に海の祝福を。」
伯母はそう言って、枯野のほうへ手のひらをさしむけた。
その手から、柔らかな水流がほとばしり出て、枯野の周囲を包み込み、淡く光って海に溶ける。
「貴方に海の祝福を。」
その場にいた家族全員が、同じ祝福を枯野に送る。
セイレーンたちに見送られて、枯野は、東へとむかう海流に乗って泳ぎだした。




