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海の底の世界は、ほんのり薄明るい光に包まれていた。
あたたかな水のなかをたゆたいながら、カールは平穏な毎日を過ごしていた。
光の届く海のなかは、明るくて、静かで、平和だった。
何者かに存在をおびやかされる不安も、つまはじきにされる辛さも、ここにはない。
ただ、ひたすら、どこまでも、平穏な自由な世界。
父母はいなかったけれど、祖父母や伯母たちは、みなとても優しくしてくれた。
父のことは誰も知らない。
母は、昔、奇禍に遭って亡くなったのだとだけ聞いた。
伯母たちは、みな、口を揃えて、カールのことを自慢の甥だと言う。
たっぷりした髪は金色で、海のなかの淡い光にも、きらきらと輝く。
緑の瞳は、珍しい幸運の色らしい。
みんな幸運をもらうのだと言って、毎日、一度は、カールの目を覗きにきた。
人魚族は、成魚になるとあまり姿が変わらない。
だから、伯母とはいえ、見た目はとても若くて、どうかすると少女のようにすら見える。
薄い昆布の衣を纏った伯母たちを見ると、カールはどうしてか、どきどきしてしまう。
ずっと、小さいころから見慣れているはずなのに、ひどく戸惑いを覚えてしまう。
いつも、慌てて目を逸らせるカールに、伯母たちは笑う。
けれど、あんまりカールが困るものだから、最近は分厚めの昆布の衣が流行している。
カールは、この海で生まれて、この海で育った。
この海のほかに、知っている世界はない。
なのに、どうしてだろう。
このところ、奇妙な夢を見るのだ。
夢のなかで、カールは、金色の獣になっていた。
四つの足を持っていて、大地を蹴って、どこまでも駆けていく。
陸の上なんか、行ったこともないはずなのに。
切り裂いた風が、獣の毛並みをなびかせて、後ろへと流れていく。
その感覚を、夢から醒めても、ずっと覚えているのだ。
カールは自分の足ひれを眺めた。
伯母たちは、みんな、カールの足ひれをとても綺麗だと褒めてくれる。
七色に光る鱗は、きちんと揃って並んでいて、泳ぐとそれがきらきら光る。
動きはとてもなめらかで、けれど、本気を出せば、カジキよりも速く泳ぐ。
カールはひそかに、自分の足ひれが好きだった。
七色に光る鱗も。力強く速く泳ぐのも。
けど、夢のなかのカールは、足ひれではなく、四つの足を持っていた。
足なんて持ったこともないはずなのに、足裏に感じる大地の感触は、妙にはっきり覚えていた。
あまりにも印象的な夢だったから、カールは伯母たちにその話しをした。
伯母たちは、カールの話しを熱心に聞いてくれた。
そうして、不思議な夢ねえ、と言って、みんな笑った。
伯母たちの笑いは、かぷかぷと泡になって、水面へと上っていった。
カールはその泡の行方をじっと見上げていた。
どうしてか、急にその泡についていきたくなった。
海の上の世界になど興味はない。
この静かで平穏な水の底の暮らしに、不満など感じたこともない。
なのに、どうしてあの泡があんなふうに上っていくのが気になるのか、その理由は分からない。
あの泡は。伯母たちの笑い声は。いったいどこへ行くのだろう。
海の上の世界まで行って、そこでぱちんとはじけるのか。
はじけた笑いは、そのあと、どうなるんだろう。
一度気になりだすと、ますます気になり始めた。
ちょうどそんなとき、カールは、海の底の割れ目から、ぽこぽこと泡の湧き出す場所を見つけた。
泡は、止まることなく湧き出して、そのまま海の上に上っていく。
飽きることもなく、その泡の行方をカールは眺めていた。
あの泡はどうなるんだろう。ちゃんと、海の上にまで行くんだろうか。
伯母たちのなかには、海の上の世界を見て来た者もいる。
そう大して面白いものじゃなかった、と言っていたけれど。
海の底のほうが、ずっと綺麗で面白い、と言っていたけれど。
海の上に行くには、族長の許しが必要だった。
ただそれは、一人前の人魚なら、願い出れば、大抵問題もなく、すぐに許されるものだった。
けれど、カールはそれを願い出ることを、躊躇っていた。
どうしてか、そうしてはいけないような気がして仕方なかった。
カールの首には、小さな鈴のかたちをした首飾りが下がっていた。
いつから持っていたのかは分からない。
覚えていないくらい前から、もうずっとそれはそこにあった。
鈴の形をしていたけれど、中の玉は錆ついているのか、音をさせたことはなかった。
音のしない鈴をどうして後生大事に持っているのかは分からない。
ただ、これはひどく大切なものだとだけ思っていた。
あるとき、その鈴が、突然、鳴り出した。
鈴の音はそれはそれは大きくて、まるで、がんがんと鳴り響くようだった。
耳を塞いでも、その音は鳴りやまなかった。
呆然としながらも、辺りを見回して、カールは気づいた。
この音は、他の誰にも聞こえていない。
自分にだけ聞こえているんだ、と。
ぽこぽこと浮かび上がる泡が、急に、大きく明るく見えた。
あの泡のように、海の上に浮かび上がりたい。
強烈な欲求に突き動かされるままに、カールは水面へと浮上していった。
パシャリ、という音とともに、水面に顔を出した。
ゆらゆらと揺れる波が、どこまでも続いていくのが見えた。
潮の匂いのする空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
その途端、ずきり、と胸が痛んだ。
ずきり、ずき、ずきずき、ずきずきずき・・・
痛みに苛まれ、思わず手で胸を抑えた。
その手が、首に下げた鈴を握った。
鈴の音が、ちりん、と鳴った。
遠くからきた海風が、吹き抜ける。
大きな波に、からだごと、揺すぶられる。
鈴は、ちりちりと鳴り続ける。
どうしようもなく、悲しい思いが、胸に満ちた。
絶望することすら許されないのは、なんの責め苦か。
諦めて、忘れられれば、いっそ、幸せだろうに。
この痛みを抱えているのは、あの人と、自分の、どちらなのだろう・・・
―― 枯野様・・・
風が運んできた声が聞こえた。
悲しく名を呼ぶその声に、胸がかきむしられる。
これほどまでに大切で、愛おしくて、一刻も離れていたくないほどなのに。
どうして自分は、忘れていられたんだろう。
―― 琴音さん・・・
その名を声に出した途端、枯野は、すべてを取り戻していた。




