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枯野と琴  作者: 村野夜市
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枯野が行方を断ったという報せを受けてから、もう月は一巡りしていた。

その後、枯野の消息は杳として知れないという。

椿も山茶花も、使い魔としては、かなり力のあるほうらしい。

それでも、そのどちらにも、気配を感じ取れないということは、よほどのことだと思われた。


あれからも、見世は変わらずに忙しい。

毎日、朝、昼、晩と、勤めを果たし続けるだけで、あっという間に一日は終わった。

けれども、そうやって過ぎる日々は空しくて、ただ、数ばかり重なっていくように思えた。


いつものように早朝、見世の前を掃除する。

相変わらず、毎朝一輪の花は届けられている。

いつの間にか、それもすっかり春の花になった。

夜明けも早くなったし、水仕事も辛くなくなった。

季節は確実に進んでいるというのに、枯野の便りだけいっこうに訪れなかった。


枯野は、よくこの掃除の最中にやってきた。

花街の見世に寄るには、常識破りの時間だけれど、老夫婦も琴音も気にしなかった。

枯野が来てくれるそれだけで、その日一日がとびきり幸せなものになる。

だから、いつの間にか掃除をしながら、枯野の来るほうを眺めるのが癖になっていた。


もうひと月以上、くる朝もくる朝も、琴音は枯野の姿を探して、通りのむこうを眺め続けた。

はにかんだようなあの笑顔を、見つけようと目を凝らした。

今日こそ、今日こそ、と思い続けて、待ち続けていた。


けれど、枯野の姿を見ることは、一度としてなかった。


部屋に戻ると、枯野からもらったものをしまってある行李を引っ張り出した。

螺鈿の櫛に簪。色とりどりの結い紐の束。どれをとっても、立派なものばかり。

この行李ひとつで、一生、暮らしていけるほどの値打ちがありそうだ。

その細工物を、琴音はどれも身につけたことはなかった。

いつか、きっと、と思いながらも、やっぱり思い切りがつかないままだった。


宝箱の一番上には、あの、最初にもらった櫛があった。

琴音はそれを手に取って眺めた。


この櫛を見ると、いつも思い出す景色がある。

胸のなかで不安や寂しさや悲しさや、そんなものがどろどろと渦を巻いていて。

けど、それとは、腹が立つくらいに正反対に、あっけらかんと晴れていた日。

山のなかで出会った狐と、おにぎりをはんぶんこした。

あのときの狐の手触りの滑らかさや。ふわりと温かかった体温。

それから、こっちをじっと見ていた明るい緑色の瞳。


家を出るとき、持たせてもらったのは、そのおにぎりひとつだけだった。

このおにぎりを自分が持って行けば、今日、家族が食べるものはなにもない。

それを知っていたから、おにぎりを持って行きたくなかった。

それでも、母親は、せめて、これだけは持って行って、と何度も言った。

何度も。何度も・・・


あのとき、狐とはんぶんこしなければ、あのおにぎりは食べられなかった。

懐にしまったまま、固くなって、腐らせてしまうまで、多分、手をつけることはできなかった。

あのときの自分の辛い気持ちを、あの狐はおにぎりと一緒に、半分、引き受けてくれた。


思い切って食べたおにぎりは美味しかった。

狐に、安全だ、って示すために、食べてみせただけだったけれど。

いつの間にか、夢中になって頬張っていた。

それは、母親の、精一杯の愛情のこもった味だった。


あの味は、今もはっきりと覚えている。

あのときちゃんと食べたから、覚えていられるのだと思う。

ちゃんと覚えていられてよかったと、思う。


厄介払いをするわけじゃない。

家族のために、仕方なかった。

喜んで行かせるわけじゃない。

けど、行ってくれたことに、感謝もしていた。

そんな母親の精一杯の気持ちが込められていたのだと思う。


思い切って食べてしまえば、胸のなかのもやもやも、いつの間にか晴れていた。

一緒にいてくれた狐のあったかさが、慰めて励ましてくれるようだった。


枯野がこの櫛をくれたとき、そのときのことを鮮やかに思い出した。

狐の毛並みの色や、その手触りも、はっきりと思い出した。

高く高く晴れていた日に、自分のなかのどす黒い物は全部、吸いだされて溶けていった。

あのとき、狐の代わりに置いてきたあの櫛と、枯野のくれた櫛は本当にそっくりだった。

もしかしたら、あの場所から櫛を拾って持ってきたのかと思うくらいにそっくりだった。

もちろん、それは、不思議な偶然に過ぎないのだけれど。

どうしてか、縁、のようなものを感じてしまうのを、止められない。


だから、この櫛は、特別だった。

この櫛に見合う自分になろうと思った。

この櫛に見合う者になれたとき、枯野の手で、この櫛を、髪に挿してもらおうと思った。


けど、そうなる前に、枯野は、行方を断った・・・


枯野が請け負う、お役目、というのが、危険なものだとは、なんとなく知っていた。

帰りに寄る枯野の着物に、ときどき、血のようなものがついているのにも気づいていた。

少しずつ少しずつ、近くにいるようになっても、いつも、その身を案じていた。

それでも、自分には、枯野を護る力はない。

自分だけ安全な場所にいて、無事を祈ることしかできない。


なにか、自分にもなにか、できることが、あればいいのに。

もどかしくて身をよじっても、できることは、なにもない。

余計なことをして、かえって迷惑をかけるくらいなら、大人しくしているほうがいい。

ソウビにもそう釘を刺された。


今、こうしている間にも、枯野はどうしているのだろう。

命にだけは別条ないと、それは、椿も山茶花も断言しているけれど。

それでも、どうして、その気配は掴めないのだろう。


深い、深い、ため息を吐く。


ぽろり、と涙が、溢れて、落ちた。



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