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京は口を噤んで山吹に聞いたことをじっと考えていた。
怪物蛸が使鬼だったというのは知らなかった。
ずっと、ただ怪物が襲ってきたのだと思っていたけれど。
それが使鬼だったとなれば、事情は違う。
使鬼というものは、誰かの悪意を糧に動くものなのだから。
そんなふうに悪意を一方的にむけられたことに対して、最初に感じたのは驚きだけだった。
それから、なんでそんなことを?と疑問に思った。
そして、遅れて、怒りの気持ちも湧き上がってきた。
山吹は、大昔の出来事を、実際に見聞きした者だった。
村の年寄りたちが、子どものころに聞いた出来事を、実際にその目で見た者だった。
その語る言葉は、伝説ではなく、物語でもない。
伝説や物語は、どこか出来上がった干物のようなものだと思う。
けれど、山吹の話は、まさに今とれたての、びくびく動く魚のようだった。
一方的にむけられた悪意は理不尽で、こんなことをされれば、怒るのは当然だと思った。
怒りや恨み、憎しみを、ご先祖様たちだって、抱いたはずだ。
けれど、ご先祖様は、復讐を、子孫には託さなかった。
そうでなければ、京はもっと違うふうに、この話しを聞いていたはずだ。
その意味をよく考えろ、と山吹は言った。
ばらばらになった部族を集めるのは、残った者たちの悲願だった。
多くの者たちは、海産物を売る行商人に身をやつし、仲間たちを探し歩いている。
村に残るのは、年寄りと、それから幼い子どもばかり。
京の両親も、ほとんど家には帰らずに、方々を巡る旅をしている。
けど、そうやって仲間を集めるのは、決して、戦のためじゃない。
もう一度、揃って楽しく暮らすためだ。
京はずっとそう信じてきた。
海人族であることを、京は信用していない相手に話すようなことはしない。
部族の印である刺青も、普段は見えないように慎重に隠してある。
海人族でない人間は、海人族を忌み嫌う。
そこに取り立てて理由などない。
妖狐族だって同じだ。
だから、自分たちは、自分たちであることを隠している。
そのほうがうまくいくものだから。
長いこと、素知らぬ顔をして、人間に混じって生きているから、人間のことも多少は分かっている。
いいやつだっていっぱいいるし、心の濁ってないやつだっていっぱいいる。
だから、むやみに敵になりたいとは思わない。
隠すことが、身過ぎ世過ぎに有効ならば、それもまた一手、くらいに思っている。
「大王は、大王になって、幸せだったんでしょうかね。
何をしても、誰も信じられなくて、いつも疑心暗鬼で心をいっぱいにして。
大王が戦うべき相手は、本当は、大王自身のなかにいるんじゃないか。
そんな者を相手にはしないと、息長は決めたのかもしれません。」
考え込んだ京に、山吹は、ぽつぽつと言った。
京は顔を上げて、山吹を見た。
「とにかく、今は、あの怪物蛸っす。
やつがもし暴れだしたら、また大変なことになる。」
それは、間違いなく、今、目の前にある脅威だった。
「琴の霊力で、封印を護り続けてきたのだけれど。」
そう言って、山吹は、そぉっと枯野の琴を弾いた。
じゃらん・・・
かすれた音が、洞窟に響く。
ぴりぴりと揺れる空気の波は、琴の霊力の現れか。
しかし、琴の胴はひび割れ、弦も切れて、辛うじて残っているのは、もう一本しかなかった。
「いかな霊力のある琴といえど、この海の底で鳴らし続ければ、いたみもしましょう。
わたしも、魂を落としてしまってから、妖力を回復できず、琴の力の助けにもなりません。」
山吹は悲しそうに呟いた。
「魂を、落とした?」
驚いて聞き返した京に、山吹は、はい、と困ったように笑った。
「わたしは泳ぎが苦手で、生きたまま、ここには辿り着けませんでした。
それで、魂を抜いて、一時的に霊体になって、ここに来たのです。
そう、だからね、わたしは実は、狐の幽霊なんです。」
ああ、でも、怖くないですよ?と山吹は付け足した。
もちろん、そんなことを言われなくても、京は今更、山吹のことを怖いとも思わない。
「魂は大事に風呂敷に包んで持ってきたのに、そこの池からぽちゃりと落としてしまって。
そのまま海の底へと沈んでいきました。」
魂を手荷物かなにかのようにあっさりと山吹は言った。
うっかり聞き流しかけて、京は、いやいや、と首を振った。
「は?
そんな大事なものを?
それは、大変じゃないっすか。」
「いやまあ、大変なんですけどね、実際。
しかし、泳いで取りに行くこともできないし。
ああ、お前様も行かなくていいですよ?
あれももう、ずいぶん前のことですから。
今から行ったところで、見つかりっこないでしょう。」
山吹はかすかに微笑んで首を振った。
「わたしのことはよいのですけれど・・・
問題は、この枯野です。
枯野の霊力が途切れれば、使鬼が目を覚ましてしまう。
なんとかして、それは阻止しなければならないのに。
わたしはこの場所にいて、それを分かっていても、なにもできずにいます。」
山吹は一度言葉を切ってから、京のほうをじっと見つめた。
「けれども、こんなときに、ここにお前様は来てくださった。
これも、もしかしたら、なにかの導きなのかもしれない。
どうか、ここから帰ったら、この危急を、外の方に伝えてください。
花咲邑に知らせれば、きっと、誰か、力になってくれます。
枯野に代わる霊力のあるものを、見つけ出さなければならない。
この枯野の状況から見るに、猶予はあまりありません。」
山吹は、張り詰めた表情をして、京に訴えかけた。
探すまでもない、と京は思った。
霊力のある琴。
その言葉に思い当たるものが、京にはある。
京は、背中に背負った包みから、預かりものの琴を取り出した。
「なんと、それは、琴ではありませんか?」
山吹は食い入るように琴を見つめた。
「これは、珍しい琴だ。
胴は貝で出来ているのですね?
まさに、海で弾くのに相応しい。
少し、触らせていただいても?」
「あ。はい。」
目をきらきらさせてじっと見つめる山吹に、京は琴を手渡した。
山吹は、緊張しつつも、期待に満ちた目をして、貝の胴をそっと撫でた。
「これは、どう弾くのが正しいのです?」
尋ねられて、京は構え方を教えた。
山吹は琴を構えると、ひゅっと音をさせて、一度深呼吸をした。
それからおもむろに弦を掻き鳴らし・・・鳴らそうとしたけれど・・・
やはり、琴は鳴らなかった。
「おや?
おかしいな。
確かに、指は、弦を弾いているのに・・・
音がしませんね?」
首を傾げる山吹に、京はため息を吐いた。
「・・・おいらが鳴らしても、この琴は鳴りません。
おいらの知り合いは、弾かなくても、手に持っただけで、鳴るんっすけど。
これは、ものすごーく、変わった琴なんっすよ。」
すると、琴はきらきらと光りだして、突然、付喪神が姿を現した。
付喪神を見ても、山吹は驚かなかった。
ただ、嬉しそうに声を上げた。
「おや?付喪神が憑いているのか。
なるほど、霊力のある琴なのですね。」
山吹は感心したように再び琴を見つめた。
付喪神は京の肩に飛び乗ると、何か耳打ちをした。
「ツクモちゃんが言うには、この琴は、セイレンの血族にしか鳴らせないんだそうっす。」
付喪神の言葉を通訳すると、山吹は、はて、と首を傾げた。
「清廉?
・・・まあ、確かに、わたしは、清廉潔白とは言い難いところもあるかもしれないけれど・・・
そこまで、汚れきっていることもないかと・・・」
言い訳するようにぶつぶつ言う山吹を、京はあっさり遮った。
「あの、セイレン、ってのは、このツクモちゃんみたいな形をした、異国の人魚っす。」
山吹は、ほう、異国の、と言って、付喪神をしげしげと眺めた。
「そういえば、その人魚殿の髪や瞳は、この邦ではあまり見かけぬ色。
なるほど、異国の人魚なのですね。」
山吹はますます感心したように頷いた。
「しかし、となると、その異国から、セイレンの一族に、お越しいただくしかない、ということか?
いや、待てよ。
お前様、さきほど、お知り合いがその琴を鳴らせると言われたか?
なるほど。
お前様は、セイレン族と知り合いだということか。
ならば、そのお知り合いにここに来ていただくというわけにはいかないだろうか。」
希望を見出した山吹は、くるくると考えが回り始めたようにぶつぶつ言い始めた。
そんな山吹に、京は言った。
「その人は、山吹様と同じ、妖狐族っす。
というか、多分、その人は、山吹様の孫にあたるお人っす。」
思いもしなかった言葉を耳にして、山吹は、きょとん、と顔を上げた。
「孫?
え?わたしに、孫があったのか?
仔もまだいなかったのに?
え?いや、ならば、あのとき・・・」
なにやら嬉しそうに、にやにやと首を傾げている山吹に、京は手短に話した。
「山吹様には、由良って名の息子さんがいます。
んで、由良様の息子さんが、枯野のダンナ。
おいらの知り合いっす。」
「由良?そうか、楓はわたしとの仔に、この海の名をつけたのか。
その仔が枯野?
わたしの孫は、枯野というのか。
それはまあ、なんとまあ。」
山吹は感心したように、なんとまあなんとまあと繰り返しながら、琴の枯野を何度も撫でた。
「ここにいて、わたしはずっと、この枯野に話しかけてきました。
そうか、わたしの孫も、枯野というのか。」
山吹はひどく嬉しそうだった。




