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洞窟の入口の向こう側は、お椀を伏せたように、円い空洞になっていた。
息がもう限界だった京は、水面から顔を出して、思い切り深呼吸をした。
太古の昔に閉じ込められた空気は、少し湿って、ひんやりとしていた。
もしも、その空気に毒でも混じっていたら、京は一瞬で命を落としていたかもしれない。
後からそんなことを思ったけれど、まずは、空気に毒などは混じっていなかった。
じゃらん、とか細い琴の音が、お椀型の空間に響き渡る。
それは今にも途切れそうなほど、細くかすれた音だった。
「おや?これは、珍しい。お客さまだ。
人の子を見たのは、いったい何年振りだろう。」
そんな声がして、誰かが近づいてくる気配がある。
ふわり、と青い光が浮かんで、光に照らされたのは、青白い顔をした青年だった。
「これはこれは。
ようこそ、お越しいただいた。
どれ、こちらに上がって、お茶・・・はないが、話しでもしていってくだされ。」
話し方は物腰穏やかで、丁寧な感じだ。
どことなく、その雰囲気に既視感を覚える相手だった。
「おお、そうだ。
人の子には、もう少し明るいほうがいいか。
しかし、わたしの妖力には、もう、あまり余裕がなくて。
・・・よっこいしょ。」
年寄りのような掛け声と共に、辺りはほんのりと明るくなった。
お椀型の洞窟は思ったよりも広かった。
家が一軒くらいは入りそうな広さだ。
その壁に夜光虫のような青白い光が、ふわり、ふわりと灯って、辺りを明るく照らし出していた。
京が顔を出したのは、両手を差し伸べたほどの小さな池だった。
この池が外の海と繋がる、たったひとつの出入口だった。
ひたひたと池の水は揺れて縁の岩を洗っていた。
池の周りも洞窟も、固い岩盤でできているようだった。
「ほうれ。これなら、お前様も、わたしの顔が見えましょう。」
青白い顔の青年は、細い目をさらに細くしてにこにことこちらを見ていた。
背中には、冬の雨のように細く白い髪がさらりと流れている。
青年は、骨ばった細い指をした手を、京を引っ張り上げようとするかのようにこちらに差し出した。
京はその手をすぐには取らずに、青年の様子をじっと観察していた。
すると、青年は、はっとしたように手を引っ込めて、慌てて言った。
「おお、そうだった。
このような海の底で、物の怪に逢ったような顔をしておられるが・・・
いや、実際、わたしは、物の怪のようなものだが・・・
なに、怪しい者ではありません。
長い年月、ずっとここにいて、話し相手がほしいと思っていたところ。
少しの間、ここで、外の世界の話しでも、していってくだらんか。」
洞窟のなかには、青年の他には誰もいなかった。
水辺から少し離れたところに、青年が弾いていたのか、ぼろぼろになった琴がひと棹ある。
洞窟のなかには、それ以外は何もなかった。
「なにもないところだが・・・
わたしには、お前様に会えて嬉しいという気持ちのほかに差し上げられる物もないが・・・」
青年は困ったように、きょろきょろと辺りを見回した。
「そうだ。琴を弾いて進ぜましょう。
と言っても、聞かせるほどの腕もないのだけれど。」
困ったように肩を竦めると、青年は、ぼろぼろの琴のところに戻った。
けれど、すぐには弾きださずに、琴を大切なもののように手のひらで撫でた。
「この琴は、枯野、というのですよ。
その昔は、霊験あらたかな琴だと言って、社に祀られていたもの。
というのも、この琴は、村を護る、大事なご神木から造られていたからです。」
よほど話し相手に飢えていたのか、青年は京を帰したくないように、話し続けた。
「なんて、もう、ご存知でしたかね?
しかし、お前様、どうしてまた、こんな海の底へ?
・・・それにしても、ずっとそこから上がりなさらんが・・・
おお、もしかして、人の子ではなく、河童族でしたか?」
河童に間違えられて、京は一瞬目を丸くしてから、思わず笑い出した。
京が声を出して笑うと、青年も嬉しそうに笑った。
「おお。よかった。もしかしたら、言葉の通じない一族かと思ってしまった。
それでは世間話ひとつするのも簡単ではないでしょうから。
もっとも、それならそれで、時間をかけて分かりあうのも、また悪くない。
なにせ、ここには、時間だけは、たっぷりありますからねえ。」
青年は肩を竦めてくすくす笑った。
「わたしのことは、山吹と呼んでください。
お前様は・・・」
「おいら、京、って言います。」
京は急いで名乗った。
相手への警戒心は、もうほとんど解けていた。
京は池の縁に手をかけて自分で水から上がると、山吹の傍まで歩いて行った。
「へえ。京。
京というのですか。」
山吹は興味深そうにそう繰り返した。
「息長の一族にしては珍しい名だ。
しかし、それも、思いを込めてつけられた名なのでしょうね。」
「・・・どうして俺が息長だ、って・・・」
京は驚いたようにそう聞き返した。
それは、京たちの部族の旧い呼び名だった。
遠い昔、祖父からその名は聞いたことがある。
けれど、今はもう、わざわざそう名乗る者もないほどの、旧い名前だった。
「それは・・・こんな海の深くに潜ってこられるのですから。
河童族でなければ、そうとしか、考えられません。」
山吹は、そう言って笑った。
「息長の人々に助けを乞われて、わたしと妻は、この地にやってきました。
息長もわたしたちも、大王がこの地に来られるより昔から、この地に棲まう者。
旧き者同士、助け合うのだと思いました。
大王はわたしたちのような旧き者らに対して、たいそう、疑り深い。
もっとも、わたしたちも、うわべだけ恭順していたところも、なきにしもあらずですけどね?」
とうとうと語る山吹を、京は呆気に取られて見ていた。
「この枯野も、元々は息長の一族の守り神。ご神木から造られたもの。
都にいらした大王は、古くからこの地にいるあなた方に、恭順の意志を示せと迫った。
あなた方は、大王の信じる神を受け容れ、ご神木を伐って舟にした。
その舟で、大王に毎日、あなた方の作る塩を届けた。
けれど、大王は、それで納得はしなかった。
あなた方は、昔から、戦上手と言われていた。
そんなあなた方が、足の速い舟で、大王のいる都に攻め上ると疑惑を持った。
あなた方は、そんな意志はないと示すために、海人族にとって、とても大事な舟を、焼いた。」
山吹の語る話は、京の知っているのとは微妙に違っていた。
京はひどく驚いた。
「・・・そんな話し、俺、初めて、知りました・・・
いや、似たような話しは聞いたことあるんですけど・・・
もっと、伝説っぽいと言うか・・・
そんな、戦だとか、疑惑だとか、そんな言葉は出てこないって言うか・・・」
山吹は、はっとした表情になった。
「しまった。わたしは、余計な話しをしてしまいましたか。
生まれてくる子どもたちに知らせる必要はないと、大人たちはそう思ったのかもしれません。」
山吹は、困ったような顔になった。
「息長の人たちの気持ちを無にするようなことをしてしまったかもしれない。
今の話は、どうか忘れてください。
・・・と言っても難しい、かな。
けど、お前様のご先祖は、お前様たちに、怒りや不満を持たせたくなかった。
だから、この話しを伝えなかった。」
山吹は、改めるように言葉を切って、京にむかって真っ直ぐに座り直した。
「戦に必勝法などありません。
けど、戦いに負けない方法ならあります。
どうすればいいか、分かりますか?」
尋ねられた京は分からないというように首を傾げた。
「戦をしなければ、よいのですよ。」
山吹はさらりと答えた。
「息長の人々はそれを選択した。
それはとても大事なことです。
よその一族が勝手に無にしてよいことではありません。」
山吹は京にむかって謝罪するように頭を下げた。
「息長は、負け知らずと言われるほど、戦に強い一族でした。
けれども、決して争い事を好む人々だったわけじゃない。
そんな息長の選択を、わたしたちも尊重していました。
なのに、息長は、舟まで焼いて見せたのに、大王はお前様方のところへ使鬼を送った。
息長の一族を徹底的に叩いて、ばらばらになるようにしむけた。
それでも、お前様方は、大王に牙はむかなかった。」
山吹はなにか込み上げてきた思いを堪えるように目をつぶった。
「わたしたちが救援に訪れたときには、息長の村はもう、徹底的に壊された後でした。
わたしは、せめて、これ以上悪さをしないように、使鬼を海へ封じました。
それしかもう、してさしあげられることはなかったのです。」
山吹はそう言って、深いため息を吐いた。
「山吹様、は、妖狐族、なんですよね?」
口を噤んだ山吹に、京は今度は自分から尋ねていた。
「山吹様のことは、おいらたち、小さいころから、聞かされてます。
勇敢な狐の神様だ、って。
おいらたちは、島から、陸へと移ったけど。
村の社では、狐の神様を祀っているんです。」
「なんとまあ、それは、恐れ多いことだ。
わたしのことを、そんなふうに言ってくださっているのですか?」
山吹は目を丸くしてそう尋ねた。
「使鬼を封じているのは、わたしではなくて、琴の霊力なのに。
わたしはただ、ここにいて、琴を鳴らしているだけですよ?」
山吹は肩を竦めて笑った。
「息長の一族を護っているのは、この枯野です。
枯野とユラの海です。
ここで枯野を鳴らすと、その霊力をユラのなずの木の森が増幅して伝えていく。
なずの木の森のなかには、今も、使鬼を封じてあるのです。」
「怪物蛸は、ユラの海にいるんですか?」
京の質問に、山吹は静かに頷いた。
「わたしたち妖狐族は、泳ぐのが苦手で、海の怪物を相手に戦うのは、たいそう難しいことでした。
結局、怪物蛸は、倒すことはできずに、封じておくので精一杯でした。
・・・しかし、ここへきて、この枯野も、そろそろ、限界がきそうなのです・・・」
山吹はいたわるように、琴を手で撫でた。




