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行くなと言われて、もちろん、行かない京ではない。
それに、ユラの海は幼いころから行き慣れた場所だ。
取り立てて危険なことだとも思わなかった。
ユラの海に多く生えている海藻を、海人族は、なずの木と呼ぶ。
なずの木を使って塩を焼く技は、古くから海人族の得意とする技だ。
ことに、ユラの海の塩は極上だとして、都の大王にも献上されるほどだった。
陸に移り住んでからも、海人たちはなずの木を使って塩を焼いていた。
働き手の数も減り、昔、大王に献上じていたほどの塩はもはや焼くことはできなかった。
けれど、自分たちの生活にも、塩は欠かせないものだ。
それに、他所の民と物々交換をするときにも、塩はなかなか役に立つのだ。
海人族は、子どもといえど、大事な働き手だ。
京は同じ年ごろの子どものなかで、誰より泳ぎが上手かった。
速く泳ぐことも、遠くまで泳ぐことも、長く泳ぐことも、深く潜ることも。
どれをとっても、大人と同じか、それ以上の力を持っていた。
そんな京は、小さいころから、ユラの森に潜って、なずの木を刈り取る仕事をやらされていた。
ユラのなずの木の森は、とても深かった。
なずの木の森の上は、櫓を取られて、舟も入りにくい。
深い森に迷い込めば、方角が分からなくなって、二度と戻れなくなる。
複雑に絡み合ったなずの木の檻に囚われれば、そのまま海の底へと引きずり込まれる。
だから、刈り取るのは森の端だけで、森の奥深くには入らないようにと言われていた。
けれど、行くなと言われて、大人しく行かない京ではない。
深い森のなかには、誰も知らないお宝が、ざっくざっく、隠れているに違いない。
古今東西、冒険好きな少年の考えることは決まっている。
京も、大人たちに隠れて、何度も何度も、ユラの森の奥深くに潜った。
ユラのなずの木の森は、泳ぎの巧みな京でさえ、何度か危ない目に遭いかけるような場所だった。
ゆらゆらと揺れるなずの木は、いつも姿形を変えていて、目印になるものが何もない。
深く潜り過ぎると、上下の感覚すら失って、帰る方向も分からなくなる。
それでも、京は、懲りずに森に入り続けた。
そんなあるとき、京は森の奥で不思議な音を聞いた。
遠く遠くから、かすかに聞こえてきたのは、琴の音だった。
そんなものが、海のなかで聞こえるはずなどない。
けれど、何度聞き直しても、それは、琴の音以外のなにものでもなかった。
不思議に思った京は、その音の源を探そうとした。
琴の音は、海の深い深いところから響いてくるようだった。
京は、息の続く限り、深く深くへと、何度も潜った。
気を失うくらい深く潜っても、琴の音は、少しも大きくならない。
細く、微かな、けれども、どう聞いても、それはやっぱり琴の音だ。
暇さえあれば、京は海に潜って、琴を探し続けた。
京の少年時代は、その琴を探すことに費やされた。
けれど、結局、京は、その、海の底で鳴り続ける琴、を見つけることはできなかった。
ユラの森は常に形を変え続けている。
そのうちに、その琴の音の聞こえる場所はどこだったのかすら分からなくなった。
琴を探すことを諦めきれなかった京は、叱られるのを覚悟で、そのことを祖父に相談した。
すると、祖父は叱らずに、こんなことを教えてくれた。
昔、皆がまだ島にいたころ、島の社には、一棹の琴が祀られていた。
それは、たいそう霊験あらたかな琴だと言われていた。
けれども、その琴は、怪物蛸に襲われたときに、怪物と一緒に海に沈んだ。
京の聞いたのは、その琴の音かもしれない、と。
それを聞いた京は、ますます海に沈んだ琴を探そうとした。
けれど、どれだけ探しても、琴はやっぱり見つからなかった。
そのうちに、京は、祖父について、螺鈿細工の職人になる修行を始めた。
祖父はとても厳しい師匠で、修行はなかなかに辛いものだった。
そんな日々の忙しさに紛れて、いつしか京も、その琴のことは忘れていった。
ソウビの話しを聞いて、京はふと、その琴のことを思い出した。
怪物の封じられた場所は、誰も知らない。
けれど、怪物が引きずり込んだという琴の音がするのなら。
もしかして、怪物は今も、そこにいるのではないか。
普通に考えて、海のなかで琴の音がするなんて、あり得ない。
しかし、なんと言っても、霊験あらたかな琴なのだ。
もしかすると、あり得る、んじゃないか?
祖父だって、あのとき、京の話しを聞いて、そんなものは空耳だろうと否定したりはしなかった。
そうして、その霊験あらたかな琴の話しをしてくれたのだ。
きっと、祖父だって、今も海の底で、琴が鳴り続けていると信じているに違いない。
なんと言っても、霊験あらたか、なのだから。
あの琴を見つけることができたら、封じられた怪物蛸も見つけられるのではないか。
今こそ、あの琴を探すべきなのではないか。
思いついたらもう、じっとしてはいられなかった。
久しぶりに戻った京に、祖父は細工についてあれこれと指南してくれたけれど。
その話しも、ほとんど聞いていなかった。
懐かしい味のする祖母の手料理をたっぷり食べて、今夜は布団でぐっすり眠る。
早朝、目を覚ました京は、誰にも黙って、ユラの海に舟を出した。




