77
眠ったまま、枯野のからだは、みるみる変化し始めた。
かかとのところにほんの少しだけあった鱗の形の痣は、あっという間に足全体にひろがっていく。
足を埋め尽くした痣は、少しずつ盛り上がって、本物の鱗へと変化していった。
セイレーンは、自分の三倍はありそうな枯野のからだを、顔色ひとつ変えずに平然と担ぎ上げた。
動かされても、枯野は、昏々と眠り続けていた。
枯野を抱えたまま、セイレーンは、ケットシーにむかって、優雅に頭を下げた。
「それでは、ごきげんよう。」
舟の縁から水中へと滑りこもうとするのを、間一髪で、ケットシーは捕まえた。
「お待ちなさい。
それでは約束が違います。」
「あら、約束を破ったりはしておりませんわ。」
セイレーンは美しい顔をあげて、にっこりと微笑んだ。
思わず誰もが魅了されてしまうほどの美しい笑顔だったけれど、ケットシーは訝し気に眉を顰めた。
「殿下を無理矢理、海へ連れ帰ったりはしない、と。
そうお約束、いたしましたね?」
驚いた、というように、セイレーンは目を丸くした。
「もちろん。無理矢理なことなどしておりません。」
「しかし、これは!」
「水に還りたい。
この子のなかには、その思いがありました。
ならば、その望みを叶えてやりたい、と思ったまでです。」
セイレーンはきっぱりと言い切った。
「殿下にはすべての真実をお話しした後、陸と海、どちらを選ぶかは殿下の意志に任せる。
それがお約束だったはず。
こんなふうに眠らせて、本人の意志とは関係なく海へ連れて行くのは、約束違反です。」
ケットシーはなんとしてでも行かせるまいとするように、セイレーンの前に立ち塞がった。
セイレーンは分からず屋の相手にうんざりしたように肩を竦めてみせた。
「たった今、この子のからだが変わっていくのを、その目でご覧になったでしょう?
もしも、この子自身がそれを望まぬのなら、こんなふうに変容することはありません。
これは、この子の望んだことなのです。」
セイレーンは愛おし気に眠っている甥の顔を見た。
「むしろ、この子の意志も確かめずに、この子のなかの母親から引き継いだものを封じた。
そうなさったのは、この子の父親でしょう?
そうすることで、わたくしたちから、この子の存在をずっと隠し続けた。
もちろん、それが父親としての愛情からしたこと、だと、想像することはできます。
けれど、ならば、わたくしたちとて、肉親の愛情から、この子を傍に置きたいと思います。」
ケットシーを見つめ返したセイレーンの瞳には、絶対に譲らない強い意志が見えた。
「本来あるべき姿を、完全に覆い隠すことなど、できはしません。
封じられていたものは、少しずつ、少しずつ綻んで、今、とうとう、最後の封印も解けました。
だから、今ようやく、この子は、この子の本来の姿へと戻っていくのです。」
セイレーンの主張には、間違っているところはひとつもない。
とはいえ、このまま枯野を引き渡してしまうわけにもいかない。
ケットシーは、この難関を打開する策はないものかと迷うように髭を撫でた。
「ならば、せめて、殿下が目をお覚ましになるのをお待ちください。
殿下ご自身の口から、それを望むと伺えば、我輩も大人しく引き下がりましょう。」
「陸の生き物から水の生き物への変容は、そう簡単には終わりません。
今しばらく、この子は目を覚ましたりはしないでしょう。
ならば、このような狭い舟のなかに寝かせておくのも可哀そう。
ゆったりとした寝台で休ませてやりたいと思うのは、伯母として、当然のことでしょう?」
慈愛に満ちた伯母の目になって、セイレーンは枯野を見た。
「この子は、愛しい妹の忘れ形見。
ずっとずっと、探し続けた、でも、帰ってこなかった、あの子の残した子どもなのです。
せめて、変容の終わるまでだけでもいい。
この子のことを世話してやりたい。
それは、無理な望みですか?」
ケットシーは、ぐっ、と言葉に詰まった。
セイレーンはさらに言葉を重ねた。
「お約束しましょう。
目を覚ましたこの子が、陸へ戻りたいと言えば、わたくしたちは引き止めたりいたしません。
しかし、もし、この子が海を選ぶときは、わたくしたちは、この子を家族として迎え入れましょう。」
「・・・しかし、姫様、殿下には、陸に大勢、仲間たちもいるのです。
その者たちは、殿下のことを心配もいたしましょう。
殿下とて、それは望まぬのではありませんか?」
ケットシーはなんとか食い下がろうとした。
しかし、セイレーンはにっこりと微笑んで、ひとつ頷いてみせた。
「ならば、どうか貴方様が、この子のお友達にお伝えくださいませ。
この子は今、大切な変容を果たさなければならない状況にあるのだと。
時が至れば、また、みなさんの許に戻ることもあるかもしれません。
それまでの間、どうか、ご心配などなさいませんように、と。」
淀みなく話すセイレーンに、ケットシーは疑い深い目を向ける。
その目をはっとしたように見開いた。
「その、変容、とは、いったいどのくらい、時間がかかるものなのですか?」
ケットシーのその質問に、セイレーンはほんの少し、困った表情を浮かべた。
「さて・・・しかとは、申せません。
なにせ、海の底の時間の流れは、陸の時間の流れとは、少しばかり違っておりますから。」
「!
ならばやはり、今、連れ帰っていただくわけには!」
話している間に、ケットシーは気づかないまま、位置をセイレーンと入れ替わっていた。
セイレーンは、もうそれ以上話すことはないとばかりに、枯野を抱えて海へと滑り込んだ。
「その舟は、自然と陸へと帰るようにしてあります。
それでは、今度こそ、ごきげんよう。」
セイレーンはそれだけ言い残して、枯野を連れて海へと潜っていく。
舟に取り残されたケットシーに、もはやなすすべはなかった。




