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枯野と琴  作者: 村野夜市
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眠ったまま、枯野のからだは、みるみる変化し始めた。

かかとのところにほんの少しだけあった鱗の形の痣は、あっという間に足全体にひろがっていく。

足を埋め尽くした痣は、少しずつ盛り上がって、本物の鱗へと変化していった。


セイレーンは、自分の三倍はありそうな枯野のからだを、顔色ひとつ変えずに平然と担ぎ上げた。

動かされても、枯野は、昏々と眠り続けていた。

枯野を抱えたまま、セイレーンは、ケットシーにむかって、優雅に頭を下げた。


「それでは、ごきげんよう。」


舟の縁から水中へと滑りこもうとするのを、間一髪で、ケットシーは捕まえた。


「お待ちなさい。

 それでは約束が違います。」


「あら、約束を破ったりはしておりませんわ。」


セイレーンは美しい顔をあげて、にっこりと微笑んだ。

思わず誰もが魅了されてしまうほどの美しい笑顔だったけれど、ケットシーは訝し気に眉を顰めた。


「殿下を無理矢理、海へ連れ帰ったりはしない、と。

 そうお約束、いたしましたね?」


驚いた、というように、セイレーンは目を丸くした。


「もちろん。無理矢理なことなどしておりません。」


「しかし、これは!」


「水に還りたい。

 この子のなかには、その思いがありました。

 ならば、その望みを叶えてやりたい、と思ったまでです。」


セイレーンはきっぱりと言い切った。


「殿下にはすべての真実をお話しした後、陸と海、どちらを選ぶかは殿下の意志に任せる。

 それがお約束だったはず。

 こんなふうに眠らせて、本人の意志とは関係なく海へ連れて行くのは、約束違反です。」


ケットシーはなんとしてでも行かせるまいとするように、セイレーンの前に立ち塞がった。

セイレーンは分からず屋の相手にうんざりしたように肩を竦めてみせた。


「たった今、この子のからだが変わっていくのを、その目でご覧になったでしょう?

 もしも、この子自身がそれを望まぬのなら、こんなふうに変容することはありません。

 これは、この子の望んだことなのです。」


セイレーンは愛おし気に眠っている甥の顔を見た。


「むしろ、この子の意志も確かめずに、この子のなかの母親から引き継いだものを封じた。

 そうなさったのは、この子の父親でしょう?

 そうすることで、わたくしたちから、この子の存在をずっと隠し続けた。

 もちろん、それが父親としての愛情からしたこと、だと、想像することはできます。

 けれど、ならば、わたくしたちとて、肉親の愛情から、この子を傍に置きたいと思います。」


ケットシーを見つめ返したセイレーンの瞳には、絶対に譲らない強い意志が見えた。


「本来あるべき姿を、完全に覆い隠すことなど、できはしません。

 封じられていたものは、少しずつ、少しずつ綻んで、今、とうとう、最後の封印も解けました。

 だから、今ようやく、この子は、この子の本来の姿へと戻っていくのです。」


セイレーンの主張には、間違っているところはひとつもない。

とはいえ、このまま枯野を引き渡してしまうわけにもいかない。

ケットシーは、この難関を打開する策はないものかと迷うように髭を撫でた。


「ならば、せめて、殿下が目をお覚ましになるのをお待ちください。

 殿下ご自身の口から、それを望むと伺えば、我輩も大人しく引き下がりましょう。」


「陸の生き物から水の生き物への変容は、そう簡単には終わりません。

 今しばらく、この子は目を覚ましたりはしないでしょう。

 ならば、このような狭い舟のなかに寝かせておくのも可哀そう。

 ゆったりとした寝台で休ませてやりたいと思うのは、伯母として、当然のことでしょう?」


慈愛に満ちた伯母の目になって、セイレーンは枯野を見た。


「この子は、愛しい妹の忘れ形見。

 ずっとずっと、探し続けた、でも、帰ってこなかった、あの子の残した子どもなのです。

 せめて、変容の終わるまでだけでもいい。

 この子のことを世話してやりたい。

 それは、無理な望みですか?」


ケットシーは、ぐっ、と言葉に詰まった。

セイレーンはさらに言葉を重ねた。


「お約束しましょう。

 目を覚ましたこの子が、陸へ戻りたいと言えば、わたくしたちは引き止めたりいたしません。

 しかし、もし、この子が海を選ぶときは、わたくしたちは、この子を家族として迎え入れましょう。」


「・・・しかし、姫様、殿下には、陸に大勢、仲間たちもいるのです。

 その者たちは、殿下のことを心配もいたしましょう。

 殿下とて、それは望まぬのではありませんか?」


ケットシーはなんとか食い下がろうとした。

しかし、セイレーンはにっこりと微笑んで、ひとつ頷いてみせた。


「ならば、どうか貴方様が、この子のお友達にお伝えくださいませ。

 この子は今、大切な変容を果たさなければならない状況にあるのだと。

 時が至れば、また、みなさんの許に戻ることもあるかもしれません。

 それまでの間、どうか、ご心配などなさいませんように、と。」


淀みなく話すセイレーンに、ケットシーは疑い深い目を向ける。

その目をはっとしたように見開いた。


「その、変容、とは、いったいどのくらい、時間がかかるものなのですか?」


ケットシーのその質問に、セイレーンはほんの少し、困った表情を浮かべた。


「さて・・・しかとは、申せません。

 なにせ、海の底の時間の流れは、陸の時間の流れとは、少しばかり違っておりますから。」


「!

 ならばやはり、今、連れ帰っていただくわけには!」


話している間に、ケットシーは気づかないまま、位置をセイレーンと入れ替わっていた。

セイレーンは、もうそれ以上話すことはないとばかりに、枯野を抱えて海へと滑り込んだ。


「その舟は、自然と陸へと帰るようにしてあります。

 それでは、今度こそ、ごきげんよう。」


セイレーンはそれだけ言い残して、枯野を連れて海へと潜っていく。

舟に取り残されたケットシーに、もはやなすすべはなかった。








 

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