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みるみる近づいてきた貝の舟に乗っていたのは、美しい人魚だった。
ぱっと見た感じは、まだ少女と言ってもよいほどに若々しい。
素肌に中身の透ける薄い衣を一枚だけ羽織っている。
人で言えば膝の辺りで折り畳まれた下半身は、七色の鱗に包まれて、妙に艶めかしかった。
目のやり場に困るその姿に、枯野は、慌てて視線を逸らせた。
「オカエリ。ウミノコ。」
人魚はたどたどしい発音でそう言った。
どこかぎこちない甘い声に、背筋がぞくりとするのを枯野は感じた。
「・・・枯野、です。」
枯野は、うつむいたまま、ぼそりとそう呟いた。
人魚は、幼い子どもを抱きしめようとする母親のように、枯野にむかって、両腕を広げてみせた。
けれど枯野は、一歩も動けないまま、ただじっと下をむいていた。
人魚は異国の言葉で何か枯野に話しかけた。
何を言っているのか分からなくて枯野が黙っていると、妖猫が通訳してくれた。
「わたしはあなたのお母さんの姉です。
愛しい甥を抱きしめさせてください、って言ってるニャ。」
「へ?いと・・・?
へ?抱きしめ、って・・・!」
おろおろする枯野に、妖猫は、あーという顔になって、人魚にむかって何か言った。
人魚は、ふんふん、と頷いていたが、枯野にまたなにか言った。
「恥ずかしがり屋さんなのね?仕方ない、抱きしめるのは諦めましょう。
でも、宴の用意をしてきたから、どうか、ついてきてください。
って、言ってるニャ。」
妖猫は人魚の口真似をするようにすらすらと話した。
人魚は、これも通訳してほしい、というように、重ねて妖猫に言った。
「おじい様におばあ様、それからたくさんの伯母さんたちが、あなたを待っています。
みんな、あなたに会えることを、とてもとても楽しみにしていたのよ。
だそうニャ。」
「あ。それは、有難うございます。
けど、あの、えっと・・・」
「ああ。そうだったニャ。」
枯野の困り果てている原因に気づいて、妖猫はなにかごそごそとしていた。
「坊ちゃん、もう顔を上げても大丈夫ニャ。」
枯野が恐る恐る顔を上げると、人魚は妖猫の上着を着せかけられていた。
華奢な素肌にかっちりとした男物の上着を着せられた人魚は、見ようによっては余計に艶めかしい。
しかし、枯野はもう余計なことは考えないと心に決めた。
人魚は器用に尾で立つと、枯野のほうに白い腕を伸ばした。
立っても、枯野よりもずっと小柄だ。
若々しい容姿は、とても伯母とは思えないほどだった。
「甥が立派に育って、とても嬉しい、だそうニャ。」
人魚が小さく呟いたことも、妖猫は律儀に通訳してくれた。
しかし、今更ながら、血の繋がった伯母と甥なのに、同じ言葉を話さないのだなと、枯野は思った。
人魚は、枯野を促すように、その腕を舟のほうへと動かしてみせた。
「舟に乗りなさい、って言ってるニャ。」
貝の舟は、三人乗っても十分なくらいに大きかった。
枯野は言われるまま、舟に乗ろうとした。
乗る直前、妖猫は、すっと枯野の腕を引き止めて、小さく耳打ちをした。
「あちらへ行ったら、どんなに勧められても、あちらの食べ物を口にしてはいけないニャ。
またここへ戻りたかったら、それだけは、守るニャ。」
枯野は表情を変えないようにちらりと妖猫を見てから、小さく頷いた。




