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枯野と琴  作者: 村野夜市
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開いた光の先は、温かい海だった。

どこまでも続く真っ白い砂浜を、枯野は引き寄せられるように、海へと近づいて行った。


ちゃ、ぷ、ん・・・ざ、ざ、ざ・・・


足元に、その波を感じたとき、全身が打ち震えるような感覚を覚えた。

ぞくり、ぞくり、と、波は、自分のなかにまで、打ち寄せてくるようだった。


これが、海。


京に連れられて、海辺までは行った。

けれどあのときはどうしてか、海に足を浸す勇気はなかった。

海に近づいてはいけない。

そう強く思う気持ちが、枯野の足を引き止めていた。


父さんは、俺に、海には行くな、と言った。


枯野は、幼いころのことを思い出した。

それは、初めて、山の淵で泳いだときのことだった。

父親は、枯野に釣りを教えてやろうと、そこへ連れて行ったのだ。

けれど、深い青緑の水を見た途端、枯野は躊躇いもなく、そこへ飛び込んでいた。


着物は着たままだったけれど、少しも不自由には感じなかった。

むしろ、空気のなかよりも、自由に動ける。

水のなかは、要らない音は一切聞こえない。

これほどにのびのびといられる場所は他にはない。


息が苦しいとは思わなかった。

ただただ面白くて、楽しくて、深くて青い水の底に、枯野はずんずんと潜って行った。


はっと我に返ったきっかけは、なんだったのだろう。

静かな水のなかで、枯野は、確かに、父の声を聞いた。

喉が引き裂かれそうなほど声を張り上げ、枯野の名を呼ぶ父の声を。


その一瞬後。

ざぶん、という音がして、何かが水に飛び込んだ。

それから、ひどく苦しそうに暴れる波動が水の中を伝わってきた。


枯野は、慌てて引き返した。

薄い紗の布を一枚ずつ剥ぐように、視界は明るくなっていく。

その視線の先に映ったのは、たくさんの泡と、溺れている父の姿だった。


ぐったりした父を連れて、枯野は岸に上がった。

幸い、父はすぐに息を吹き返した。

それから、心配そうに見ていた枯野を抱きしめて、おいおいと泣いた。


こんなふうに取り乱した父を見たのは初めてだった。

いつも、どんなときも、穏やかに微笑んでいるような父だった。

けれど、そのときの父は、真っ青になって、枯野に縋り付くようにして泣いていた。

危険な目に合ったのは、枯野ではなく、父のほうだったのに。

それでも、父は、枯野のことばかり、心配していた。


そのときから、枯野は、父のいるときには、水には入らないことにした。

それでも、一度知ってしまった水のなかの居心地のよさは、忘れることはできなかった。

ときどき、どうしようもなく、水のなかに行きたくなる。

いやそれは、行く、というより、還る、という感覚に近かった。


自分が本当にいるべき場所は、水のなかなのじゃないか。

幼い枯野は、そんなことを思った。

もちろん、狐は水のなかには棲めないことは分かっていたけれど。


いつかきっと、水に還ろう。

どうしてそんなふうに思ったのかは分からないけれど。

枯野はずっと、そう思っていた。


父に心配はかけたくなかったから、枯野は決して、それを口には出さなかった。

ただ、父の留守の間に、ひとりで山の淵へ行って泳いだ。

隠れて泳いでいることを、父は気づいていたのじゃないかと思う。

ただ、それを禁じることはしなかった。


ただ、父は言った。

海には行くな、と。


今、それを枯野は思い出していた。

そして、ああ、そうか、と、ごくごく自然に、すべて理解した気がしていた。


母は人だったと、ずっと思っていた。

それは、そうだ、父がそう言ったからだ。

けど、母は人魚だった。

海は母の故郷だった。

どうしてそれを父は隠そうとしたのか。


多分、父は、分かっていた。

枯野が、水のなかに還りたいと、心の中で思っていたことを。


父さんは、俺に、海に還ってほしくないと、思っていたのかな・・・


穏やかに打ち寄せる波を見ていると、たまらなく、ぞくぞくする。

それは、胸の内側から、海の波のように盛り上がり、押し寄せてくる。

一歩、二歩・・・

海へと歩きだそうとしたときだった。


「ちょっと待つニャ。

 我輩、水のニャかは、ひじょーに、苦手ニャ。

 あちらさんが、ここに来るまで、ちょっとここにいてほしいニャ。」


はっとして、枯野は振り返った。

ここに連れてきてくれた妖猫は、困った顔をして枯野を見ていた。


「あ。すみません。

 分かりました。」


枯野は頷いた。


そのとき、海のずっとむこうで、ざざざざざ、とひときわ大きな波が盛り上がった。

波の上には、大きな貝殻と、その貝に乗った人らしきものの姿が見えていた。



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