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枯野は、どう言っていいか、分からなかった。
目の前で泣き伏す哀れな人間に、怒りはわいてこなかった。
ただ、ひたすら、悲しくて、それから、虚しかった。
「・・・許します、って、俺は、そう、言えばいいのかもしれませんけど・・・」
枯野はゆっくりと重い口を開いた。
「すいません。俺、そう言っていいのか、どうか、分かりません。
そもそも、俺には、貴方を責める、気持ちもありません。
許すかどうかは、母親の決めることのような、気もします。
けど俺、母親も、貴方のことは、まったく責めてなかったんじゃないかな、って思うんです。」
枯野は、貴人の傍に膝をついてそっとその背中に手を触れた。
「俺、母親のことは、まったく覚えてなくって・・・
ずっと、人だって思ってて、人魚だったなんて、それすら知りませんでした。
父親は、母親の話はいやってほどしてくれたけど。
なにからなにまで、全部話してくれてたわけじゃなかったんだ、って、改めて思います。
だけど、父は、母がどんな人だったか、って話はよくしてくれました。
そこには、父の主観、みたいなのも、けっこう、入ってるとは思いますけど。」
花を見ても、鳥を見ても、嬉しそうに笑っていた。
父親の語る母親は、そんな人だった。
誰かを恨んだり、憎んだり、そんな話は、一度も聞いたことがなかった。
母の辿った運命は、酷く過酷なものだったと思う。
そんな目に遭っても、誰も恨まなかったなんて、信じられない気もする。
けれど、それでも、母は、誰も恨まなかったのだろうと思う。
父の語る母は、そういう人だった。
貴人は、枯野を拝むように手を合わせた。
ほろほろと、涙が零れ落ちた。
枯野は、貴人の気の済むまで、ずっとその背中をさすり続けていた。
やがて、疲れ果てて貴人は、眠ってしまった。
その寝顔は、不思議なほどに安らかだった。
貴人が寝入るまで、妖猫はずっと黙って様子を見守っていた。
貴人が眠ったのを見届けると、妖猫は、剣を取って、宙にくるりと円を描いた。
すると、そこに、暗い穴が開いた。
「さてと、ここはこニョくらいにして、お次に行くニャ。」
枯野は黙ってうなずくと、妖猫に続いて、穴に飛び込んだ。
暗い暗い闇のなかを、妖猫は先に立ってすぃすぃと進んでいく。
枯野も押し黙ったまま、それについていった。
「・・・オトドには、いろいろと世話にニャったニョニャ。
この国で自由に動いて回るには、オトドの力は、とても有効だったニャ。
オトドの協力ニャしには、我輩も坊ちゃんを見つけることは、到底無理だったニャ。
だから、坊ちゃんをオトドに会わせたニャ。」
妖猫は振り向かないままで、そんなことを話し始めた。
「我輩は、坊ちゃんニョ母上ニョ行方を、ずっと探していたニャ。
花街ニョ歌姫をしていたところまでは、ニャんとか突き止めたニャ。
けど、その先は、杳として分からニャかった。
オトドとは、その途中、知り合ったニャ。
オトドも、母上の行方を捜していたニャ。
見つけて、どうしても、謝りたい、と言っていたニャ。
結局、母上は見つからニャかったけれども。
坊ちゃんに謝ることができて、オトドも気が済んだと思うニャ。」
「俺には、あの人に謝ってもらう資格はありません。」
枯野はぼそりと返した。
「自分のこと、可哀そうだ、って、思いたくなったことは、俺にもあるし・・・
他人がどう思おうと知ったことか、ってのは、俺も思ったこと、あります。
それに・・・
俺には、大事な恩人がいて、その人のためなら、なんでもできます。
もしその人が重い病にかかって、人魚の肉があれば、その命を救えるとしたら・・・
俺は、躊躇いもなく、人魚を殺すと、思います。」
枯野はため息を吐いた。
「あの人の両親のを恐ろしいと思うなら、俺は、自分も恐ろしいと思う。
俺にはあの人は責められないし、だから、許すもなにもありません。」
「謝りたいってのは、謝ったほうの気が済むだけ、って話しもあるニャ。」
妖猫は軽く言った。
「オトドのことを知ったとき、我輩、最初は、こらしめてやろうと、脅かしたニャ。
母上を酷い目に合わせた報いを受けろ、と思ったニャ。
けど、オトドは、恐ろしい怪物に喰われそうにニャっても、逃げなかったニャ。
ただ、両手をすりすりして、謝るのニャ。
よほど、母上に謝りたかったニョニャ。」
妖猫は枯野のほうをじっと見つめた。
「坊ちゃんは、オトドの話しを全部聞いてやった。
オトドにとっては、それで十分ニャ。
我輩、オトドとは結構、長い付き合いニャ。
けど、あんなふうに笑って止まらニャくニャるってのは、初めてニャ。
きっと、坊ちゃんに会えて、本当に嬉しかったニャ。」
妖猫はまた前をむいて、進み始めた。
「次に会う方は、坊ちゃんに会えば、もっと喜ぶはずニャ。
最初、坊ちゃんを探す、いや、正確には、坊ちゃんの母上を探すことを依頼した方ニャ。」
「母さんを、探すことを、依頼した?」
「我輩のご主人様は、たいそう寒がりで、毎年、冬は、あったかいところへ行って過ごすニャ。」
突然、妖猫の話が飛んで、枯野はきょとんとなった。
妖猫は枯野の反応にも構わずに、話を続けた。
「ある年は、あたたかい海辺で一冬を過ごしていたニャ。
すると、海の人魚がご主人様を尋ねてきて、妹を探してほしい、とお願いしたニャ。
うちのご主人様は、人魚の話を聞いて、たいそう気の毒に思ったニャ。
それで、我輩に、妹君を探して差し上げるように、命じたニャ。」
「妹?」
「そうニャ。
だから、次にお会いするのは、坊ちゃんの伯母上にあたる方ニャ。」
妖猫はいきなり立ち止まると、被り物を取って、恭しくお辞儀をした。
妖猫の差し伸べた腕の先には、またあの、白い光が、まあるく、輝いていた。




