68
妖猫について飛び込んだ光の向こう側は、お屋敷の一室だった。
贅沢に畳を敷き詰めた広い部屋の真ん中に寝具があって、初老の男がひとり、横になっていた。
部屋のなかには余計な物はなにもなく、わずかにある調度類は、どれも見事な逸品ばかりだ。
病人の傍には看病をする僧侶がひとりだけついていた。
ただ、几帳の向こう側には、何人か控えている者もいるようだった。
「ただいま戻りましたニャ。」
妖猫はごく普通の挨拶をした。
病人も僧侶も、立って歩いて話す猫に、驚いた様子はなかった。
病人は何も言わず、静かに僧侶に目配せをする。
僧侶はそれだけで心得て、几帳の向こう側の者たちに声をかけて、退出した。
人払いをすると、病人は、寝具の上にからだを起こそうとした。
それを見た妖猫は、急いで病人の傍に駆け寄ると、からだを起こしてやった。
病人は、重い病なのか、青白く痩せこけ、やつれて見えた。
「オトド、姫のご子息をお連れしましたニャ。」
オトド?
耳慣れない言葉に、枯野は首を傾げた。
ああ、大臣、か。
なるほど、この病人は、そう呼ばれるほどの貴人らしい。
だとすれば、この贅沢な屋敷の設えも合点がいった。
病の床に就いていても、身形もどこかきちんと整えられているのも納得だった。
妖猫は、枯野を指し示すように腕を伸ばした。
貴人は、らんらんと光る目をして、枯野のほうを見た。
妖猫についてきた枯野は、下りたその場所に呆然と立ち尽くしていた。
貴人と目が合って、枯野は、気まずそうに、わずかに頭を下げた。
部屋のなかには、隠しようのないほどの、重い病の匂いが漂っていた。
この貴人の命は、もうあまり長くはないだろうと思えた。
離れた場所に立っている枯野に、貴人はゆっくりと頭を下げた。
「よく、きて、くださった。」
息が切れるのか、貴人は、一語一語区切るようにして話す。
力のない声は、かすれて、喉にからみつくようで、聞き取りにくかった。
貴人は、枯野の足元をじっと凝視していた。
つられて足を見た枯野は、履物を履いたままだったことに気づいて、慌てて脱いだ。
「っす、すいません、俺・・・
その、さっきまで、外にいて・・・
それで、あの、なんか、奇妙な、穴?みたいなところに落ちて・・・」
なんとも説明し難い。
しどろもどろの言い訳をする枯野に、貴人はゆっくりと首を振った。
「どうか、お気に、なさらず。
無理を、言って、貴方を、連れてきて、もらったのは、わたしだ。
それより・・・」
貴人はいったん言葉を切ってから、思い切ったように枯野に言った。
「大変、失礼な、ことだ、が、足を、見せて、もらえまいか?」
貴人に言われたことに、枯野はきょとんとなった。
けれど、すぐに着物をたくし上げて、堂々と両足を貴人の前に晒した。
枯野のしたことに、貴人のほうも驚いたようだった。
目を丸くして一瞬、動きを止めたかと思うと、次の瞬間、くすくすと笑い出した。
貴人の笑い声は、部屋のなかの淀んだ空気を少しばかり柔らかくした。
穏やかな優しい笑い方は、どこか、枯野の父親を思い出させた。
枯野は少しばかり貴人に対して警戒心が解けていくのを感じた。
枯野のしたことがよほど面白かったのか、貴人はいつまでも笑いやまなかった。
そのうちに、けほけほと咳込み始め、息もぜいぜいと苦し気になった。
それなのに、貴人はいつまでも、笑い続けていた。
「足全部、じゃなくて、いいニャ。
かかとのところを、ちょこっと、見せるニャ。」
見かねて、妖猫が横から言った。
枯野は、ああ、という顔になって、恐る恐る、貴人の傍へと近づいた。
それから、かかとをよく見えるように持ち上げてみせた。
「おう・・・確かに・・・鱗の形の痣だ・・・
貴方は、間違いなく、あの方の、ご子息、なのだな?」
貴人は枯野のかかとにある痣に手を伸ばすと、大切そうにそっと撫でた。
貴人の手はかさかさしていて、ひどく冷たかった。
「・・・これは、生まれたときから、あるそうです。」
枯野は貴人に言った。
こんな痣のことなど、もうずっと忘れていたけれど、遠い昔、父親からそう聞かされた気がする。
けれど、貴人にとって、枯野の足の痣は大事なことのようだった。
慈しむような目でそれをじっと見つめていた貴人は、視線を枯野の顔のほうに移して微笑んだ。
「その顔も、どことなく、母上に、似て、おられる。
ことに、髪と瞳の色は、生き写しだ。」
「・・・それは、父親も、よくそう言ってました。」
枯野にとって、周囲から浮く毛色と瞳の色とは、なかなか好きになれないものだった。
それでも、それは顔も知らない母親から受け継いだものだと、ずっと父親がそう言い続けたから。
だから、嫌いにはなりきれないものでもあった。
「もう少し、こちらへ。
よく、顔を、見せて、もらえまいか?」
貴人は枯野を招くように手を動かす。
枯野は、自分が近づくと、貴人の上等な寝具を汚してしまいそうな気がして躊躇した。
貴人の寝具も着物も、一見すると質素なもののようだけれど、その実、質のいい立派なものだった。
「俺・・・その・・・旅、の途中、だったんで・・・
あんまり、きれいじゃない、というか・・・」
貴人はゆっくりと首を振った。
「構わない。
貴方は、大切な、客人だ。
ずっと、お会い、したくて・・・
もうこれで、思い残すことは、なにも、ない・・・」
いや、とひとつ首を振ると、貴人は、寝具の上に両手をついて、枯野にむかって頭を下げた。
「わたしは、貴方に、謝らなくては、ならない。
そのために、貴方を、連れてきて、もらったのだ。
本当に、申し訳ない、ことをした・・・」
「は、い?」
枯野は首を傾げた。
目の前の貴人に見覚えはないし、見ず知らずの貴人に謝られる理由も思いつかない。
そんな枯野に、貴人はもう一度姿勢を正して、すまない、と頭を下げた。
「わたしの、せいで、貴方の、母上は、追われる身に、なった・・・」
「母は、謡で大勢の人を惑わせた。
だから、追討されることになった、そう聞いていますが・・・」
「表向きは、そういうことに、なっている。
けれど、実際には、少し、違うのだ・・・」
貴人は深いため息を吐くと、話し始めた。
「わたしは、幼い頃から、病がちで、大人になるまでは、生きられないだろうと、言われていた。」
子どものころからからだの弱かった貴人を憐れんだ両親は、甘やかし放題に甘やかしていた。
裕福な家の力もあって、貴人は、若いころから、やりたいことはなんでも叶えられた。
遊びにのめりこみ、放蕩三昧をしていても、誰も、貴人を責めたりしない。
やりたくないことは、全部、他人に押し付けて、やりたいことだけやって生きていた。
それでも、自分は長くは生きられないという思いは、いつも、胸のなかに重くのしかかっていた。
何も成し遂げられず、儚く消え去るだけの運命は、そう簡単に受け容れられるものではない。
それでも、受け容れるしかなかった。
そんな貴人は、いつもどこか投げやりで、なにひとつ、大切にしたことはなかった。
山奥の花街に、天上の謡を謡う歌姫がいる。
そんな噂を聞いて、貴人は、その謡を聞くために、わざわざ山奥まで出かけて行った。
通を気取っていた貴人は、田舎の歌姫など、大したものではないと高を括っていた。
下手な歌を聞かせたら、耳が汚れたとののしってやろう。
誰かを傷つけることに、抵抗などなかった。
世界で一番かわいそうな自分のために、他人は憂さ晴らしをさせてくれるべきだと思っていた。
「見世には、立派な、庭が、あって、そこには、大きな、池が、あった。
池の、真ん中に、舟を、浮かべて、潮音は、そこで、謡を、謡った。
客は、庭の、見える、座敷に、いて、酒を、飲みながら、謡を、聞く。
潮音を、座敷に、呼ぶ、ことは、できなかった・・・」
ときどき苦しそうに咳込みながら、貴人は話しを続けた。
「罵倒しようと、思っていた、気持ちは、あの謡を、聞いた瞬間、消え去った。
一度で、わたしは、潮音の、虜になった。
家に、帰っても、潮音の、謡が、耳から、離れない。
どうしても、また、聞きたく、なって、毎日のように、通い詰めた・・・」
不思議なことに、そんな無理をしても、貴人の病は悪化しなかった。
それどころか、むしろ、顔色もよくなり、生き生きとし始めた。
潮音の謡の虜になった貴人は、潮音を座敷に呼んで謡わせようとした。
しかし、どう頼んでみても、見世の主人はそれを請け入れない。
それでも、潮音の謡を聞きたい貴人は、毎日毎晩見世に通い続けた。
いや金に物を言わせ、見世の一番いい部屋を占拠して、そこで暮らしているも同然の状況だった。
帰ってこない貴人を心配した両親は、とうとう、見世まで様子を見にやってきた。
貴人は、天上の歌声を持つ歌姫のことを、両親に話した。
あれほどの歌声を、もっと近くで聞いてみたい。
珍しい歌を歌う小鳥のように、鳥籠に入れて、ずっと傍に置いておきたい。
貴人はここぞとばかりに、両親にそれを願った。
それさえ叶うのならば、真面目になり、家のために働くと約束した。
すっかり健康そうになった貴人の様子に、両親は驚き、喜んだ。
そうして、なんとしても、あの歌姫を貴人のために手に入れてやろうとした。
しかし、金子を山と積んでも、力を使って脅しても、見世はそれを断り続けた。
そんなあるときだった。
「我慢、しきれなくなって、わたしは、とうとう、自ら、池に、飛び込んだ。
潮音の、乗る、舟まで、泳いで、いこうとした。
庭に、作った、池、だ。そんなに、深い、はずは、ない。
歩いて、行く、ことすら、できるのでは、ないか。
そう、みくびって、いた。
けれども、水のなかを、歩くことは、それほど、簡単では、なかった。
それに、池は、思ったよりも、深かった。
水を、吸った、着物は、重く、足を、取られて、わたしは、転び、溺れそうに、なった。」
貴人の付き人たちは、咄嗟のことに驚いて、右往左往するばかりだった。
付き人とはいえ、皆、貴族の子弟ばかりだ。
池に飛び込んで泳いだことのある者など、ひとりもいなかった。
そのときだった。
舟の上で謡っていた潮音は、着物のまま、池に飛び込んだ。
誰もが驚いたことに、潮音は泳ぐのがとてもうまかった。
着物を着たまま、すいすいと、自由に水のなかを動き回った。
潮音のその姿はとても美しくて、呆然と見惚れる者すらあった。
そうして、潮音は、溺れた貴人を助けて、岸に連れ戻った。
潮音は、天女のように、ひらひらと裾の長い衣を身につけていた。
水のなかにいたとき、その薄い衣は、ぴったりと、潮音の足にはりついていた。
いや、足ではないものに、はりついていた。
それが見えたのは、ほんの一瞬だった。
けれど、噂の種になるには、十分だった。
その噂はあっという間に拡がった。
天上の歌姫の正体は、人魚。
人を誑かす悪い妖だと。
追討令が出たのはとても早かった。
おそらく、貴人の両親も、裏から手を回したのだろう。
そして、貴人の両親の目的は、潮音を捕まえることだけではなかった。
貴人は、じっと一点を見つめたまま、恐ろしそうにからだをふるわせた。
「・・・母は、わたしに、こっそり、言った。
人魚の、肉は、不老長寿の、妙薬らしい。
それを、食べれば、わたしも、長生きできる、と。」
それから、貴人は、両手を合わせ、縋るように、枯野を見た。
「許して、ください。
わたしも、そのとき、それを、願った。
この手に、入らぬ、もの、ならば、いっそ、と・・・
どうか、許して、ください。」
そのまま貴人は、寝具にうち伏して、激しく泣き始めた。




