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こんな日くらい、せめて風音の枕元にいて、一晩中、燈明の番をしていたい。
琴音はそう思った。
風音の具合がよくないので、最近では客人の訪れはほとんどなくなっていた。
それなのに、よりによって、こんな日に、だなんて。
聞けば、一見の客だとか。
義理もなければ、馴染みもない。
そんな相手のために、風音をひとりきりになんてしたくなかった。
けれど、もし風音がこれを聞けば、絶対に行けと言うだろう。
折角の好機だ逃してどうすると、叱咤激励するだろう。
しばらく客の途絶えていた見世に、とても有難い客なのは間違いない。
琴音はため息を吐いた。
仕方あるまい。適当にあしらって、早く帰ってもらおう。
わたしは、姐さんの域にはまだまだほど遠いようです。
心のなかで恨み言をつぶやいてから、琴音は、座敷の襖に手をかけた。
すすっ、と開いた襖の向こうは、がらんとだだっぴろいお座敷だった。
見世のなかでも、一番広くていいお座敷だ。
昔なら、大勢の宴会などのときに使われていた部屋だ。
あまり細かいことはよく知らないけれど、部屋代だけでも、かなりいい値だったと思う。
風音の客でもこの部屋を使っていた客はいなかった。
その広い座敷の端にぽつんと、膝をかかえるような格好をして、その人は座っていた。
「ああ、サ・・・琴音さん?
大丈夫、ですか?」
琴音の姿を見るなり、客人はいきなりそう声をかけた。
こんな広いお座敷で、この人は一体、何をしているんだろう?
琴音がそんなことを考えていた隙に、客人は一瞬で琴音の傍に来ていた。
傍に立つと、客人は見上げるほどの大男だった。
背だけではなくて、からだ全体が、がっちりとして大きい。
幅も奥行きも、琴音の倍はありそうだ。
枯草色の髪は、わさわさと量が多くて、背中に波打つ、というか、絡まりあっている。
一応、束ねてはあるらしいが、まったくまとまっていない。
まるで、焚火をしようとまとめてあった落ち葉の山を、そのまま頭に載せてきたみたいだ。
と思っていたら、ぽろり、とそこから一枚、葉っぱが落ちた。
「ええっ?」
「ええっ?!」
琴音が驚いて葉っぱを見ると、客人はもっと驚いた声を上げた。
それから、あの大きなからだをどう動かしたのか、電光石火の早業で、葉っぱを拾って隠した。
けれど間違いない。あれは確かに葉っぱだった。
よく、狐や狸の類は、頭に葉っぱを載せて人の姿に化けるというけれど・・・
琴音は、まじまじと目の前の大男を見つめる。
残念ながら、か、どうなのか、その姿は、どろんと狐狸の類に変化したりはしなかった。
琴音に不審の目を向けられていることに気づいて、客人は、誤魔化すように、へへへ、と笑った。
笑うと笑顔は存外幼かった。
実は、年も、琴音とそう変わらないかもしれない。
風音の客は遊び慣れた粋の分かる大人ばかりだった。
それに比べると、この客人はまだずいぶんと若いようだ。
ちらりと見えた瞳は綺麗な緑色をしていた。
渡来人の血を引いているのかな、と琴音は思った。
客人は困ったような顔をしながら、いきなり、ぐい、と琴音のほうへ両方の腕を差し出した。
「っこ、これ、あの、風音さんに。
っそ、それから、その、こっちは、見世のご主人と、琴音さんに。」
片方の手には花束が、そしてもう片方の手には、何やら詰まった袋が握られていた。
竜胆、桔梗、撫子、小菊・・・
どことなく見覚えのあるような花ばかりだ。
このところ冷え込むようになって、野山の花もあまり見なくなっていた。
けれど、どこで摘んだのか、それは一抱えもある立派な花束だった。
袋のほうは、恐る恐る受け取ったら、思わず取り落としそうになるくらい、重たかった。
琴音がふらつくと、客人は慌てたように手を伸ばして、袋を支えてくれた。
ほんの一瞬だけ近づいたそのとき、ふわりとどこか懐かしい、日向くさい匂いがした。
けれど、それはほんの一瞬だけで、客人はあわてたように琴音から距離を取って後退った。
床に置いた袋を開いてみると、白米がずっしりと詰まっていた。
「こんなときに、無理を言って、悪かった、です。
どうしても、貴女のことが気にかかって、一目でも、顔を見たくて。
あの、気を落とすな、とか、そういうこと、言われたって、無理だと思うけど。
どうか、その・・・」
口下手なのか、おろおろと言い募ってから、くそっ、と焦れたようにいきなり拳で自分を殴った。
ごすっ、と傍で聞いても、かなりいい音がした。
「ごめんなさい。
あの、俺、人のこと慰めたこととか、あんま、なくって。
けど、辛かったら、泣いたらいい、と思います。
今、ここ、誰もいませんから、よかったら、その、泣いてください。
俺、邪魔だったら、出ていきます。」
呆気に取られて客人を見ていた琴音は、思わず、ふふ、と笑みを零していた。
どうやら、この客人は、琴音の事情を知っているらしい。
直接ではなくとも、なにか、伝手のある客なのかもしれない。
「主様は、どなたか、姐さんの御馴染みのお知り合い、とか?」
「は?ぬし?
いや、俺べつに、沼のぬし、とかじゃないし・・・
姉さんもいないし、ナジミノシリアイ・・・?」
首を傾げる客人に、琴音は苦笑して言い直した。
「貴方様は、風音姐さんのお客様のお知り合いかなにかでいらっしゃいますか?」
「へ?
ああ!
いや。俺は、誰ともお知り合いじゃない、です。
ここに上ったのも今日、初めてだし。」
「まあ。花街遊びは初めてですか?」
「え?
あ、ああ・・・
俺、あんま、遊ぶ柄じゃない、ってか・・・
遊んでるくらいなら、米買うほうがいい、ってか・・・
あ!
いや、こんなこと、花街の人に言ってどうする・・・
っす、すいません、ブチョウホウモノ、とか言うんですよね、俺みたいなの。」
おたおたする客人に、琴音は気が抜けたように微笑んだ。
このお客人、若いけれど、どこかのぼんくら息子といった風情でもない。
通好みの多かった風音の客とは、完全に一線を画している。
身形は悪くはないけれど、派手ということもない。
しかし、花街遊びをする人間には、あまり、いや、まったく見えない。
なんなら、どこかの大店の手代かなにかをしているほうがよく似合う。
こんな人が、ここへいったい何をしに来たのだろう。
貴女のことが気にかかって。
確か、さっきそんなようなことを言っていたけれど。
しかし、心配されるほどに、親しくなった覚えもない。
というより、間違いなく、今日、初対面だ。
なかなかに目立つ容姿をしているから、一目でも会ったことがあれば覚えていないはずはない。
「ごめんなさい。
俺、もう、行きます。」
琴音が黙っていると、客人はしょんぼりとそう言って立ち去ろうとした。
それを、思わず琴音は引き止めていた。
「待って!
あ、あの・・・有難う、ございます・・・」
とっさに口からこぼれたのは、感謝の言葉だった。
けれどそれで、自らの心にも気づいた。
自分はこの見も知らぬ若者の気遣いが、今、とても嬉しいのだと。
静かに頭を下げる琴音に、若者は驚いたように両手を振った。
「いや!あの、お礼言われるようなことじゃない、って言うか。
俺は、その、貴女が大丈夫か気になって・・・
ほんと、どうしようもなくて・・・
あ!でも、もう、帰ります。
お邪魔しました。ごめんなさい。」
この座敷に通るだけでも、それなりに金子はかかったはずだ。
なのに、このお客人は、酒も飲まず、料理も口にせずに帰ると言うのか。
琴音もまだ、歌のひとつ、舞いのひとつも、披露していないと言うのに。
貴女が大丈夫か、気になって。
その言葉が、思ったより胸に響いた。
気が付くと、ほろほろと涙があふれだしていた。
ああ、そうか、自分は泣きたかったんだ、とようやく分かった。
こんな状況なのに、どうしてかずっと涙は出てこなかった。
ただ、胸がつぶれそうに苦しくて、息をするのも辛かった。
ぎくしゃくと、手足を動かして、いつも通りにふるまおうとしていたけれど。
どこか、ここにいるのは、自分じゃないような、そんな心持だった。
けど、今、心とからだはひとつに繋がった。
辛く苦しくてどうしようもなく悲しい心が、ぽろぽろ、ぽろぽろと、零れて落ちていく。
「あ。」
琴音の涙を見た客人は、驚いたような声を漏らすと、おろおろと周囲を見回した。
助けを求めるような視線で見回すけれど、だだっ広い部屋のなかには、ふたりの他に誰もいない。
客人は、諦めたようなため息を吐くと、もう一度視線を琴音に戻して、困ったように言った。
「あの、俺、どうしましょう?」
「はい?」
いきなりそんなことを尋ねられて、琴音は思わず泣き笑いになった。
客人はますます困ったように付け足した。
「俺、出て行ったほうが、いい、ですよね?」
「・・・ここに、いてください。」
何故そんなことを言ったのか、琴音にも分からなかった。
それでも、今はこの若者に、傍にいてほしいと思った。
若者は驚いた目をして聞き返した。
「いても、いいんですか?」
「・・・こんな広いところで、ひとりぼっちで泣いてるのは、なんか、嫌です。」
はあ、なるほど・・・と若者は呟く。
「じゃあ、います、けど・・・
あの、なんか、お役に立てることはありませんか?
お茶かなにか、もらってきましょうか?」
居心地が悪いのかそわそわしている。
「いやそれは、わたしの仕事です。」
「そっか。厨とか、勝手にうろついたりしたらダメですよね。」
「いえ、そうではなくて。
そういうことは、お客様のなさることではありません。」
「そっか。」
しょんぼり、とまるで書いてあるような顔をして、若者は下を向いた。
「俺、なんか、できることは、ないんでしょうか?」
あんまり悲し気にそんなことを言うものだから、思わず琴音は言ってしまった。
「なら、あの、胸をお貸しください。」
「胸?
なんの稽古ですか?
俺、一応、その、並みの人間よりは、強い、と思うんですけど。
あんま達人、とかじゃないんで、手加減とかは、下手くそで。
貴女はその、腕に覚え、とか、ありませんよね?
だったら、下手したら俺、貴女に怪我、させてしまうかもしれなくて・・・」
なんの言い訳だか、つらつらと言い続ける若者の胸もとを、いきなり琴音はぐいと掴んだ。
「いいから!」
「あ。・・・はい・・・」
黙った若者の胸を借りて、風音は気の済むまで泣いた。