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枯野の背に乗っていた間の京の記憶はほとんどない。
ただ、闇のなかを、ひたすら前に前にと突き進む感覚しかなかった。
不安や恐怖は、一切、感じなかった。
ほんのり金色に光る枯野の背は、いつもふかふかしていて、強く揺すぶられることもなかった。
遠く後ろの山並みに朝日の差すころ。
三人は、潮騒の聞こえる海の傍に来ていた。
人目に触れる明るさになったので、ソウビと枯野は、再び人の姿に変化していた。
「・・・これが、海・・・」
三人は、並んで浜に立っていた。
枯野は思い切り潮風を吸い込んだ。
海の匂いが鼻腔を満たす。
生まれて初めて嗅いだはずなのに、それはどこか懐かしかった。
どこまでも続く海は、青く青くて、止まらない波は、ずっと打ち寄せてくる。
枯野と枯野以外のものを分ける境界を越えて、波は枯野の内側にまで押し寄せてきた。
枯野は、胸がざわざわして、どこか落ち着かない感じがした。
それは、不快ということではないけれど、心地よいとも言えない。
何か起こる前の、不安なような、でも、不安だけではないような。
そんな感覚が波と一緒に、ひたひたと胸に押し寄せていた。
父に言われた三つの禁忌。
とうとうそれを全部、破ってしまった。
今のところ、取り立てて、なにか変わったことも起きてはいない。
ただ、心のなかに、なにか、ひゅうひゅうと、風のようなものが吹き抜けていく。
風はどこまでも自由で、だけど得体が知れない。
この風とうまく付き合っていく自信などないけれど、でも、なんとかするしかない。
もう、逃げるわけにはいかない。守らなければならない人がいるのだから。
「海ってのは、ただのでっかい水たまりかと思っていたのに。
なんだい、ぞわぞわとずっと動いてやがるんだな。」
水の苦手なソウビは、不安そうに首をすくめていた。
「ここまで来りゃ、あとはもうすぐっす。
半日も歩けば、じっちゃんの家に着きます。」
京はふたりに元気を出させるようにわざと明るく言った。
「まあだ、半日も歩くのかい?」
ソウビは不満そうに顔をしかめた。
枯野はちらりと笑みを漏らすと、黙って浜沿いの道を先に歩き出した。
「あーあ。腹、減ったなあ。
なあ、どこか、食べ物を売っているところはないかなあ?」
しぶしぶついて来ながら、ソウビは文句を言い続ける。
「市とかさあ、ないのかよ?」
「この辺りには、市はないっすねえ。」
「けっ。海ってのは、ど田舎なのか?」
ソウビの言いように京は苦笑すると、いきなり浜に降りて、何やら流木を物色し始めた。
「え?どうすんだ?お前?」
ソウビは目を丸くして足を止める。
枯野も驚いたように京のすることを見守っている。
「こんなもんかなあ・・・」
手頃な枝を見つけた京は、帯に挟んだ小刀を使って、すいすいと枝を削り始めた。
みるみるうちに小さな手槍が出来上がっていく。
手槍を作った京は、いきなり着物を脱ぎ始めたかと思うと、あっという間に下帯一枚になった。
「じゃ、おいら、ちょいと、朝飯、獲ってきますんで。」
片手をあげてにこっと笑うと、そのまま海にむかって走って行った。
半刻ほど後。
三人は浜辺で小さな焚火を囲んでいた。
火の周りには、見事な魚が何匹も、串に差されて突き立っている。
じゅうじゅうと音を立てて、こんがり美味しく焼けている最中だった。
さっきから、ソウビも枯野も、魚から一瞬たりとも目を離さない。
いや、目を離せなくなっていた。
期待に胸は膨らみ、わいてくる唾を飲み込むのも忘れそうになる。
魚の焼ける匂いに、三人の腹が盛大な音を立てた。
京の、もう食べてもいいという合図を受けて、ソウビと枯野は、それぞれ魚の串を手に取った。
最初、恐る恐る、けれど次第に止められなくなって、魚にかぶりつく。
それは郷にいたころには口にしたことのないご馳走だった。
「ダンナ方、魚、食ったことないんっすか?」
ふたりの食べっぷりに京は驚いたように言った。
「あるにはあるけどよ。
あそこのはほとんど川の魚だ。
海の魚は、塩漬けか味噌漬けか、干物ばっかだからな。
こんな獲れたての海の魚は食ったことねえ。」
ソウビはむしゃむしゃと魚を頬張りつつ、そう説明した。
枯野のほうは、もう、口をきく余裕もないようだった。
京の獲ってきた魚はあっという間に平らげられ、後には腹の膨れた三人が転がっていた。
「いやあ、ダンナ方、よく食べますねえ。
流石にあんだけありゃあ、余るかと思ったのに。」
「ううううう。このソウビ様ともあろうものが、食いすぎて動けねえとか、ありえねえ・・・」
「くっ。海の魚が、これほどに美味いとは・・・
一刻も早く、行かねばならないというのに・・・」
悔しそうなソウビと枯野に京は思わず苦笑する。
それは宵闇を駆けていた金と銀の狐とは、また、かけ離れた姿だった。
「ダンナ方って、格好いいんだか悪いんだか、分かりませんね?」
「はあ?なんだと?
このソウビ様をつかまえて、よくもまあ、そんな口をきいたもんだ。
このソウビ様、郷始まって以来の美狐だと、有名なんだぞ?」
「確かに、ソウビのダンナは、美男だと思いますよ?
けど、おいら、枯野のダンナもなかなかだと思いますね。」
「そうだよ?こいつは俺の次に格好いい妖狐だ。
なんてったって、この俺様の相棒なんだからな。」
ソウビは得意げに断言した。
それから楽しそうに枯野のほうを見た。
「なあ、枯野、・・・って、え?」
枯野はソウビの声も耳に入らないように、一点を凝視している。
つられてソウビもそっちを見た。
すると、明るい海辺の景色に、ぽたりと墨を落としたように、小さな黒い点があった。
「なんだ?ありゃ?」
ソウビの間抜けな呟きに、はい?と京がからだを起こしたときだった。
小さな点はみるみる拡がって、真っ黒い闇になる。
明るい昼間だったはずなのに、あっという間にそこは闇に覆いつくされていた。
―― 狐よ。油断をしたな。
闇のなか、響き渡ったのは、以前、聞いたことのある影の声だった。
影は、頭が割れそうなほどの大音声で、哄笑した。
ソウビは、ちっ、と舌打ちをして身構えようとした。
けれども、その体勢の整う前に、闇は夢か幻のように一瞬で消え去っていた。
気が付くと、辺りはまた、あの長閑な海辺の景色だった。
目の前には、くすぶっている焚火も、さっきのままだった。
ただ、すぐ隣にいたはずの枯野の姿は、どこにも見えなくなっていた。




