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恐ろしい怪異があの琴を狙っている。
だから、あの琴は封印しなければならない。
琴音に知らされたのは、そのくらいのことだった。
お客のいろいろを詮索しないのは、花街の不文律だ。
琴音も、それはよく分かっている。
それでも、枯野のことはもっと知りたい。
枯野の力になれるなら、なんでもしたい。
そう思ってしまう気持ちは止められなかった。
「琴音。」
ぼんやりと舞をさらえていると、いきなり襖のむこうから名を呼ばれた。
はっとして我に返ったのと、襖を開いて、花野屋の老婆が姿を現したのは、ほぼ同時だった。
「おばばさま。」
琴音は畳に手をついて、静かに頭を下げる。
それに、老婆は、ああ、いいいい、そういうのはやめておくれ、と手を振った。
「少し、休憩をせんか?」
老婆は手に持ってきた盆を畳に置きながら琴音に話しかけた。
盆の上には茶と茶菓子が載っていた。
しかし、老婆の表情は、とてものんびりと茶を楽しみにきたようには見えなかった。
緊張した面持ちのまま、老婆は琴音に湯飲みを手渡す。
その手は少し震えていた。
「ねえ、琴音、実は少し、大事な話しがあるんだよ。」
老婆は自分の分の湯飲みを取ると、そう切り出した。
老婆の緊張は自然と琴音にも伝わって、琴音もからだを固くして老婆の言葉の続きを待った。
老婆はそんな琴音を見て、小さくため息を吐いてから、話し始めた。
「お前、枯野様のことを好いているのかい?」
いきなりの質問に琴音は目を丸くした。
しかし、嘘をついても仕方ないと思った。
琴音はひとつだけ、けれど、きっぱりと頷いた。
それを見た老婆は、さっきよりも深いため息を吐いた。
「枯野様は、潮音の息子、そう言ったよね?」
はい、と琴音は頷く。
そんな琴音を老婆はしばらく無言で見つめてから、諦めたように言葉を吐いた。
「なら、枯野様は、人間じゃない。」
突拍子もない台詞に、琴音は、はい?と首を傾げる。
それに老婆は、諦めたように続けた。
「潮音は人間じゃなかった。
とてもとても美しい娘だったけれども。
潮音のね、腰から下は、足ではなく、魚だった。
人魚、と言うのかね。
そういう怪物だったんだ。」
あまりに信じられない話に、琴音はしばらく反応ができなかった。
ただ、まじまじと老婆の顔を見つめ返しただけだった。
「枯野様は、潮音に髪の色も目の色もそっくりだ。
顔立ちもよく似ていると思う。
けれども、足は二本あるし、姿はどう見ても人間だ。
もしかしたら、枯野様は、父御の血のほうが濃かったのかもしれない。
そう思った。
いや、そう思おうとした。
けど・・・」
老婆は琴音の目をじっと見つめた。
「琴音、お前は、枯野様の謡うのを聞いたのではないか?」
琴音ははっと目を見開いた。
それだけで、老婆には答えは分かってしまったようだった。
「やはり。」
老婆は思いつめた目をして呟いた。
それから、低い声で、ぼつぼつと言った。
「その日から、枯野様のことが、頭から離れなくなった。
そういうことはなかったかい?
もう一度あの謡が聞きたいと、狂おしいまでに思うことはなかったかい?」
思い当たることだらけで、琴音は頷くことしかできなかった。
老婆は、深い深いため息を吐いた。
「それはね、恋じゃない。
枯野様の毒気に中てられただけなんだよ。」
老婆はそう断じて、琴音をじっと見つめた。
「琴音。悪いことは言わない。
枯野様のことは諦めるんだ。
潮音の血は、そういう人を惑わす血なんだ。
枯野様は、その血を引いている。
枯野様のことを好きになっても、お前は不幸になるだけだ。
だから、もうすっぱり、枯野様のことは忘れなさい。」
花街に連れてこられた幼い日から、実の祖母のように慕ってきた老婆だ。
あんまりだとは思っても、その人の言うことを無下に跳ね付けることもできない。
琴音は迷うように視線を泳がせた。
老婆は琴音の苦悩をも分かるように頷いた。
「潮音は、とてもいい娘だった。
確かに姿は少し、人とは違っていたけれども。
怪物なんかじゃなくて、心のきれいな、優しい娘だった。
けどね、どんなに素直で優しい娘でも。
潮音には、普通の人間にはないところがあった。」
じっと話を聞いている琴音に、老婆はそのまま続けた。
「あの娘の歌には、人を惑わすような不思議な力があった。
大勢の人が、その歌に惑わされた。
命を落としかけた人さえいた。
追討の宣旨が出されたのも、無理もないことだった。
あんなに優しくていい娘だったけれど、あの娘はやっぱり、怪物だったんだ。」
老婆は下をむいて、小さく首を振った。
「あの娘が来てから、見世は大繁盛してね。
あの娘の歌を聞きたいという客が、連日連夜押し掛けてきた。
それはそれは忙しかった。
だから、じいさまもわたしも、あの娘のそんな力に薄々気づいていながら、知らん顔をしていた。」
老婆は懺悔するように言った。
「だけど、そんなことをしていたから、罰が当たった。
あの娘には追討令が出され、あの娘がいなくなってから、見世は落ちぶれ果てた。
みんなみんな、富貴に目を眩ませ、良心に背いたせいだ。」
「けど、おじじさまもおばばさまも、潮音姐さんの歌に惑わされたりしてないじゃないですか。
それは、思い過ごしなのじゃ・・・」
琴音の言ったことに、老婆は絶望するように首を振った。
「あの娘は、じいさまとわたしには耳栓を渡してね。
あの娘の歌う間は、これをしておくようにと頼んだんだ。
わたしたちはなんのことかよく分からなかったのだけれども。
あの娘の言う通りにした。」
一度言葉を切ってから、いや、と老婆は首を振った。
「本当は、一度だけ、たった一度だけ、わたしはその約束を破った。
あの娘の歌っているときに、耳栓を外してみたんだ。
そうして、分かった。
どうして、あの娘がそう言ったのか。」
老婆は遠く遠くを見る目をした。
「わたしはあの娘の歌に酔いしれた。
あまりの心地よさにうっとりとなった。
それは永遠に醒めない酔いだった。
それから、気が狂ったように、海に行きたくなった。
だけどね、わたしは、生まれてから一度も海というものを見たことはないんだよ。
どっちに行けば海に辿り着けるのかも知らないんだ。
なのに、どうしても海に行きたい。
今でもときどき、むしょうにそう思う。
海に行きたい、と。」
老婆は縋るように琴音の手を取った。
「お前をこんな目には合わせたくない。
枯野様は悪い人じゃない。
だけど、潮音の血を引いている。
お前のその気持ちは、枯野様の不思議な力のせいかもしれない。」
琴音は迷った。
老婆に言われたことには、確かに心当たりがある。
あの風呂場で、たった一度だけ、枯野の謡を聞いた。
確かに、あのときから、もう一度、枯野の謡を聞きたくて仕方ない。
自分のこの気持ちは、枯野に対するこの気持ちは、枯野の不思議な力のせいなんだろうか。
自問自答してみるけれど、答えは見つかりそうもなかった。
「ごめんよ。邪魔したね。」
黙って下をむいている琴音に、老婆はそう言うと、盆を取って立ち上がった。
「枯野様は出かけておられるようだね。
お前も、少し頭を冷やして、今の話を考えてみておくれ。」
老婆はそれだけ言うと、部屋を出ていこうとした。
「あ。おや。」
襖を開けたところで、誰かと行き会ったのか、老婆がそう呟くのが聞こえた。
「おう、おばばさま。
それは、じいさまの饅頭か?
余っておるなら、わしにくれ。」
「申し訳ありません、おばばさま。
これ、椿さん、それはあまりにもお行儀が悪いですよ。」
賑やかな声は、椿と山茶花のようだった。
少しして、襖の向こうから、両手に饅頭を持った椿が、にこにこと顔を出した。




