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枯野と琴  作者: 村野夜市
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影は、見つけた、とは言ったけれど、手出しをしようとはしなかった。

それ以上のことはあの影にはできないのかもしれない。

けれど、敵は、次は何らかの手を揃えて、やってくることだろう。

それが、今こうしている次の瞬間なのか、それとも明日なのか、もっと先のことなのか。

誰にも分らなかった。


敵の正体は分からない。

敵の目的も分からない。

ただ、見つけた、と言って嗤った。

あの影の不気味さは、枯野ですら、背中の毛が総毛立つくらいだった。


その夜は、老夫婦以外の者が、全員集まって休むことになった。

琴音は、椿と山茶花に挟まれて、衝立のむこうで眠っている。

ウバラも一緒だ。


枯野は護衛をするように衝立に背をむけて座っていた。

油断なく辺りに目を配り続ける。

目だけではなく、五感を研ぎ澄まし、僅かな違和感をも見逃すまいと、気配を探る。


敵はこの世の理の制約を受けぬ者。

それは妖狐もまた同じ類だけれど。

必ずしも、開いた部分から現れるとは限らない。

壁に口を開き、地中をも奔る。

そんなことも可能かもしれない。


ただ、それには必ず前兆がある。

妖狐には、その前兆もまた、感じ取れる。

なんとしても、それを見逃すな。

枯野は自らの心にそう命じた。


からだは疲れてはいたけれど、到底、休む気にはなれなかった。

何があっても、琴音は自分が守る。

何度も誓ったことだけれど、あらためてその誓いを新たにする。


琴音のもとに、あのような怪異を引き入れたのは自分のせいだ。

自分さえこんなふうに関わらなければ、琴音はただの人間として無事に暮らしていられたのに。


琴音に関わってはいけなかった。

琴音の前に姿を現してはいけなかった。

危険な目に巻き込むくらいなら。

ずっと、遠くから見つめていればよかった。


それなのに、自分は、琴音に関わってしまった。

視線を交わし、言葉を交わし、あと少し、もう少し。

願う気持ちは止められず、ずるずると、関わりを深めてしまった。


恋をしてはいけない。

父の戒めの言葉を思い返す。

これは、恋じゃない。恩返しだから。

そう心に言い訳をして、けれど、実際に自分のしてきたことは・・・


もしかして、俺は、琴音さんに、恋をしてしまっていたんだろうか?


正直、恋というものはよく分からない。

話に聞いたことはある。書物も読んだことはある。

みな、いとも容易く、恋に落ち、恋に泣き、恋の幸せを享受する。

よくもまあ、と感心する。


枯野にとって、恋とは常に、自分とは違う世界にあるものだった。

永遠に手の届かない、関わることのないはずのものだった。


けれど、今、琴音に感じるこの気持ち。

いや、今に始まったことじゃない。

ずっと前に出会ったときから、ずっとずっと、消えずに残っているこの気持ち。


これを、恋というのじゃないか?


そうじゃない、これじゃないと自分に言い訳をしながら。

本当は、自分はもうずっと、琴音に恋をしてきたのではないか?


そうでなければ、琴音がこんな災厄に巻き込まれた理由が分からない。

恋をしてはいけないという父の警告を破ったから、琴音はこんな目に遭っているのじゃないか。

そうでなければ、他に何の責めもない琴音が、こんな目に遭うわけがない。


なるほど。恋をしてはいけないわけだ。

枯野は思った。


恋をしていたから、自分は琴音に関わり続けた。

もっともっとと、願い続けた。

そうしてそれが、琴音のもとに怪異を引き入れる結果になった。


この先、自分はどうすればいいのだろう。

後悔はいくらでも湧いてくるけれど。

そんなもの、今更もうすべて、遅い。


けれど、どうすれば、恋をせずにいられたのだろう。

琴音と出会ってしまったのに。


父に会いたい。

父に会って聞いてみたい。

父だって昔、母に恋をしたのだから。

郷に背をむけ、持っていたものを全部捨てても、母と生きることを選んだのだから。


父はそれを後悔しただろうか。

ずっと、それを後悔していたから、自分には恋をするなと言ったのだと思っていたけれど。

今はなぜか、父も、後悔はしていなかったのじゃないかと思う。

この気持ちは、後悔するようなものじゃないと思う。


己の欲望のままに、琴音に関わってしまったことは後悔している。

けれども、この気持ちは、どうしたって後悔できない。

したほうがいいのかもしれないと、頭のすみっこで声もするけれど。

だとしても、自分は、絶対に、後悔しない。


だけど。

だからこそ。

自分はきっぱりと、心を決める必要がある。


たとえば、琴音は、お日様だ。

毎日見上げて、そのぬくもりの恩恵を受けて、でも、決して手は届かない。

それでいい。

それがいい。

そう思い続けよう。

お日様が頭の上からなくなることは決してない。

ずっとずっと、見上げていられる。

温かくて、眩しくて、とてもとても、大好きなもの。

それをずっと傍にいて、守っていられるなんて、自分は、なんて幸せ者だ。


ともかく、今は、自分にできることをするだけだ。

枯野は顔を上げた。


琴音は怪異に怯えてはいたけれど、ことさらに騒ぎ立てることはしなかった。

それは少し助かったと思った。

恐怖に取り憑かれた人間は、思いもよらぬことをする。

ときには正気を疑うような行動に出ることもある。

琴音の安全を確保するためにも、そんな事態は避けたかった。


椿と山茶花の存在も大きい。

ふたりは琴音からの信頼もしっかりと得ている。

琴音の傍にふたりがいてくれて、本当によかったと思う。

こんな事態を想定して行動していたのかどうかは分からないけれど。

五百歳を越える古木の精霊の叡智には、枯野の知恵など到底及ばないのだろう。


ソウビとウバラも心強い仲間だった。

今まで、枯野はお役目はずっと、ひとりでこなしてきた。

そのほとんどは、ただ純粋に、金のためだった。

だから、稼ぎのいいお役目ばかり選んで請けた。

稼ぎのいいお役目とは、荒事が多かった。

戦い、傷つけ、封じ込める。

枯野のこなしてきたのは、そんなお役目ばかりだった。


他の妖狐と組んでお役目を果たしたのは、今回が初めてだった。

ソウビにはいろんなことを教えてもらった。

もしかしたら、ソウビにとって、今回のお役目はひとりでこなしたほうが楽だったかもしれない。

結果的に、枯野は何も役に立っていなかったと思う。

だけど、枯野は、ソウビと一緒にお役目を果たせてよかった。


自分はひとりじゃない。

最近になって、そう思うことが増えた。

ずっと、ひとりだと思っていた。

ひとりでいいんだと思っていた。

ひとりが楽だとさえ思っていた。


けれども。

ソウビに、相棒、と呼ばれたのが嬉しかった。

椿や山茶花やウバラの存在を、とても有難いと思った。

そしてなにより。


琴音の存在は、この世のすべてを捧げても足りないくらいに大切だ。

そんな大切な人を共に守ってくれる仲間がいて、本当によかった。


こんな危急の事態だというのに。

枯野は以前よりも、自分の心が強く太くなっていくのを感じていた。

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