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楼の部屋から、客や妓たちが逃げ出していく。
もちろん、それはソウビの幻術だ。
実際には、楼では何事もなく、いつもと同じ日常が繰り広げられているはずだ。
けれど、楼主の目には阿鼻叫喚の絵図が映っていた。
ようやく事態に気づいたらしい楼主は、あわてて逃げようとして、盛大に転んだ。
懐や袂が重すぎて、起き上がれない。
見かねた枯野が、襟元を咥えて起こしてやる。
枯野でも一瞬たじろぐほど、楼主は重くなっていた。
炎のなかを、楼主は、ふらふら、よろよろと逃げ出そうとした。
金が重くて、走ることはできない。
それでも、重い金貨をひとつとして捨てようとはしなかった。
「・・・いっそ見事だ、と言ってやるか?」
呆れたようにソウビが呟く。
枯野も同意するように頷いた。
実は、今宵、この幻術を見せられている者が、あとふたりいた。
ソウビと枯野は楼主をそこに残して、その者たちの部屋へと走った。
男は妓を守って、燃え盛る炎と戦っていた。
その横顔に頼りない坊ちゃまの面影はない。
ただ、愛しい人を守りたいという一人前の男の顔になっていた。
枯野は躊躇いもなく、炎に包まれたその場所へと飛び込んで行った。
ソウビの術は、噂に違わず凄かった。
ちりちりと、毛の焦げる臭いまでした。
「・・・金の、狼?」
―― 狼ではありません。
どちらの呟きかは分からなかったが、枯野は律儀に訂正してからふたりに言った。
―― 俺の背に乗ってください。
男は妓に先に乗るようにと促したが、妓は、首を振って断った。
「まだ逃げ遅れてるやつがいるかもしんない。
助けに行かないと。」
そう言って、枯野が作った間を抜けて行こうとする。
枯野はあわててその裾を咥えて引き留めた。
「問題ない。逃げてないのはあとは楼主だけだ。」
そこに遅れて現れたのはソウビだった。
「いいから、こいつに乗って、逃げな。」
そう言ってソウビは枯野を顎で示したが、妓はそれでも首を振った。
「なら、親父殿を助けに行く。」
「あの守銭奴を?
あいつ、逃げる暇はじゅうぶんにあったのに、金のために逃げなかったんだ。
それどころか、お前さんらも、見殺しにしようとしたんだぞ?」
声を荒げるソウビに、妓は、ふふ、と笑いを零した。
「仕方ないよ、あの人はそういう人だ。
けど、あたしには、あの人に恩があるんだ。」
そう言うと、妓は枯野に咥えられた上着を脱ぎ捨て、楼主の部屋を目指して駆け出した。
ソウビは妓を追いかけながら、なおも引き止めようと話しかけた。
男と枯野も急いでそのふたりについていった。
「恩だと?
お前さんの稼ぎをかすめ取り、年季が明けても働かせ続けたのに?」
「このままここで働かせてほしいって言ったのはあたしだよ。
あたしは、金をためないといけなかった。
金がたまるまで、ここにいさせてほしい、って。」
ソウビは信じられないと頭を振った。
「あの悪行三昧の楼主に、お前さんのほうから、そう言ったのか?」
「ああ、そうだよ。
あたしは、子どものころから、ずっとこうやって稼いできたから。
他の方法は知らない。
けど、どうしても、金が必要なんだ。」
―― 母御の病を治すために?
そう尋ねた枯野に、妓は、ふふ、とまた笑った。
「あの人の病は、不治の病なんかじゃない。
あの村を出れば、じきに治るだろうよ。
だから、金が必要なんだ。
母さんとふたり、これから真っ当に生きていくために。」
きっぱりとそう言って、妓はソウビを見据えた。
「父親のいないあたしと母さんは、あの村ではひどい扱いを受けていた。
母さんはあたしを逃がすために、花街に行かせた。
花街に行けば白いご飯をお腹いっぱい食べられる。
そう言い聞かせてね。
あの村に帰ったところで、また花街帰りと陰口をきかれるだけ。
あのままじゃ、母さんの病もよくならない。
だから、あたしは、金をためて、京に行くんだ。
母さんを連れて。
ふたりで煮売り屋をして生きていく。
そのための金を稼がなくちゃ。」
妓の瞳に浮かぶ強い光に、ソウビは、へえ~、と感心した声を漏らした。
そのとき、炎に巻かれた廊下を、とぼとぼと歩く楼主の姿が目に入った。
妓は楼主に駆け寄ると、そのからだを肩で支えた。
「・・・早く、逃げないと、逃げ遅れるよ・・・」
楼主は苦し気に妓にそう呟く。
それに妓は鼻で笑って返した。
「相変わらずだねえ、親父殿。
その金、手放したら、もっと楽に逃げられるのに。」
「へへへ、金を手放せだって?それ、あたしに言ってるのかい?」
こんな状況なのに楼主はそう嘯いた。
それから懐に手を突っ込むと、金餅をひとつ掴みだして、妓のほうへぐいと押し付けた。
「いいから、これを持ってお逃げ。
煮売り屋なら、じゅうぶんに開けるだろうよ。」
妓は首を振って進み始めた。
「無事に逃げたら、それをもらうよ。
けど、今はそんなことより、逃げるほうが先だ。」
「そんなこと、だって?
バカな娘だ。これを取って先に逃げればいいものを。」
そんな楼主を、反対側からぐいと持ち上げた者がいた。
妓についてきていた男だった。
楼主は男のほうを見て言った。
「お前様・・・早くこのバカ娘を連れて、逃げるといい。」
「この人が逃げないのに、ひとりだけ逃げたりはしませんよ。
あたしひとり助かったところで、この人がいなけりゃ、生きてなんていかれない。」
男は首を振った。
「なにをバカなことを。
あんたには帰る家もあるんだから、さっさと先に逃げるんだよ。」
妓は叱りつけるように言った。
「あんたは客。あたしは妓楼の妓。
あんたとあたしの間にあるのは、実のならない嘘の花だけ。
生活だとか、人生だとか、そういうものを忘れさせて嘘の花で彩る。
それが、あたしたちの仕事なんだから。」
「嘘でもいい。ただの金づるとしか思われてなかったとしても構わない。
それでも、あたしは、お前を手放したら、一生、後悔する。
お前と人生を共にする。それだけはもう、決めてるんだ。」
男は叫ぶようにそう言うと、ぐい、と楼主を持ち上げて、よろよろと進みだした。
その男にむかって、妓は言った。
「よく言うよ。お前様、家を勘当されて、今は無一文じゃないか。
金のない男に用はないよ。さっさと逃げな。」
あ、そうだった。と男は笑った。
「けど、あたしのからだは丈夫だし、お前のためなら、懸命に働くと約束するから。
だから、どうかあたしを、お前の煮売り屋で雇っておくれ。」
「まだ店もないのに、使用人だけできても仕方ないんだよ。」
「これでもお店のことなら、それなりには仕込まれている。
きっと、役に立ってみせるよ。」
言い争うふたりに挟まれて、楼主はくくくっと笑い出した。
「あたしを捨てて、お前様たちふたり、手に手を取って逃げればいいんだよ。」
「それはない。」
ふたりは同時に声を揃えて言ってから、同時に笑い出した。
「仕方ないねえ。
まあ、あんたが勘当されたのには、あたしにも責任があるからね。
分かった。雇ってあげるよ。
もっとも、お給金は期待できないよ?
最初は食べていくだけで精一杯だろうからね。」
「問題ないよ。
うちのじいさまだって、店を起こしたときには、苦労したって聞いてる。
苦労して、一代で店を築いたんだ、って、よく自慢してたよ。
あたしだって、お前さえいるなら、大店を築いてみせる。
いつかお前を料亭のおかみにしてみせるから、楽しみにしてな。」
「大きく出たね。
分かった。あんたの話に乗った。」
「よし。とにかくここから逃げるぞ。」
ふたりは力を合わせて楼主を抱え直した。
「おい、どうする?」
後ろに立って見ていたソウビは、枯野に尋ねた。
枯野は、かすかに笑って、首を振った。
「これ以上、俺たちに出番はねえよな。」
ソウビもそう言って笑う。
それから、すっと、右手を差し上げた。
「解呪。」
小さな宣告と共に、辺りの幻術は文字通り幻のように消え失せていた。




