4
年老いた老夫婦がふたりで営む見世に、年増を過ぎた芸妓がたったひとり。
けれど、老爺の作る料理と、風音の芸とには少なからぬ心捧者がいる。
彼らがたまさかに訪れてくれるおかげで、この見世も、なんとか細々とやっていけた。
「この見世も昔はけっこう流行ってたんだよ。
あたしが禿としてここに来たころには、もっと人も多かったし、客も途切れることなく来ていた。
けど、あっちのほうに新しい見世ができてから、だんだんとこの辺は寂れていってさ。
妓たちに売らせるのは芸事だけ、ってじっちゃんたちの考えも、古臭いとか言われたり。
妓たちも少しずつ、身請けされたり、年季が明けて故郷に帰ったりしてね。
けど、じっちゃんたちには、新しい妓を入れる余裕もなくなっててさ。
結局、残ったのはあたしひとりきりだよ。」
そんなことを風音はぽつりぽつりと話してくれた。
「あたしもとっくに年季も明けてんだけどさ。
帰る家もないし、というより、ここがずっとあたしの家だったからね。
この通り、胸も病んでて、他に行くとこもないし。
ずっと居座ってる、ってわけ。」
巫山戯たようにそう言うけれど、その実、後に残す老夫婦のことが心配で出て行けなかったのだ。
そんなことも、琴音はもう分かるようになっていた。
「こんなぼろ屋敷、売れるような物はもう片端から売ってしまったからね。
最後に、たったひとつ、大事に残しておいた琴を、売ったんだよ。
南方渡来の珍しい品だったから、そこそこいい金になってね。
その金で、やっとひとり、新しい禿を買うことができたんだ。」
「・・・それって、わたし・・・?」
琴音は言葉を呑んで自分を指さした。
風音は、ふふっ、と笑って、小さく頷いた。
「だから、あんたの名は琴音なんだよ。」
来ていきなりそう名づけられたときには驚いたけれど、そういう理由があったのかと琴音は納得した。
「けどさ、これもなんかのめぐり合わせかねえ、って。
あんた、たしか、元の名は、サヤってんだろ?」
風音は楽しそうにそう言うと、琵琶を引き寄せて弾きながら謡った。
ゆらのとの
となかにふれる
なづのきの
さやりさやさや
さやりさや
サヤ、という言葉が何度も出てくる。
琴音はまだ故郷にいたころ、家族にそう呼ばれていたのを思い出した。
それは少し懐かしいような、もの淋しいような、なんとも言えない心持だった。
「この謡のさやさやってのは、琴の音色のことなんだよ?」
琴の音色?
しかし、謡のなかには琴のこの字も出てこない。
首を傾げる琴音を、風音は楽しそうに見た。
「長い話だけど、聞いてみたいかい?」
琴音はうんうんと頷く。
それを見てから、風音は語り始めた。
「むかぁし、むかし、大きな木があってね?
朝日が当たればその影は、海のむこうの島まで届く。
夕日が当たればその影は、東の山にまで届く。
まあ、とてもつもなく、大きくて立派な木だったんだ。
あるとき、その木を伐って舟を作ったんだけど。
それがまた、見事な舟で、風のように早く走った。
けど、形あるものはいつかは壊れるもんさね。
いつしか古びて、走れなくなった舟は、塩を焼く薪にされたんだ。
火の消えた後、そこには燃え残った木があってね。
それを琴に作ったら、霊妙不可思議な音色で、世界に響き渡った。
その音はね、広い広い海のなか、どこまでも続く水草の森の揺れるさまのようだった。
その様子を謡ったのがこの謡なのさ。」
昔語りのように風音は話して聞かせた。
「水草の、森、ですか?」
琴音は首を傾げた。
小川に生える水草が、森のように続くさまを想像してみるけれど、今一つよくわからない。
「メダカの気持ちになってみればいい、のかな?」
それなら、なんとなく分かる気も・・・いや、やはりしなかった。
風音は琴音の考えていることがまるでよく分かるかのように声を立てて笑った。
「小川の水草じゃないよ?
海に生える水草は、もっともっと大きくて、もっともっとたくさんなんだ。」
「海、というのは、いったい、何ですか?」
そもそも、琴音は海を知らなかった。
「おや?
海を知らないのかい?
といっても、あたしもこの目で見たことはないんだけどさ。
聞くところによると、大きな大きな池のようなもの、らしいよ?」
「大きな池?
というと、表通りにある見世のお庭にあるような?」
「いやいや、あれより、もっと大きい。
この街全部、いや、この国全部、中に入ってしまって、まだ余るくらい大きなものだよ。」
「この国、全部・・・?」
そんな大きなものは、想像もつかない。
風音はゆったりと微笑むと、そうさねえ、と言った。
「どっちをむいても、見渡す限り、どこまでもどこまでも、水しかない。
海ってのは、そんなところなんだってさ。
海に行くと、世界は、ぐるっとまるくて、どこまでもたいらなんだ。
けど、だからって、海は桶のなかの水のように止まってるわけじゃない。
ざざーん、ざざーんって、ずっと波が寄せては返しているんだよ。」
ますます分からない、という顔になった琴音に、風音は小さく苦笑した。
「といっても、あたしも人伝てに聞いた話だからねえ。
死ぬ前に一度、この目で見てみたいものだと思うんだけど・・・」
「姐さんに海の話をしてくれた人は、海を見たこと、あったんですか?」
「見たどころか、海に住んでいたって言ってたんだよ。
潮音姐さん、って言ってね。
どこか遠い海で暮らしていたところを、悪いやつらに攫われて。
流れ流れて、この街にたどり着いたのを、じっちゃんが拾い上げたのさ。
姐さんは、それはそれは綺麗な人でね。
あれは、渡来人の血も入っていたのかもしれないね。
薄い色の髪をしてね。目の色も、あたしたちとは違っていた。
立てて鳴らす不思議な琴を弾きながら、謡を歌うんだけどね。
姐さんの謡は千里のむこうへでも響くかのようでね。
それはそれは評判になって。
それこそ、あの琴の話のようだった。
けどさ、姐さんの謡が評判になればなるほど、それに溺れる男たちも増えてきてさ。
そうなると、人を惑わす悪い妖婦だ、ってことになって。
御上から手配書きを回されるまでになってね。
あるとき、ふと姿を消して、そのまま消息を絶ってしまったのさ。」
風音は淋しそうな目をして、遠くを見つめた。
「あんたを買うために、琴を売った話をしたろ?
それは姐さんの残していった琴だよ。
姐さんは、その琴を弾きながら謡うのが好きで。
謡ってさえいれば、どんな辛い目にあっても大丈夫って笑ってた。
故郷の海にいたころから、ずっとずっと、持っている琴なんだ、って。
けど、その大事な琴さえ置いて、どこかへ行っちまったんだ。」
「そんな大切な琴だったのに、売ってしまったのですね?」
悲しそうな顔をする琴音を、風音は優しい目をして見た。
「けど、あのころ、姐さんには、いいひとがいたんだ。
そのひとも、それきり、見世には来なくなったのさ。
きっと、恋人と、手に手を取って、逃げたんじゃないかって、あたしは思うんだよ。
故郷から持ってきた琴も、もういらなくなるくらい、大事な人ができたんだろ、って。」
「故郷から持ってきた琴も、いらなくなるくらい、大事な人?」
「まあ、あんたにも、そのうち分かるだろうよ。」
風音は肩を竦めるようにして笑った。
「きっと今頃は、どこかの山奥で、二人仲良く暮らしてんじゃないかね。」
「どこかの山奥で、二人仲良く?」
ほっとしたようにそう繰り返す琴音に、風音の微笑みはますます深く優しくなった。
「ああ、そうだ。
仲が良ければ、ふたりとは限らないね。
あのふたりによく似た子どもが、ぞろぞろいるんじゃないかな。
ふたりとも、なかなかに、美男美女だったからさ。
子どもらも、それはそれは、きれいな子たちだろうよ。」
風音は、たくさんの子どもたちに囲まれて暮らす幸せそうな夫婦を想像してみた。
それは、今日聞いた話のなかでは、一番、楽に想像できた姿だった。
「よかった。
めでたし、めでたし、ですね?」
「ああ、そうだ。
めでたし、めでたし、だね。」
風音はそう言って、また小さく微笑んだ。