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枯野は人の変化を解いて、狐になって駆けた。
まだ仔狐のころ、毎朝、花街まで花を届けに行っていた。
誰にも気づかれないように、朝早く行って戻る。
それを毎日繰り返すうちに、かなり足は速くなった。
狐にしては大きなからだも、速く走るのには役に立つ。
ぐんとからだを前に伸ばし、前足はより遠くを掴む。
やわらかいからだを活かして、後ろ足を軽く着くと、より遠くへとからだを押し出す。
金色の風のように枯野は駆けた。
妖力を使うのは、実はあまり得意ではない。
人の姿に変化するときと、あとはせいぜい、怪我を治す程度の術しか、使ったことはない。
父は、郷一番の妖術使いだったらしい。
父の繰り出す妖術は、難しいお役目もさらりとこなし、郷の危機すら救ったと聞く。
しかし、残念なことに、枯野にはその血は受け継がれなかった。
父と一緒にいられたのは本当に幼い仔狐のころだったから、そのころの記憶しかないけれど。
それにしても、父の姿は、今の枯野とは違って、もっとすらりと細身だった。
毛並みは美しい純白の、涼し気な目元をした、細面の美男だった。
多分、今の枯野とは似ても似つかない姿だと思う。
枯野は、髪や目の色も母にそっくりだと言うから、つくづく、母親似なのだろう。
母がどんな人だったのかは、父から聞いた話しか知らないけれど。
なんとなく、性格も似ているような気がする。
母は人だったと聞くから、もちろん、妖力などあるはずはない。
だから、自分が妖術が苦手なのも、母に似たのだろう。
ただ、異国から来たという母の血は、枯野に大きく強いからだをもたらしてくれた。
妖術は苦手だけれど、からだを使うことなら、周囲の妖狐たちにもひけはとらない。
速く駆けるときも。邪霊と戦い封じるときも。
枯野はいつも術は使わず、真正面からの肉弾戦だ。
妖狐らしからぬ戦いかたと、陰口を聞かれていることも知っているけれど。
変えようがないから、仕方ない。
その辺りも、邪道だと敬遠される理由になっているのだろう。
そんな枯野だから、今回のようなお役目では、本当になにをすればいいのか分からなかった。
人間の妓もどうしようもない商家の三男坊も、戦ってどうにかする相手とは思えない。
ソウビが手伝ってくれて本当に助かったけれど。
引き受けたのは枯野なのに、なんだか任せっきりにしてしまっていて、かなり気がひけていたのだ。
それが、足の速さを活かせる場面がでてきて、正直、ちょっとほっとした。
少しくらいは役に立ててよかった。
妓の事情など、どうして気になったのかは、分からない。
ただ、自分も必死になって金を稼いでいるから、なんとなく引っかかったのかもしれない。
自分もまた郷の連中に、金の亡者と陰口を聞かれていたから。
いや、ソウビの言うように、この妓は本当に金が好きなだけなのかもしれないけれど。
妓の里に着いた枯野は、狐の姿のまま、そっと家々を覗いて回った。
人の姿になったとしても、知らない人間に話しかけるのは得意じゃない。
だったら、狐のまま、人の噂を盗み聞きするほうがまだましだ。
村の人たちは噂話が好きなようだった。
どこそこのおかみさんがどうした、子どもがどうした、御亭主がどうした。
ふたり以上集まると、すぐに、そんな話が始まる。
そのなかで、ふと、気になる話を聞き込んだ。
ちょうど野良仕事から帰ってきたらしい人たちは、井戸端で手足を洗いながら話していた。
枯野は物陰に身を潜めて、その話に耳をそばだてた。
「スミさんの具合はまだようならんのか?」
「あの病は、なかなかに難しいらしいからのう。」
「母ひとり子ひとりであったのに、娘を花街にやって、それはそれは辛かったろう。」
「しかし、あそこの家のキクは、唐渡の高い薬を送ってよこしたそうな。」
「それはまた、孝行者も娘もあったものだ。」
「スミさんも、幸せ者よ。」
キクというのは、あの妓の元の名だろうか。
枯野はスミという人の住む家を探した。
厨から夕餉の支度の煙の立っていない家が一軒だけある。
それがスミの家だった。
戸の隙間からそっと覗くと、奥の部屋に敷いた布団から、咳込む声が聞こえてくる。
弱弱しく苦しそうな声だ。
家のなかに充満する病の臭いに、枯野は思い切り鼻に皺を寄せた。
そのとき、人の足音が近づいてくるのが聞こえた。
枯野は急いで物陰に隠れる。
現れたのは、鍋を抱えた女だった。
「スミさん。スミさん。お粥、持ってきたよ。」
女はそう言うと、縁側に鍋を置く。
奥から、細い声が、有難う、と言うのが聞こえた。
「具合はどうだい?」
「・・・・・・。」
「キクちゃんは?便りはあったかい?」
「・・・・・・。」
女はいろいろと話しかけるけれど、返事はない。
よほど具合が悪いのだろうか。
「じゃあね。あたしゃ、帰るよ?
お粥はちゃんと食べるんだよ?」
女はそれだけ言うと帰っていった。
枯野はもう一度、家の中を覗き込んだ。
鍋からは雑穀を炊き込んだ粥の臭いがする。
奥からは咳が聞こえるばかりで、鍋を取りにくる気配はない。
気になって、そっと、家に入っていった。
雨戸を立て切ったままの薄暗い部屋のぺったんこの布団に、痩せた女がひとり寝ていた。
表通りのあの見世に掲げてあった絵姿に、どこか面影がある。
スミというのはこの女だろうと思った。
枯野は人の姿に変化すると、鍋を取って、スミのところに運んでいった。
横になったままだったスミは、枯野に気づくと、目を丸くした。
「・・・ど、どろぼう?」
「い、いいえ、違います。」
枯野は慌てて手を振った。
すると、スミはかすかに微笑んで言った。
「そうよね。
うちに取るものなんて、なにも・・・」
それから訝し気に枯野に尋ねた。
「なら、あんたは、誰だい?」
「俺は・・・その、娘さんの知り合いで・・・」
「まあ、では、傾城楼の?」
スミは表通りの見世の名を言った。
枯野は曖昧にうなずいた。
「それはそれは。
キクは元気にしておりますか?」
スミは途端に枯野を信用したようで、警戒を解いて、親し気に話しかけた。
「ああ、はい。元気、です。」
とりあえず、それは間違いない。
振られた男に仕返しをされそうになっているというのは、黙っておいた。
スミは薄い掛布団を引っ張って目元を抑えながら言った。
「あの子には、本当に、面倒をかけ通しで・・・」
妓のことをあまり詳しく聞かれると困る。
枯野は鍋を示しながら言った。
「さっき女の人がこれを・・・」
「ああ。お隣のノリさんだろ。
有難いことだ。」
スミは拝むように両手を合わせた。
「食べますか?」
スミがうなずくと、枯野はスミのからだを抱えて起こしてやった。
それから、冷え切った厨に行って、茶碗と箸を見つけてくると、鍋の粥を注いで手渡した。
「ああ。申し訳ない。」
スミはもう一度手を合わせてから、震える手に、茶碗と箸を持った。
骨ばかりの細い指を、枯野は目を細めて見つめる。
スミはゆっくりと粥をすすった。
スミから漂う病の臭いは、不治の病の臭いとは違っていた。
栄養をとって養生すれば完治するはずだと枯野は思った。
粥を食べ終えたスミは、懐から大切そうに取り出した袋を枯野に手渡そうとした。
「これを、キクに返してもらえませんか?」
枯野には中を見なくても、それが高価な薬草の入った袋だと分かった。
「それは、キクさんが、お母さんのために送ったものでしょう?
ちゃんと飲んでください。」
「・・・それは、できません。
あの子が辛い思いをして稼いだお金です。
わたしなんかのために、こんな高価な薬を買わせるわけにはいきません。」
わたしなんか。
スミの言葉にひっかかる。
前に、枯野も、そう言ったことがある。
俺なんか。
そのときに椿に叱られたのを思い出した。
あのときの椿もこんな気持ちだったのだろうか。
枯野はスミをじっと見て言った。
「キクさんは、貴女がまた元気になってくれることを、何より望んでいるんです。
だから、その薬を送った。
貴女がそれを飲まないのは、キクさんの気持ちを、ないがしろにするのと同じです。」
枯野は薬袋を取り上げると、中から薬草を取り出した。
厨に行って湯を沸かすと、薬草を煎じて薬湯を作る。
幼いころ、熱を出した枯野のために、父もよくこうやって薬を煎じてくれた。
ふいにそんなことを思い出した。
「さあ。飲んでください。」
湯飲みに入れた薬湯をスミに手渡して、枯野は静かに言った。
「娘さんは、いつかここに帰ってきます。
貴女はそんな娘さんに、おかえりって言ってあげる。
そのために、元気になってください。」
湯飲みを受け取ったスミは、目からぽろぽろと涙を零した。
そのスミに枯野は優しく言った。
「大丈夫。貴女の病は、治ります。」
スミは枯野を見上げて微笑んだ。
泣きながら、それでも、笑った。
「はい。」
スミはそう答えると、素直に薬湯に口をつけた。
スミの眠るのを見届けてから、枯野はその家を出た。
日はもうとっぷりと暮れて、辺りは宵闇に沈んでいる。
思ったより遅くなってしまった。
琴音は、座敷をふたつ終えてから、来ると言っていた。
なんとかそれまでには帰らなければ。
焦る気持ちで枯野は駆ける。
来たときよりも、もっと速く。
崖は飛び越え、坂は飛び降り、可能な限り近道をして。
速く。速く。
それでも逸る気持ちは、先へ先へと、枯野を駆り立てる。
琴音の待つ、あの街へ。
途中に、地の裂け目のような場所があった。
行きには少し遠回りをして迂回した場所だった。
ここを飛び越えることができれば、かなり時間を短縮できる。
しかし、それは流石の枯野にも、到底無理なように見えた。
そこにさしかかったとき。
枯野は、躊躇いもなく跳んだ。
ほんの欠片の躊躇もなかった。
だがしかし、やはりそれは無謀だった。
たとえ枯野の大きなからだと跳躍力をもってしても。
それは到底、飛び越えられる距離ではなかった。
しまった。
そう思ったときにはもう遅かった。
枯野のからだはふわりと宙に浮き、そのまま重力に任せて、裂け目の底へと引き寄せられていく。
と、そのときだった。
枯野の全身が金色に輝く。
次の瞬間、枯野の姿は、その場所からかき消えていた。




