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巣穴に戻った枯野は、泥のように眠った。
とにかく疲れていた。
眠りたかった。
夢もたくさん、見たようだ。
けれど、見る端から、忘れていった。
それは、まるで、通り過ぎていった風のように。
眠って眠って、目が覚めてもまた眠って。
次に目の覚めたとき、枯野はまた、いつもの枯野に戻っていた。
枯野を見送った後、琴音にはまたいつもの日常が待っていた。
見世の仕事に芸事の稽古。
人手が増えた分、掃除や洗濯のような裏方の仕事は減った。
代わりに、稽古の時間は長くなった。
椿と山茶花という師匠もいて、琴音の芸は、日に日に上達している。
それでもまだ、風音の域には到底、及ばない。
なかなか思うようにできない自分に、ときにいらつきながらも、琴音はコツコツと稽古を重ねた。
琴音には、風音にあったような、芸に対する天性の素質のようなものはなかった。
ただ、こつこつと稽古を重ね、芸を磨き続けることだけが、琴音にできることだった。
今日は不思議なくらい、朝から気持ちが穏やかに落ち着いていた。
こんなことはここしばらくなかったと思うくらいだった。
芸事に関しては厳しい師匠の椿も山茶花も、珍しく褒めてくれた。
ずっとできなかったことも、突然、すんなりとできるようになった。
それは、本当は、不思議でもなんでもないかもしれない。
琴音には、その理由は分かっていた。
昨日から枯野と過ごした時間のすべて。
それが、琴音に力を与えてくれている。
昨夜、ふたりでゆっくり話せたことも。
今朝の少し驚いた出来事も。
枯野の優しい声。温かな体温。
ずっと前、あの一番辛かった日も、枯野の温かさが琴音を救ってくれた。
あんなときやこんなときの、枯野の表情も、仕草も。
ひとつひとつ、思い出せる。
はっとした顔も。困ったように笑うのも。
その全部、大切に胸のなかにしまっておく。
こんな日が、ずっとずっと続けばいいのに。
そしたら、枯野にもらった櫛を身に着けられる日も、そう遠くないかもしれない。
行李にしまった櫛をそっと取り出して眺めてみた。
見れば見るほど、美しい櫛だと思う。
枯野は、自分を不調法者だと言うけれど、なかなかどうして綺麗なものを見つける目はある。
いつか、枯野の手で、この櫛を着けてもらう。
それが琴音の密かな願いだ。
部屋の片隅に置いた琴を眺める。
この琴を預けた意味は分かるだろう?
ソウビに言われたことを思い出す。
琴を手に取って、そっと鳴らしてみた。
この琴はとても作りがいいのか、あまり音が狂わない。
毎日手入れをすると言って預かったけれど、その必要はほとんどなかった。
と、そのときだった。
だだっと走る音と、襖を開く音がほぼ同時にしたかと思ったら、ウバラがそこに立っていた。
「ことね~。」
名前を呼びながら入ってきたかと思ったら、いきなりがしっと琴音の腕に縋り付く。
「え?はい?」
おろおろと琴音が見ると、ウバラは、まるで猫かなにかのように、琴音の腕に頬ずりをしていた。
ウバラの体温もとても温かい。
長い髪がさらりと琴音にふりかかる。その柔らかさが心地いい。
幼い妹が甘えるように、ウバラはなんの遠慮もなく、芯から琴音に甘えている。
けれど、どうしてだろう。
不思議に腹は立たない。
わずかに戸惑いは感じるけれど。
厚かましいとか、うっとうしいとか、そういう感情は湧いてこなかった。
「ことね、すき。」
琴音の視線を感じたのか、ウバラは目を上げると、そう言ってにこっと笑った。
思わず笑い返してしまうような、笑顔だった。
「ああ、邪魔してすまねえな。」
ウバラの開けっ放しにした襖から、ソウビが顔を出した。
「おい、ウバラ。琴音さんの邪魔になるだろ?」
ソウビは琴音に縋り付いているウバラにたしなめるように言った。
「ことね、すき。」
ウバラは、さっきとは違って、少し不満そうに、ソウビにそう告げた。
ああ、はいはい、分かってるよ、とソウビは答えた。
「悪いね。こいつ、妙にあんたになついちまったようだ。」
「・・・いいえ。好いていただけるのは、嬉しいです。」
琴音はゆっくりと頭を下げた。
ソウビはそんな琴音をじっと見つめてから、そっか、とあっさり頷いた。
「ほんじゃ、暇なときには相手してやってくれ。
邪魔だったら、遠慮なくつまみだしていいから。」
「いいから~。」
にこにこと繰り返すウバラを、ソウビはやや呆れた顔をして見下ろした。
「じゃ、とりあえず、今は俺が連れて行く。」
そういって、ウバラの帯の辺りを、猫かなにかを持ち上げるようにひょいと持ち上げる。
ひょろりと細いソウビだけれど、ウバラは軽々と持ちあがった。
「え?」
持ち上げられてにこにことこちらに手を振るウバラに、琴音は目を丸くした。
ソウビの扱いもなかなかにぞんざいだと思うけれど、ウバラはまったく気にしていない。
ソウビはそのままで、ああ、そうそう、と何か思い出したように振り返った。
「椿があんたのこと、探してた。
あんま待たせると機嫌悪くなるから、早く行ってやったほうがいいかもな。」
「それは、有難うございます。」
琴音は急いで琴を置くと、いそいそと部屋を出ていった。
琴音を見送ってから、ソウビはぶら下げっぱなしだったウバラを見下ろして言った。
「ご苦労さん。お前の耳は、やっぱ、すごいな。」
「どういたしまして~。」
ウバラはにこにこと答える。
「これからも頼むよ。お前の速さには誰も追いつけねえ。」
「ウバラ、ことね、まもる~。」
ウバラはうんうんとうなずいた。




