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翌朝、老爺の用意してくれた朝餉の席に現れた枯野は、誰もが驚く容貌をしていた。
かっと見開く目は血走り、心なしか頬はこけてやつれてみえる。
たった一晩でここまで変貌するのかと、皆思った。
「御加減がよろしくないのではありませんか?枯野さま。」
心配そうにそう尋ねた琴音に、枯野は、ぶんっ、と首を横に振った。
「いえ。ご心配なく。」
「単に、目が冴えて眠れなかっただけであろ。」
「生まれて初めてひとつ屋根の下、でしたからねえ。」
使い魔たちはやれやれという顔をしていた。
「しかし、分かりやすいやつだな。」
ソウビですら、そう言ってしまう。
すると、ソウビの横に座っていたウバラが立って、おもむろに枯野の傍へと近づいていった。
「は、い?」
きょとんとした枯野ににこっと微笑みかけると、いきなりウバラは枯野に抱きついた。
とっさに膝立ちになった枯野と、立ったままのウバラの背はちょうど同じくらいだった。
ウバラは枯野の首に両腕を回すと、ぎゅっと抱きしめて、頬ずりをする。
その表情はどこか慈母のようで、邪気などまったく欠片もなかった。
枯野は手を宙に浮かせたまま、思考も行動も凍り付いたように停止していた。
その場の全員が、呆気にとられてウバラのすることを見ていた。
「ちょっ、ウバラ、こら。」
真っ先に我に返ったのはソウビだった。
ソウビはウバラを半分強引に取り戻すと、隠すように背中の後ろに回した。
ウバラは少しばかり不満そうな顔をしたが、ソウビに逆らったりはしなかった。
かたん、という音に、全員、そちらを見る。
そこに見えたのは、襖を開けて、どこかへ走り去る琴音の後ろ姿だった。
「あっちゃー・・・」
ソウビはそう言って掌で目の辺りを覆う。
ウバラと枯野以外、その場の全員、同じ表情をしていた。
「ほれ、なにをしておる。」
「早く追いかけないと。」
使い魔たちに言われて、ようやく氷の解けた枯野は、急いで琴音を追いかけていった。
「おまじないよ?」
ソウビの後ろでウバラがそう訴えるのが聞こえた。
「分かってる。
けど、これからは、枯野には、あれをやっちゃだめだ。」
ソウビはウバラを振り返ってそう言った。
「かれのには?」
「そう、枯野には。」
ソウビはもう一度念を押す。
分かった、とウバラはうなずいた。
「まあ、あとは、枯野次第ということじゃな。」
「このくらいなんとかできなければ、先も思いやられますもの。」
使い魔たちはそう言って、そそくさと朝餉を食べ始めた。
とりあえず井戸の端ところまで走って逃げた琴音は、胸を抑えて、立ち尽くしていた。
どきどきという音が、からだ全体に共鳴しているように感じる。
胸が痛くて苦しいのは、きっと急に走ったからだ。
きっと、そうだ。そうに違いない。
ふと、手桶に汲んだ水に、自分の顔が映っているのが見えた。
そのあまりの醜さに、ぞくりとした。
思わず、袖が濡れるのも構わずに、水に手を入れてかき回した。
こんな顔、自分じゃない。
こんな顔をするなんて、自分じゃない。
かき回すだけじゃ足りずに、手桶を持ち上げると、水をそこへぶちまけた。
「・・・琴音さん?」
名を呼ぶ声に慌てて振り返る。
そこにいたのは、今一番会いたくない相手だった。
「・・・すみません。少し、からだの具合が・・・」
琴音はごまかすようにそうつぶやきながら、枯野から視線を逸らせた。
胸の辺りを抑えて、枯野の脇をすり抜け、逃げ去ろうとした。
その後ろ手を、枯野は掴んでいた。
「具合が悪いのに走ってはいけません。
部屋に戻ってお休みになるなら、俺が運びましょう。」
そう言って軽く琴音を引き寄せると、そのままひょいと抱きかかえた。
あまりに軽々と、一瞬の出来事だったので、琴音が気づいたときには、枯野の腕のなかだった。
「え?
あ。いいえ。
自分で歩いて参ります。」
慌てて降りようとしたけれど、身動きができない。
枯野は、特段、力を込めているようにも見えない。
なのに、何故かすっぽりと嵌ったように、琴音はそこから逃れられなかった。
「無理をしてはいけません。」
優しくたしなめるように枯野が言う。
その声の響きの心地よさと、遅れて伝わってきた体温の温かさと。
あまりに居心地がよくて、もう、ここから逃げようなどとは思えなくなる。
枯野は、すたすたと歩き出そうとしてから、ふと、立ち止まった。
「ところで、琴音さんのお部屋は、どっちでしたっけ?」
翡翠色の瞳が琴音を覗き込む。
間近で目が合って、琴音はひゅっと息を呑んだ。
凍り付いた琴音の表情に、枯野はますます心配そうに眉をひそめた。
「これは、いけません。
お部屋ではなく、お医師のところへ参りましょう。」
くるりときびすを返し、さっきよりも速足ですたすたと歩き出す。
みなが朝餉をとっている部屋に差し掛かったところで、中から椿が声をかけた。
「これ、あるじどの。
朝飯前に何処へ行く?」
「琴音さんの具合が悪いようなので、お医師のところへ。」
「その病につける薬はありません。
連れて来られても、お医師も困るだけです。」
あっさり言った山茶花に、枯野は絶望的な目を向けた。
「・・・まさか、琴音さんは、不治の病なのですか?」
「まあ、ある意味な。」
椿にもあっさり言われて、枯野は、その場にがくりと膝をついた。
もちろん、琴音はぶつけないように、ちゃんと持ち上げてある。
「悪かったな、琴音さん。
ウバラはまあ、この通りの世間知らずだ。
幼子のしたことだと、許してやってくれ。」
ちょうど目の高さに降りた琴音に向かって、ソウビが言った。
「ゆるしてやってくれ~。」
ウバラも悪気などまったくない様子で、にこにこと付け加えた。
ソウビはひょいと立つと、すたすたと枯野の傍まで歩み寄った。
懐からなにやら巾着を取り出すと、中に入っていた真っ黒い丸薬をひとつつまんだ。
「おい、口を開け。」
素直に開いた枯野の口のなかに、その丸薬をぽいと放り込む。
途端に枯野は強烈にむせた。
「うっ、ぐへっ、獣臭っ。」
「うるさい。お前の巣窟の臭いよりはましだ。」
ソウビはけろりと返すと、またすたすたと自分の席に戻った。
それから、おもむろに枯野を見据えて言った。
「いいか、枯野。
琴音の不治の病を治したいなら、お前がちゃんと飯を食え。」
「夜はちゃんと眠るのも必要じゃ。」
「怪我をしないことも大切です。」
使い魔たちもにこにこと付け足した。
「そんなことで?琴音さんが?」
一縷の希望を見出した瞳で、枯野は三人の顔を見回す。
それに椿と山茶花は、そ知らぬ顔をして、うんうんと頷いた。
「そんなこと、ではないぞ?」
「大切なことですとも。」
齢五百年を越える古木の精霊の言うことだ。
枯野はあっさり信用した。
「琴音さん、あんたにもひとつだけ言っておく。」
ソウビは琴音にも顔をむけた。
「枯野の人柄なんか、今さら俺がどうこう言わなくても、あんたのほうがよく分かっているだろう?
枯野は母親の形見の琴を、あんたに預けた。
その意味も、わざわざ俺に言われなくても、あんたなら、分かるだろう?」
琴音は無言で頷いた。
それに、ソウビは少しばかり微笑んでみせた。
「まあ、こいつにもいろいろ問題あるけどね。
単純バカだし、口下手だし。
けど、大事なのは、何を言ったか、より、何をしたか、なんじゃないかと思う。
こういうやつとうまくやっていこう、って思うならさ。」
琴音はもう一度、さっきよりもう少し深く、頷いた。
「なんて、説教臭いこと、俺も言えた義理じゃないんだが。」
ソウビは、へへっ、と口を歪めて笑った。
それから、照れ隠しのように、枯野を叱りつけた。
「おい、分かったら、さっさと琴音さんを下ろして、飯を食え。
折角じいさまが作った朝餉だ。残さず食えよ?」
「あああ、はい。」
枯野はおろおろと琴音を下ろしてから、急いで食膳についた。
琴音も気まずそうにしながらも、自分の席につく。
「よし、いただきます。」
ソウビの合図で、ふたりは急いで箸を取った。




