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食事を済ませ、風呂に入って、その夜は、枯野たちは見世に泊まることになった。
花街では、本来、それは普通のことだ。
しかし、いつも朝に来て夕には帰るようにしていた枯野には、初めてのことだった。
椿と山茶花と競い合うようにして饅頭を食べたウバラは、すっかり満足して丸くなって眠っている。
ソウビは、少し散歩してくると言って、どこかへ行ってしまった。
椿と山茶花は、枯野の話し相手に琴音を残して、裏の仕事を手伝うと言って行ってしまった。
部屋の隅でウバラが寝ているとはいえ、ふたりきりのようにされて、琴音も枯野もひどく焦っていた。
枯野は意味もなく、何度も手を握ったり広げたりしている。
手のひらには、洗ってきたのかと思うほど、びっしょり汗をかいていた。
「・・・琴を、弾いても、よろしいですか?」
間がもたなくなった琴音は、枯野にそう尋ねた。
「あああああ、是非。」
枯野は焦ったまま、何度もうなずいた。
琴を構えると、しん、と心が落ち着く。
寝ているウバラを起こさないように、音を控えながら、琴音は謡った。
ゆらのとの
その途端、突然、部屋の隅で寝ていたウバラが飛び起きた。
だだだっと駆け寄ってきたかと思ったら、いきなり、琴音の膝に甘えるように膝枕をする。
と思ったら、そのまま、また、すやすやと眠ってしまった。
「・・・これは、いったい・・・」
琴音は呆気にとられたまま、枯野のほうを見た。
枯野もどう答えたらいいのか分からなかった。
ウバラがとっぴょうしもないことをするのは、枯野も琴音も了解していた。
当人にとっては、おそらく、ちゃんと理由もあることなのかもしれないけれど。
傍の者に、その理由はにわかには分かり難いことも多い。
それにしても、気持ちよさそうにすやすやと眠るウバラを、無理やり退かせるのもかわいそうだった。
琴音はそのまま寝かせておくことにした。
しかしその体勢では、もう琴を弾くことはできない。
琴音は少しばかり名残惜し気に、口ずさんだ。
ゆらのとの
となかにふれる
なづのきの
「俺の、父親の、名は、由良、っていう、んです。」
琴音の謡を聞いて、ぼそり、と枯野はそう話し始めた。
「それで、母は、この謡が好きで、よく、謡ってた、そうです。」
だから自分もこの謡は好きだ。
うっかり気を抜くと、口ずさんでしまう。
本当はそんなことも言おうとしたのだけれど。
枯野はうまく話せない自分がもどかしかった。
「由良ってのは、どこかの海の名前なんだそうです。
父の両親、俺の祖父母は、そこでのお役目が縁で結ばれたそうで。
だから、父に、由良ってつけたんだ、って。」
妖狐に海の名前はとても珍しい。
枯野の父親は、そう言って、自分の名前をどこか誇らしげにしていた。
「枯野様は?枯野様のお名前の由来はなんなのですか?」
琴音に尋ねられて、枯野は、ああ、と答えた。
「俺の名前は、舟の名だそうです。
由良の海を走っていた舟だ、って。」
琴音はこの謡を教わったときに、風音から聞いた話を思い出した。
「その舟は、とても大きな木から作ったのではありませんか?」
「ああ。知ってらっしゃいましたか。」
枯野は少し驚いたように目を丸くする。
琴音はうなずいて続きを話した。
「海を挟んで、その木の影は、むこうの島と、こちらの山に届いた、って。
とてもとても、大きな木だった、って。」
「その木を伐って舟にしたんですけど、その舟も壊れて、塩を焼く薪にされるんですよ。」
枯野はどこか自嘲的に笑った。
それに琴音は話を続けた。
「その燃え残りを、琴にするのですよね?
その琴もまた、枯野と呼ばれたのでしょう?
その音は、どこまでも、どこまでも、響き渡る、素晴らしい琴だった。」
さやりさやさや。
広く深い海にざわめく水藻に例えられたのは、それが元は舟だったからだろうか。
「素敵なお名前だと思いますわ。」
琴音は静かにつぶやいた。
「形を変え姿を変えても、何度も何度も、素晴らしい働きをする。
枯野とは、そういう立派なものの名前なのでしょう?」
「・・・なんだか、そんなふうに言ってもらうと、嬉しい、かな・・・」
枯野はほんのり赤くなって下をむいた。
「子どものころは、枯れた野っぱらなんて、縁起の悪そうな名だと思ったものだけど。」
「まあ。縁起の悪いなどということはありませんわ。」
琴音は枯野の近くに寄ると、その瞳を覗き込んだ。
「枯野襲、という色目をご存知でしょうか?」
「かさね?着物を重ねて着るときの色合わせ、だったかな?」
枯野はあわてて視線をそらせながら、うろ覚えのように首を傾げた。
琴音は今度は、洗い立ての枯野の髪を見つめた。
「枯野様の髪は、とても綺麗な金の色をしていらっしゃいますね。」
「これは、枯草色、と言うのでは?」
「きれいに洗って梳けば、金の髪ですわ。」
ふわりと波打つ枯野の髪は、夕日に輝く金の草原のような色をしていた。
「そして、枯野様の瞳は、翡翠の玉の色。」
「この目、郷ではあまりよく言われたことがなくて・・・」
枯野は嫌そうに顔をしかめた。
「お母様によく似ていらっしゃると。
おばばさまもそう言ってましたね?」
「父も、よくそう言ってました。
お前の姿は、母さんにそっくりなんだよ、って。」
「お母様は、潮音様は、異国の方だったとか。」
「ああ。そうらしいです。
どこか遠くから、無理やり攫われて連れてこられたんだと。
そんなことを聞いたことがあります。」
「枯野様の瞳は、異国の方の色なのですね?」
「・・・さあ。確かめる術はありません。」
枯野はよほど自分の目の色にいい思いがないのか、うつむいて首を振った。
そんな枯野を励ますように、琴音は明るく言った。
「枯野様の髪と目の色は、枯野の襲の色目そのもの。
それは、冬枯れの草原も、その下に、新しい緑の芽を隠しているという色。
たとえどれほどに辛い状況にあっても、その下には必ず希望は隠れていると。
そんなふうにわたくしは思います。」
「へえ・・・」
枯野は感心したような唸り声をあげた。
「そんなことは知りませんでした。
へえ。
なんか、琴音さんにそんな話をしていただいたら。
なんか、嬉しいって、思います。
この名前も、自分の髪や目の色も。
なんか、好きだ、って思えた、かな。」
ぽつぽつと、枯野はそう言った。
「わたくしは、枯野様の髪も瞳も、とても綺麗だと思いますわ。」
琴音は枯野を見上げて、嬉しそうにそう言った。




