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琴音に手当をしてもらった日、枯野は郷に帰っても、ずっとふわふわした気持ちのままだった。
細心の注意を払って、丁寧に傷を洗い、薬を塗ってくれた琴音の指の優しさが忘れられない。
枯野が傷つくことを悲しむ琴音の気持ちも、申し訳ないと思いつつも、嬉しいと思ってしまう。
けれど、そんな枯野とは裏腹に、漂う琴音の気配は、淋しいという気持ちでいっぱいだった。
琴音さん、なにをそんなに淋しがっているんだろう・・・
ずっと感じ続けていたこの気配が、琴音の心だったことには驚いた。
けれど、それと同時に嬉しくもあった。
いつもいつも、琴音を傍に感じている。
それは、見えない糸で琴音とずっと繋がっていたのと同じだった。
それにしても、琴音のこの淋しさは、枯野にとっても辛かった。
なんとかして慰めたいのだけれど・・・
枯野は、気配のほうへとそっと手を伸ばしてみた。
こんなふうにしたことはこれまでなかった。
気配は、ふわふわと漂いつつ、枯野の手の上に載ったようだった。
枯野はそれを手元に引き寄せた。
目にはなにも見えない。
けれど、そこからじんわりと淋しさが伝わってくる。
枯野は気配を慰めるように、優しく優しく手のひらで撫でた。
琴音自身にはこんなこと、到底できるはずもなかったけれど。
これは琴音の心の欠片。
せめてその淋しさを少しでも慰めたい。
昔、まだ幼かったころ、枯野は突然、夜中に泣き出すことがあった。
理由も分からず、ただ、どうしようもなく悲しくて。
幼い枯野は、真っ暗闇のなか、暴れだすその感情をどうすることもできずに、ただ、泣いた。
そんなとき、枯野の父親は、そっと枯野を引き寄せて、胸のなかに抱きしめてくれた。
ふわりとやわらかなしっぽで、枯野のからだをくるみこんでくれた。
父の胸は広くてあたたかかった。
そうしていると、不思議に安心して、そのうちに泣くのにも疲れて、枯野は眠った。
幾晩も幾晩も、そんな夜があった。
何度も何度も、父親は、枯野をそんなふうに抱きしめてくれた。
枯野はそれを思い出した。
琴音の心は今、あのときの自分のように泣いている。
淋しくて辛くて、途方に暮れている。
琴音の心を、そおっとてのひらに包み込んで、その手を自分の胸に引き寄せた。
ぎゅっと握り締めて潰してしまわないように。
優しく優しく、手に包み込む。
この手の温かさが、琴音の心に届くように。
枯野は祈った。
ゆらのとの
となかにふれる
なづのきの
辺りには誰の気配もない。
枯野は静かに謡った。
本当は、枯野は謡を謡うのが好きだった。
自分の謡は下手くそだけれど。
下手でも、謡うのは、心地よかった。
誰にも聞かれないところなら、こっそり謡うこともよくあった。
琴音は、何度も何度も、枯野に謡を謡ってほしいと言った。
けれど、謡を謡ってはいけないというのは、父との約束だった。
うっかり風呂で謡ったのを、一度だけ、琴音に聞かれてしまって。
どうか忘れてほしいと願ったけれど、琴音は忘れてくれなかった。
それどころか、もう一度聞かせてほしいと、何度も何度もせがまれた。
それでも、枯野は父との約束を破ることはできなかった。
謡を謡えば、お前は不幸になる。
父はそう言った。
いや、自分が不幸になるだけなら、謡ってもよかった。
あんなに琴音が望むのだから、それに答えたい。
けれど、父は、言った。
お前だけじゃない。お前の大切な人も不幸にする、と。
琴音は大切な人だ。
それは間違いない。
謡を謡えば、琴音が不幸になる。
それは、絶対の絶対に、避けなければならない。
結局、枯野は、琴音の望みを叶えることはしなかった。
琴音を不幸にはしたくなかった。
けれど、今ここなら、かまわないだろう。
琴音に聞かせるわけにはいかないけれど。
伸びやかな枯野の声が、夜の森に響いていく。
枯野の清んだ声は、遠く遠く、どこまでも届く。
胸に抱きしめた琴音の心に、この謡を届けたい。
こんな形でしか、琴音の望みを叶えることはできないけれど。
遠く遠くから、いつも自分は琴音の幸せだけを祈っている。
こんなふうに誰かが思っていることは、少しでも、琴音の淋しさを癒せないだろうか。
願い、祈る気持ちが、どこかの神の心を動かすのなら。
どうか、琴音さんのこの淋しさが、少しでも癒されますように。
祈りつつ謡う枯野の手のひらのなかで、ふいに、ふるふると気配は震えだした。
はっとして手を開くと、そこには、螺鈿の七色に光る、小さな鈴が載っていた。
枯野は首を傾げて、その鈴を摘まみ上げた。
月の光にかざすと、鈴は淡く光って、ちりん、と鳴った。
・・・有難う・・・
鈴の音に載せて、そう琴音の声が聞こえた気がした。
枯野はその鈴に紐を通すと、帯に括りつけた。
こうしているといつも琴音がそばにいてくれる。
そんなふうに感じた。
優しく鳴る鈴の音は、もう、それほど淋しそうには聞こえなかった。




