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軟膏を取って戻ると、琴音はせっせと枯野の傷の手当を始めた。
禿たちが手桶に汲んできた水で傷を丁寧に洗い、軟膏をすりこんでいく。
琴音の細い指に軟膏を塗ってもらう間中、枯野はずっとそっぽをむいたまま固まっていた。
「痛くはありませんか?」
傷を洗うときも、軟膏を塗るときも、琴音は枯野をそう気遣う。
それに対して枯野は、喉の奥から唸るような声で、いえ、と言うので精一杯だった。
「動かな・・・、もうしばらく我慢してくださいね。」
動かないでください、と言いかけて、枯野がまったく動いていないのに気づく。
あわてて、琴音は、我慢してくださいと言い換えた。
「・・・は・・・」
枯野の声はようやくそれだけ聞き取れた。
枯野の傷は、どれも血は固まっていたけれど、鋭い刃で切りつけられたような傷だった。
こんな傷を負うような仕事とは、いったいどんな仕事なのだろうと琴音は思った。
枯野の仕事のことは、琴音もあまり尋ねたことはなかった。
客の話す以上のことを聞かないのは、暗黙の了解だった。
枯野の傷の手当をしていると、琴音も自分のからだを傷つけられたような痛みを感じた。
水で洗うときも、薬を塗るときも、どうすれば痛くないか、琴音の指先は細心の注意を払っていた。
「・・・心配は、いりません。」
一心に傷の手当をしていると、頭の上から、枯野のそう言う声が降ってきた。
「こんな傷、すぐに治ります。」
そう付け足した枯野を、琴音はじっと見上げた。
至近距離で目が合って、枯野は、はっと息を呑んだ。
丸く見開かれた翡翠色の瞳が、無防備に揺れた。
琴音は瞳に静かな怒りを込めて言った。
「わたくしには、枯野様の御身を案じることは、許されないのでしょうか?」
「は?
へ?
いや・・・」
琴音の言いたいことが一瞬分からなくて、枯野が混乱する。
それに、琴音は言葉を重ねた。
「大切な主様のお体が傷つけば悲しいのは当然のこと。
どうか、心配するななどということは、おっしゃらないでくださいませ。」
「あ・・・はい。」
叱られたように枯野はしょんぼりと頷く。
元気を失くした枯野に、琴音は、こんなふうに叱りたいわけではないのに、と思いながらも続けた。
「お仕事は大切なものと存じます。
けれど、どうか、お怪我などは、なさないでくださいませ。」
「・・・はい。」
枯野はもう一度、しょんぼり頷いた。
目の前の琴音はあきらかに怒っている。
それだけで、枯野はもう、顔もあげられないくらいに悲しくなった。
うつむいた枯野の耳に、琴音の声が聞こえた。
「・・・ごめんなさい。」
どうして琴音が謝るんだろう、と枯野は思った。
その次の瞬間、なにかが胸のなかに込み上げた。
悲しい気持ちと不安な気持ち、それがせき止めることもできなく込み上げてきて、胸を満たす。
大切な人のために何もできない自分への怒りもそこには混じっている。
複雑な感情に戸惑いながら、枯野は、わずかにそこに違和感も感じた。
琴音に叱られて悲しい。それは間違いない。
けれど、この不安はなんだ?
少なくとも、この不安な気持ちは、自分自身のものじゃない・・・
琴音を怒らせた自分に怒りを感じるのは当然だ。
けれど、この怒りはもっと、無力感と同時にある。
この無力感は、自分の感情とは違う・・・
もうずっと前から、枯野の傍にはいつもなにか、気配のようなものが漂っていた。
その気配にはうっすらと感情の色のようなものがあって、枯野自身もそれに影響を受ける。
気配が嬉しいときには、枯野もなんとなく嬉しい。
気配が淋しいときには、枯野もなんとなく淋しい。
理由もなく、その気配の感情に、枯野自身も同調してしまうのだ。
それは自分自身の気持ちとは、少しだけずれていることもある。
そのことに枯野は気づいていた。
ただ、今、目の前にいる琴音と、その気配とは、まったく違和感なく、同じに見えた。
・・・そうか・・・ようやく、分かった・・・
この気配は、琴音さんだったのか・・・
初めて、あの仔狐のときに出会ったときから、もうずっと、傍にいたのは琴音だった。
ときとして枯野の引きずられる感情は、琴音の心の動きだった。
こうして気づけば、どうして今の今まで気づかなかったのか不思議なくらいだ。
ずっと枯野はいつも琴音のことが気がかりで、いつも琴音のことを思っていた。
自分でも気づかないうちに、枯野は魂の欠片を琴音の傍に残していたらしい。
あらゆる苦難から琴音を護りたい。
その願いは、枯野にそんな能力を啓かせていた。
枯野自身も気づかないうちに。
けれど、気づくと同時に、枯野は不安にもなった。
この事実を琴音はどう思うだろう。
こんな自分を、琴音は気味悪く思うかもしれない。
ずっと、枯野が琴音のことを近くに感じていたなんて。
監視されていた、と思われるかもしれない。
なにより、この事実に気づいて、自分が嬉しかっただなんて。
そんなふうに感じるやつだったなんて、琴音には絶対に知られてはいけない。
密かにそう誓う枯野の耳に、琴音の声が響いてきた。
「枯野様を責めたいわけではないのです。
ただ、この傷を見ていると、自分のからだに傷を受けたように痛みを感じてしまって。
・・・どうして、枯野様が、こんなに痛い目に・・・」
はっとして枯野は顔をあげた。
その瞳には、悔しそうに涙を零す琴音の姿が映った。
枯野の傷に琴音が痛みを感じている。それが分かる。
痛みを感じながら、それをどうすることもできない無力感にも苛まれている。
そうしてそれがなにより辛くて耐えられない。
ただただ、涙が溢れて零れ落ちる。
泣いている琴音の気持ちは、そのまま枯野の胸に流れ込んできた。
「・・・琴音さん・・・」
涙を零す琴音に、枯野はどうしていいか分からないようにおろおろと使い魔たちのほうを見た。
この悲しみは自分のせいだ。
自分が傷ついたことも、心配いらないと軽く言ったことも、琴音は悲しいと感じている。
こんな涙を流させたのは枯野だ。
これはいけない。なんとかしないといけない。
気持ちは焦る。
けれど、何をしていいのか分からない。
しかし、使い魔たちは素知らぬ顔をして、いっこうに助けてくれる様子はなかった。
「あ。あの。琴音さん・・・」
「・・・ごめんなさい。」
「いや、あの・・・」
「・・・枯野様・・・」
琴音は枯野の大きな手を両手で包み込むと、そこに額を押し当てるようにして泣いている。
枯野は手を捕まえられたまま、ひたすらとにかくじっとしていた。
こんなふうにぎゅっと手を握ってもらって嬉しい、なんて、思っている場合ではないのだけれど。
嬉しい。
琴音が泣いているのに、悲しんでいるのに。
それを喜ぶ自分をあさましく思うのに。
それでも、嬉しい。
複雑な感情に、ますます狼狽える。
琴音の手は温かい。
伝わってくる悲しみが、温かい。
悲しませていることに罪悪感を覚えながらも。
その罪悪感さえ、どこか甘やかな歓びを伴っている。
・・・まずい。やばい。
俺は、どうしたんだ?
どこか壊れたのか?
おたおたとそんなことを考え始めた枯野の耳に、からからと笑う椿の声が響いた。
「まあ、そうそういつも力押しばかりせず、たまには頭も使えということじゃ。」
椿はそう言って、枯野の背中をぱしりとはたいた。
軽くはたいたように見えたけれど、意外に力が込められていて、枯野はぐへっとむせた。
「琴音が心配しますから、もう少し、自分を大切にしましょうね。」
そう言った山茶花に、枯野は、素直にはいと頷いた。




